336.すれ違った未来
闇に飲まれた森の中、男は独り、そこにぽつんと立っていた。
男はランタンを右手に持ち、ぼんやりと立ち尽くしている。無言かつ身じろぎもしない男はまるで人形のようだ。
ランタンの明かりで照らし出される白い肌が、更に作り物のような印象を強くする。時折見せる瞬きが無かったなら、人であることに確信が持てなかったかもしれなかった。
かつてそこにあったはずの屋敷は、跡形も無くなっていた。破壊された正門も、寂れた屋敷も、全てがどこかへと消えていた。
男の目の前にあるのは草の生えない、茶色の土が広がる空間だけだ。まるで区画を設けられたように広がる不自然な茶色。その不自然さが、かつてここに屋敷があったことを明確に語っているものの、しかし男はどうして消えてしまったのかまでは思い至る事はできなかった。
理解できない現実を目の前に、立ち尽くす男は呆然としつつ思考に微睡む。
その思考は最近の事から始まって、徐々に過去へと遡っていった。
アーリンアッド襲撃後、思う事があり足をここへ向けた今夜。
手勢を引き連れこの屋敷へと向かった一昨日。
闇の精霊を連れた人族がこの町に来たのが三日前。
そこまでは鮮明に思い出せたものの、それから先はおぼろげで。
男の記憶は更に更にと、過去の深淵へと沈んで行く。
アーリンアッドが守っていた忌み子が屋敷を抜け出したと聞き、追っ手を放ち殺そうとした事や。
森へと迷いんだ光の精霊に対して、一族を守るため討伐すべきとアーリンアッドと激論を交わした事。
初めての娘が生まれ、そのあまりの儚さに感涙した事もあった。
男の記憶は男の意思に関係なく、泡沫のように浮き上がり消えて行く。
死に際、瘦せ細った父が弱々しく自分に託した一族の望みを。
死期が見え始めた父と、最後に飲み交わした酒の不味さを。
自分の護衛として長年仕えてくれた幼馴染を妻に迎えた時の、今は亡き彼女の仄かに朱に染まった頬を。
不幸な記憶も幸福だった記憶も関係なく、記憶の海は底へと沈む。だがいつしかその記憶の底が見え始め、泡の一つも見えなくなってきた頃に。
一つの記憶がふくりと浮き上がり、男の前でぱちんと弾けた。
「オズヴァルド。お前はいつの日か私に代わり、アーリンアッドを支えるのだからな。文武両道、どちらも疎かにしてはならんぞ」
今からもう二百年以上前の記憶。その時、男はまだ子供だった。
父もまだ壮健で、逞しい体に背筋を伸ばし、いつも厳しい顔で男を見ていた。
父は言い聞かせるように、よく男にそう口にした。男は父が好きでは無かったが、しかし当時、大きな手で自分の頭を撫でる父の目が優し気だったのを、どうしてかよく覚えていた。
ふわり。もう一つ泡が浮き上がり、男の前でゆらゆら揺蕩う。
記憶に映るのは一人の人物。彼は父の親友で、屋敷に顔を見せる事が度々あった。
幼い自分は彼が来ていると聞くといつも勉強を放り出し、護衛であり幼馴染でもある少女が止めるのに耳も貸さず、父の部屋へと走ったものだ。
父と彼はいつもそこで会話に興じていた。楽し気に笑っている時もあれば、難しい表情をしている時もあった。
――様! いついらっしゃったのですかっ!?
しかし男が部屋を訪れると、父は苦笑を滲ませて、そして彼は愉快そうに笑うのだ。
――オズヴァルド、まずは挨拶くらいせよ。
――良い良い。男児はこのくらい元気でなければ。
彼にこちらへ来いと手招きされ、男は喜んでそちらへ近寄る。そして慌てて追ってきた護衛の少女を控えさせると、父と彼と机を囲み、菓子を頬張りながら男は機嫌良く話すのだ。
大人二人には他愛のない話だったろう。しかし父と彼は男の話を、いつも楽し気に聞いていた。
そして暫くすると執事がそろそろ時間だと自分を呼びに来て、渋々男が立ち上がると、彼はいつもこう言った。
――オズヴァルド、より一層励むが良い。一族の未来を頼むぞ。
――はいっ!
かつて夜王と呼ばれた誉れ高き一族の王。そんな憧れの相手に目を細められ、嬉しさから思わず声が大きくなった事を、男はなぜか今思い出していた。
ぱちんと最後の泡が消え去って。
男は両膝を地面に突いた。
男のそばには誰もいない。暗闇の中、独りきりだ。
多くの手勢を失った。彼と共に歩もうと決意した戦友の多くも失った。
スフレイヴェル伯爵は心臓を一突きにされ命を落とした。
プリンセン侯爵は顔の左半分を叩き潰され、命こそ助かったものの左目と体の自由を失い、戦士として再起不能となった。更には息子も失って、侯爵家自体も存続の危機に陥っている。
クラメル子爵は喉を切り裂かれ声を失い、魔術師としての生命を断たれた。当主の座すら引かざるを得なくなり、子爵家の立場は更に悪化する事となった。
娘のルチアは部屋に閉じこもり、ベッドに潜って今も震えている。
一体あの戦いに何の意味があったのだろう。男はあの時、夜王との戦いは絶対に避けては通れないと信じていた。
だが終わった今振り返れば、得られたものは果たしてあったのか。
幼き頃、一族に心から敬われる闇夜族の王はいつの日にか立ち上がり、一族を再び森の外へ導いてくれると思っていた。
自分の周りには父や幼馴染の少女、そして敬愛する彼がいて、毎日楽しく穏やかな日々が流れていた。そんな小さな幸せがずっと続いていくと信じていた。
だがそんな思いに反して、彼は五十年経っても百年経っても、何の行動もしなかった。
闇夜族の数は年を追うごとに徐々に減っていく。滅びの日が近づいているのは大人ならば誰にでも分かった。
妻も死に、父も死んだ。だのに、彼は動く気配を微塵も見せなかった。
そればかりか彼は父の亡くなったしばらく後に、皆が引き止めるのを気にもせず、一方的に引退を宣言して政的な場に顔を見せなくなったのだ。
男は彼を信じていた。一族を救えるのは彼だけだと心の底から信じていた。
だがそんな男の思いを、一族の願いを、彼は裏切った。男の抱く深い敬愛と信頼を、他愛のない幻想のように容赦なく踏みにじった。
気付けば男の抱く感情は、いつしか深い憎しみへと変質していた。
「私は……一体、何がしたかったのだ……」
両手を地面に突いて男は溢す。自分がかつて一族を栄光へ導いてくれると信じていた彼は、自分自身を敗北者だと言った。男を一族の希望だとも口にした。
何かをしようとする度に口出ししてくる彼の事を、男は自分を邪魔するだけの老害だと忌々しく思っていた。
しかしあの戦いの中で彼が放った言葉に、男は嘘を感じなかった。
初めから、腹を割って話をしていれば済んだ話だったのか。そう考えるに至った男の口からは、無意識に言葉が漏れ出ていた。
「私は。私は……間違っていたのか……?」
自分が勝手に思い込んで、独り相撲をして、仲間に甚大な被害を出し、彼の姿も森から消えた。
かつて父と彼は側近と王の立場だったが、しかし彼らは親友でもあった。きっと腹を割って話をしたことも多かっただろう。
だが今の自分には果たしてそんな存在はいるだろうか。
もしかしたら。
何かが変わっていたら。
彼が自分の相談役になっていた未来も、あったのかもしれない。
彼――夜王レイグラムは言った。一族を率いるのであれば、易々と死ぬことは許されないと。
男、キールストラ侯爵家当主オズヴァルドは、この厳しい状況の中、たったの独りで歩いて行かなければならないのだ。
光が苦手な闇夜族。しかし一族の誰もが願い焦がれるのと同様に、オズヴァルドもまた、いつか光溢れる地をこの手にと強い憧れを抱いていた。
だが己の未熟、そして浅はかさを突き付けられた彼にとっては今、この闇だけが救いだった。
課せられた使命の重さを今初めて自覚して、オズヴァルドは立ち上がる事ができずにいた。
深い闇に抱かれたまま、両手両足を地に突いて、頭を深く垂れ続けている。
その姿はどこか、懺悔にも似ていた。
これにて第六章は終わりです。いかがでしたでしょうか。
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