330.覚悟の向く先
(だ、誰だ、こいつは……?)
シャドウの中から現れた一人の男。俺は最初、それがスティアの親父さんだと思っていた。
なにせシャドウの中にいたのはノエルと負傷した親父さん、そしてロナの三人だけ。そしてこの場に戦闘ができないロナが出てくるわけがない。
だから俺は二人の人影が現れたのを見て、消去法でノエルと親父さんの二人だと思ったのだ。
だがどうだ。ノエルと共に現れたのは、腰の曲がった老人ではない。
杖を突きこそすれ背筋をピンと伸ばした男が立っており、侯爵を真っすぐに見据えていたのだ。
状況が分からず、俺は片膝を突いたまま男の背中を見つめていた。だが男はそんな俺を置き去りに、足を前に踏み出し、侯爵とスティアへ近づいて行く。
激しくぶつかり合う二人は最初、男の存在に気づいていなかった。だがあと数歩で間合いに入るという距離まで近づくと、流石に気付いたらしい。
侯爵は攻撃を防いだスティアを大きく弾き飛ばすと、男へ鋭い目を向けた。だがその後侯爵が見せた反応は、こちらの予想を大きく超えたものだった。
「――な!? ば、馬鹿なっ!? どう言う事だ!?」
今まで太々しい程余裕だった侯爵が、目を見開き大声を上げたのだ。
顔には驚愕をありありと浮かべ、男を信じられないと凝視している。その反応はあまりにも顕著で、こちらが驚いてしまう程に激しいものだ。
だがその後侯爵が放った一言は、俺にそれ以上の驚愕を与えた。
「その姿――まさかずっと我らを謀っていたと言うのか! 返答次第では許さんぞレイグラムッ!!」
俺は思わずその男の背中を凝視する。レイグラム。それはスティアの親父さんの名前だった。
確かに男の服は所々黒く焦げているし、右手には杖を持っている。だが男は明らかに老人でなく、見た目は俺が知る親父さんとは全く異なっていた。
(どういう事、だ? 若返った……のか!?)
俺が正門で傷ついた親父さんを回収した時は、確かに老人の姿だった。だから何かあったとすれば、シャドウの中にいた時だろう。
だが俺の持ち物で、人を若返らせる事のできる物なんて無かったはずだ。そんなヤバイブツを持っていたら、流石の俺でも忘れるはずがない。
「お、父様……? そのお姿は、昔の……っ」
ぜいぜいと荒い息を吐くスティアも、信じられないような物を見る目で彼を見つめていた。
だがその視線と声に含まれるのは、驚きだけでない。懐かしむ様な感情も僅かに滲んでいて、それを理解した親父さんは、娘に柔らかな声を掛けた。
「よく頑張ったなラスティ。こんなにも逞しく成長してくれたとは……感無量とはこういう事を言うのだな」
突然かけられた言葉に大きく目を見開くスティア。そんな彼女を親父さんは見ていたが、それも束の間。彼はすぐに侯爵に目を向ける。
「ここから先は私に任せて下がっていなさい。お前も思うところがあろうが、しかしこの男とは少し話がしたいのでな」
彼はそう言うと、
「だがその前に、だ」
と、左手を軽く横に払うような仕草をした。
「おっ」
「あっ」
俺とスティアの声が重なる。先程から俺達の体にまとわりついていた血の霧が、突然ぱっと離散したのだ。
魔力の欠乏症状は残っているものの体の重さが多少マシになり、俺はその場に立ち上がる。スティアも構えていた短剣をだらりと降ろすと、安堵したようにふぅと重い息を吐き出した。
これに侯爵が忌々し気に親父さんを睨め付ける。だが彼はそれを涼しげな顔でさらりと受け流していた。
なるほど、親父さんも操血術とやらが使えるのか。まあ闇夜族の王なんて呼ばれていたくらいだし不思議ではないか。娘のスティアもそれっぽいのが使えるしな。
納得しつつ、俺はようやっと影から出て来た魔法の霊薬をパシリと受け取ると、乱暴に封をむしって口に流し込んだ。
かあーっ不味いッ! だがこれで体の不調は元通りだ。親父さんは任せろと言ったが、この状況で丸投げするわけにもいかないからな。
俺は瓶を影の中へ落とし、置いていた剣をかがんで拾う。その間、親父さんと侯爵は、厳しい表情で睨み合っていた。
「謀っていたわけでは無い。私にも予想外の事だったのだ」
「そんなわけがあるか! 一度老いた者が若さを取り戻すなど聞いた事が無い! どうせまた何か隠しているのだろうっ!」
静かに否定する親父さんと、眉を吊り上げ怒鳴り声を上げる侯爵。二人の態度は対照的で、まるで水と炎だった。
憤怒の表情の侯爵は、親父さんの話をまるで聞こうともしない。そんな相手と対峙する親父さんは、
「隠す事など何もない。だが何かあったとするなら、そうだな――」
と静かに言った後、一拍置いて続けて言った。
「ルピナス様が言って下さったのかもしれん。私に、まだ生きろ、と」
親父さんの心には、大きな歓喜が溢れていた。彼の言う通り、この若返りは本当に予想外の事だったのだろう。
その言葉に嘘が一切無い事を俺は感じる事ができた。だが目の前の侯爵にはそれが伝わらない。
いや、そもそもが、信じようという気持ちが無かったのかもしれない。
歯頚が見える程歯を食いしばり眉を吊り上げた侯爵は、地の底から湧き上がるような声を口から吐き出したのだ。
「貴様はいつもそうだ。肝要な事は全く話さず、己一人で事を進めようとする。貴様の秘密主義には辟易する! どうせ我らの事など路傍の石程度にしか思っていないのだろうっ!」
侯爵の胸の内は、まるで憎悪の坩堝だった。どうして奴はこれほどまでに親父さんを憎むのか、俺には理由が分からない。
だがこうまで憎む相手との会話など、成り立つわけがない事くらいは分かる。親父さんもきっとそう思ったのだろう、軽く頭を振り話題を変えた。
「さておき、お前の操血術が意味をなさなくなった今、勝敗は決したも同然だ。最早これ以上戦う意味は無いように思うが、どうする小僧」
「馬鹿な事をっ! この程度で負けを認めるくらいならば、初めから戦いなど挑むものかッ!」
これに対して侯爵は、唾を飛ばす勢いで食って掛かった。
「そうか。ならばここから巻き返す貴様の一手を、私に見せてもらおうか」
「いつまでも余裕でいられると思うなよレイグラムッ。先程貴様の娘にも言った事だがな、今貴様にも言っておこう」
「何?」
俺の位置からでは親父さんの表情を見る事ができない。だが侯爵が浮かべた表情は、俺にははっきり見えていた。
「我らの最大の狙いは闇の精霊を手中に収める事ではない。――ここで貴様の首を取る事だとなァッ!」
今まで見せていた不遜とすら思える余裕の表情を消し去って、侯爵は鬼気迫る笑いを浮かべながら、親父さんへと飛びかかって行ったのだ。
「お父様っ!!」
スティアの悲鳴のような声が響く。だが侯爵が止まるはずも無く、奴は躊躇いも無くその長剣を振り上げた。
「はぁぁぁぁあーッ!!」
侯爵は猛然と親父さんに切りかかる。その一撃は先程までの俺なら、受けるだけで精一杯の強烈な一撃だった。
だがそれに対して親父さんは、すっと木の杖を前に向ける。そしてなんとその杖で剣身を打ち、軌道を逸らして防いでしまったのだ。
「ぬおおおおおーッ!」
次々に剣を振るい切りかかる侯爵。しかし親父さんはその場を動きすらせず、奴の剣を杖で華麗に捌き続ける。
何という事だ。俺とスティアはその様子を、ぽかんと口を開けて見つめていた。
「ご心配の必要はございませんよ」
「ノエル」
いつの間にか近寄っていたノエルが声を掛けてくる。こんな状況だと言うのに、彼女の声は心なしか弾んでいるように聞こえた。
「あの程度の腕でしたら旦那様が後れを取る事はございませんので」
ノエルは自慢そうにそう口にする。確かに、たかが木の杖で金属製の剣を捌くなど、相当の技量が無ければできない達人技である。更に言えば親父さんは先程から一歩もその場を動いていなかった。
その事実が二人の実力差を如実に語っている。侯爵もそれを理解しているようで、苦虫を噛んだような表情をしていた。
「チィッ、流石にやるようだなレイグラムよ! だが貴様は私に傷一つ付けられぬ! この鎧の前ではどのような刃も通らん事を、貴様も承知しているはずだ!」
「蟲人族の甲冑を鍛えた鎧か……また古めかしい物を持ち出したものだな。まあ確かにそれを壊すのは私にも無理だが」
「ならばその木の杖一本でどう私を倒す! 策があると言うのなら見せてみろ! 無駄だと思うがな!」
二人の戦闘は更に苛烈になっていく。あの緋緋色金とかいう奴は、元々蟲人族の甲冑なのか。聞いて昨日戦ったギィドの事を思い出す。
奴は俺の魔剣の全力も、精技も使わず耐えて見せた。確かにあの硬さなら剣で傷なんて付かないだろうし、ましてや木の杖では言わずもがなだった。
しかし親父さんの胸の内は、ざわめき一つ起こっていない。まるで月の浮かぶ深夜のように静かで、しかしそれでいてその奥に、確かな光を宿していた。
「……蟲人族の甲冑は精により際限なく硬度を増す性質がある。その鎧もまたその性質を持っているが、しかしそれには限界があってな。蟲人族の能力を完全に再現できなかったのだ」
侯爵の攻撃を捌きながら、親父さんは淡々と言葉を紡ぐ。親父さんが何を考えているかは分からない。だが、何かを狙っている事だけは分かった。
「それにその鎧は蟲人族が抱える弱点を、克服する事ができなかった」
「おおおおおおっ!」
侯爵の体から白いオーラが立ち上る。対する親父さんの体からも、白い靄が立ち上り始めていた。
侯爵のオーラは剣へと移り、剣身を白く輝かせる。対して親父さんはどうしてか構えを解き、杖を地面にさくりと突いた。
「”疾風斬”ッ!」
侯爵は速度に特化する精技を放った。疾風の剣撃が親父さんを襲う。あの速さではいかに達人であろうとも、ただの木の杖で捌く事は不可能に思えた。
それに今親父さんは杖を突いた状態で無防備だった。これは防げない。
不味い――俺がそう思った瞬間だった。
親父さんが杖の持ち手を捻ったのを、俺の目は見逃さなかった。
(――仕込み杖!)
杖から現れたのは一本の刃だった。親父さんはまるで居合抜きのように刃を杖から抜き放つと、その一撃で侯爵の精技を弾き飛ばした。
「な――!?」
顔に驚愕を張り付ける侯爵。そんな彼に親父さんは一歩踏み出すと、がら空きの胴に左手をそっと添えた。
「”発勁”」
それは内側から敵を破壊する、貫通力に優れた一撃だった。
「――ゴハッ!!」
”発勁”は中級精技、人がまともに食らって耐えられる技では無い。
侯爵は口から鮮血を噴き出すと、膝から崩れ落ち両膝を突く。そんな彼を親父さんは、どこか悲しそうな瞳で見つめていた。
「かつての闇夜族達は伝説の金属にちなみ、形になったこれを緋緋色金の鎧と呼んでいた。だがその実態は伝説にあやかっただけの、蟲人族の劣化品よ。だからこそその鎧は傷一つ無く、そして一つしかないのだ。劣化品を着て戦場に出るなど恥でしかないからな。キールストラ侯爵家はそんな事すら忘れたと言うのか」
「く……そ……っ!」
確かに、敵である蟲人族の甲冑から構想を得て作った鎧がただの劣化品だったなら、戦場に着てなんていけないだろう。当然の理屈である。
何も言い返す事もできず、侯爵は苦し気に親父さんを見上げている。親父さんは呆れた様子で彼を見下ろしながら、その喉元に刃を突き付けた。
「これで投了だ。潔く負けを認めろ、小僧」
侯爵は何も言い返せない。しかしその目が、顔が、そして感情が、未だに猛る戦意を語っていた。
二人は無言のまま見つめ合い、視線で意思を伝えあう。どうにもならないと悟り口を開いたのは、親父さんの方だった。
「まだやるつもりか?」
「無論だっ! 私はこの戦い、自らの命を賭けて戦う覚悟で立ったのだ! 私はまだ生きている! 戦える! 私の命ある限り、この戦いは終わらないッ!」
侯爵はまるで狂犬のようにがなり立てる。その姿は今までの奴からは、全く想像できないものだった。
一体何が奴をここまで必死にさせるのだろうか。何も分からない俺は、彼らを見ている事しかできなかった。
「貴様と私、どちらかが死ぬまでこの戦いは続くのだ! もし仮に貴様がここで私を見逃しても、私はまた貴様に牙を剥くぞ! 収めたいのであれば、今この場で私をその剣で殺すがいいッ!」
侯爵はどちらかが死ぬまで争いが続くと咆えた。確かにこんな狭い町で殺し合いのいざこざを起こしたら、最終的にそうなるのも止む無しかと俺も思う。
「さあ! やってみろレイグラムッ!」
果たして親父さんの返答は。俺は彼に目を向ける。
そこにあったのは、激しい怒りに燃えた背中だった。
「この……愚か者があッ!」
それは突然の事だった。
親父さんは大声を上げて、侯爵の頬を殴り飛ばしたのだ。
「このような内輪揉めで命を賭けるだと? お前の志は! 命はっ! そんなに安いものなのかッ!!」
尻もちを突いた侯爵へ、親父さんは豹変したように激昂し始める。それはあまりにも突然の事で、侯爵も驚愕の表情で彼を見上げていた。
「我々闇夜族が直面している危機を何とかしたいと願っているのだろうっ!? こんな場所で、こんな形で、何も成せぬまま死ぬことがお前の望みなのか!? それがお前の本懐か! 答えろオズヴァルドッ!!」
親父さんは拳を固く握りしめて、侯爵に大声を浴びせている。だがそれは意外な事に、怒鳴ると言うより叱っているように俺の目には映った。
侯爵もこの反応は思ってもいなかったのだろう、目を見開いて固まっている。
沈黙が二人の間にしばし流れて、親父さんの吐いた嘆息がその場に響いた。
「私はな、この一族の危機を任せられるのはお前しかいないと思っていたのだ。お前の父、ファウストともそんな話をよくしたものだ。一族の危機を救えなかった我らロートルの時代はもう終わったと」
「ち、父上、と?」
「ファウストの奴は最後まで納得しなかったがな。だが私は一族を率いる器でなかったと、三百年前思い知ったのだ。それに当時と同じ熱量を持てる程若くも無い。一族の未来は次代に託すと、人族を前に敗走した時点で既に、私は決意していたのだ」
侯爵は夜王というものに強い執着があるようだった。だからこそ、本人からの言葉は彼に強い衝撃を与えたようだ。
侯爵はわなわなと震えながら、絞り出すように声を上げる。
「ば、馬鹿な。お前は、夜王だろう? この闇夜族の頂点に立つ、揺ぎ無き栄光の闇夜族の王――」
「何が栄光なものか」
まるですがるような声をだす侯爵。だがこれを親父さんは鼻で一蹴する。
「私は敗者だ。一族が抱える困難を打開するため三百年前一族を率いて戦い、そしてこの森へと逃げ帰った。私は一族に未来を見せる事は叶わなかった。敗北者なのだ、私は」
だからこそ、と親父さんは言葉を続けた。
「私の過ちを背負わなければならないお前の力になれるなら、ここで死んでも惜しくはないと思った。だが――私もどうやらまだ死ねんようだ。尚更お前には強くあってもらわねばならなくなった。この闇夜族の未来のために」
そうして親父さんは、侯爵に向けていた刃を下ろした。
「お前は我ら闇夜族の希望。だからこそお前の命はお前だけのものでは既に無い。己のために生き、己のために死ねると思うなオズヴァルド。一族の未来を切り開くまで死ぬ事は許されぬ。生き意地汚くとも 、石に噛り付こうとも、一族最後の一人になるまで死ねぬ覚悟を持て」
命を賭けて戦う覚悟ではなく、死すら許されぬ覚悟を。それは誰を犠牲にしても自分だけは生き残れと言うに等しく、あまりにも非情かつ苛酷な要求であった。
親父さんは侯爵を闇夜族の希望と言った。それはかつての闇夜族の王が、己の座を明け渡すに等しい宣誓だった。
侯爵が親父さんの首を狙ったのは憎しみもあったのだろうが、だがそれ以上に一族を率いる者――つまり夜王の座への執着だった。
それはつまり、ここで争う理由の大半を失わせるものだった。侯爵の漲っていた戦意が、まるで底が抜けたかのように急速に萎んで行く。
実にあっけない終幕だ。
だが、俺達の戦いはそうして終わった。