324.そう呼ぶ理由
正門を埋め尽くす紅蓮の炎が天に向かって吹き上げる。赤で埋め尽くされた光景を、スティアは立ち尽くして見つめていた。
敵である闇夜族達ですらあまりの猛火に口を半開きにしている。普段から炎魔法を嫌っている彼らは、このような巨大な火炎を未だかつて見た事がなかったのだ。
無言で人々が見つめる中、炎はゴウゴウと音を立てて猛り続けている。森をも焼き尽くさんばかりの勢いで燃え盛っていた炎は、たっぷり十数秒程も猛り狂った後にやっと火勢を弱め、その場からふわりと消失する。
そこには瓦礫の山と化した正門と黒ずんだ地面以外に、何も残っていなかった。
「あ……ああ……」
父親の姿すら残らなかった事に、スティアは言葉が出なかった。闇夜族達も凄まじい火魔法に唖然として、言葉を発する事ができずにいる。
激しい戦闘音が鳴り響いた戦場は一転、耳が痛い程の静寂に支配されていた。
「……クラメル子爵。どういう事だ」
皆が無言になるそんな中、最初に言葉を発したのはオズヴァルドだった。
「貴様、わざと狙いを外したな? あの男、まだ生きているではないかっ!!」
オズヴァルドは怒りに任せて正門脇――今はもう瓦礫の山に成り果てた場所に指を向ける。そこには彼の言う通り、瓦礫に埋もれブスブスと煙を体から噴き上げながらも、地面に伏せて苦し気に顔を上げているレイグラムの姿があったのだ。
そこはレイグラムが先程までいた所から少し離れた場所である。レイグラムが魔法を避けたのかと頭に浮かぶも、しかし立つのもやっとだった彼が、魔法が当たる瞬間にあんな場所へ逃げられたとは思えない。
であれば一体なぜあんな場所にいるのか。オズヴァルドは先程の魔法が、強い突風をまとっていた事にすぐに思い至っていた。
着弾時に狙いを外していたならば、爆風で弱々しい老人一人吹き飛ばすくらいできただろう。オズヴァルドは敵を見るような目で隣の男を睨みつける。人を射殺さんばかりのその視線に、痩せぎすの男はびくりと体を震わせた。
「キ、キールストラ卿。やはり、考え直されてはいかがかでしょうか……? あのアーリンアッド家を落とそうなどと」
追及され、男はおずおずと口を開く。だが態度こそ弱々しいものの、その口にした内容はオズヴァルドに異を唱えるものであった。
オズヴァルドはぴくりと眉を動かして、その後徐々に顔を厳しいものへ変えていく。これに男は身を強張らせるが、しかしそれでも目を逸らさず、じっとオズヴァルドを見返していた。
彼はクラメル子爵家当主、カームウェル。この闇夜族の中で最も火魔法に卓越し、上級魔法すら使いこなす凄腕の魔術師であった。
先ほどの”獄炎竜の咆哮”も中級魔法ながら上級かと見紛う威力であり、その事が彼の実力をありありと物語っていた。
魔法使いの域を凌駕する腕をまざまざと示したクラメル子爵。しかし彼がそれを誇る事は、今も昔も一度もない。
なぜなら闇夜族は火魔法を嫌う種族であり、一族一番の火の使い手である彼の事も、放火犯という蔑称で蔑んでいたからだ。
クラメル家を見下さない者は闇夜族の中にはおらず、それをクラメル子爵も知っている。だから彼は自分を誇る事は無かったが、だが同時にこの事も知っていた。
この閉じられた森の中でたった一つだけ、例外があった事を。
「どういう事だクラメル子爵。まさかこの期に及んで腰が引けたか」
「こ、腰が引けたなど。ですがアーリンアッド家は、未だに一族に強い影響力があります。このように武力で排しては、良く思わない者達もいるのではないかと愚考したまでで」
クラメル子爵家は三百年前、クラメル侯爵家であった。それは三百年前の聖魔戦争で多くの人族を葬った功績によるものであったが、しかしそんな偉業は長い年月を経るにつれ忘れ去られ、残ったのは火魔法を使うという、周囲からの蔑んだ感情のみだった。
クラメル侯爵家は百年経つと伯爵家となり、そしてその五十年後には子爵位にまで降ろされた。男爵となるのもそう遠くない未来だと、クラメル家はいずれ迎える凶報に怯えながら日々を暮らしていた。
嫌悪されるクラメル家がまだ生活できるのも子爵位あっての事。これ以上立場が悪くなれば、家はもう滅びるより他なくなってしまう。
そう思いながら百五十年が経った今、彼らは未だに子爵家であった。
降爵とならなかった理由は分からない。だがカームウェルはそこに何者かの力が働いている事をうっすらと察していた。
「この場はアーリンアッドを手中に収めるのみで済ませる方が良いかと、差し出がましくも進言させて頂きたく……」
おずおずと言いわけを口にするカームウェル。しかし彼の心中を見透かすように、オズヴァルドはこれを一笑に付した。
「それを心配するのは貴殿ではなく私だ。そして、その私が良いと言っているのだから良いのだよ、クラメル子爵」
「ですが――」
「それともアーリンアッドに寝返るかね? いや、この場合表返るとでも言うべきか? なあクラメル子爵……私はそれでも一向に構わんが」
凍るような目で見つめられ、カームウェルはごくりと唾を飲み込んだ。だが同時に彼は思いがけず、長年の疑問に対しての答えも得ていた。
(やはりレイグラム様が働きかけて下さっていたのかっ! 確信は無かったが……でも、それならどうしてクラメル家を庇うような真似を……? 御自身も一族の中での立場は悪いはずなのに……)
やはりアーリンアッドが自分達の権威を守ってくれていたのだ。複雑な思いが頭を巡るものの、だが悲しいかな今は戦いの最中で、彼はそんな恩人に弓を引きここに立っていた。
(僕は。僕は長きに渡る恩人に手を下すのか?)
一人の人間としてそう思うのは当然の感情だ。しかし子爵家当主である彼は同時にこうも考えた。
アーリンアッドは遅かれ早かれ終わってしまう。
今キールストラにつかなければ、クラメル家は終わってしまう、と。
「さてどうする?」
余裕の眼差しでオズヴァルドが問いかけてくる。彼は奥歯を噛み締めた。
多大な恩を仇で返す行為になる。しかし家の存続を――妻や子供達、それに少ないながらもこんな家に未だ仕えてくれる家臣達の事を考えれば、自分の取れる行動はこれしかなかった。
「火の精霊、サラマンダーよっ!」
カームウェルは再び杖を正門へ向ける。視界には多くの戦う同族が映り込んだが、どうしてか彼の目は、たった一人で自分達の前に立ちはだかった女性の、必死の表情を映していた。
「貴様、止せ! 止めろ! この――! どけっ! どけ有象無象共がっ!」」
「諦めろ。貴様達の運命はもうここで終わっているのだ!」
詠唱を止めようと必死に抗うスティアの前にディルクが立ちはだかる。他の闇夜族達も次々に襲い掛かり、彼女の足を釘付けにする。
カームウェルが唱えるのは中級魔法。詠唱は程々に長く、短くはない。
だがその長さはスティアが敵の猛攻を振り切れる程に、長い時間を要するものでもなかった。
「”獄炎竜の咆哮”ーッ!」
再び火炎が逆巻き、竜の顎が開かれる。炎の竜はくびきから解き放たれたようにカームウェルの杖先から飛び出して、再び倒れ伏すレイグラムへと襲い掛かって行った。
「止めろぉぉおーッ!!」
咆哮のようなスティアの叫びが轟く。だがそれが一体何の役に立とうか。
赤々と燃える竜は、今度は寸分たがわずにレイグラムへと飛翔する。
そして倒れ伏す彼を噛み砕こうと、火竜は牙を剥いて彼に襲い掛かり――
「随分派手にやってるじゃねぇか」
頭上から一閃。振り下ろされた魔剣に切り裂かれ、炎の竜はゴウと激しい断末魔を上げた。
「あ、あ、あ……!」
逆巻く炎がきらきらと輝く火の粉となって散って行く。闇夜族達がそれを信じられないと目を見開く中、スティアはその中央に立つ男だけをその赤い瞳で見つめていた。
いつもそうだ。あの人はいつも自分を助けてくれる。
独りで生きて行こうと決めていたのに、おせっかいにも首を突っ込み自分を人の輪の中に引きずり込んでくれた人。
そこでの暮らしは諦めきっていた人生に、かつてない彩りを与えてくれた。
それだけでも幸せだったのに、彼は自分と共に歩きたいとまで言ってくれた。
その時はあまりにもちっぽけな自分と、光のように眩しい彼があまりにも見合わなくて断ってしまったが、その後も彼は変わることなく自分との関係を続けてくれた。傍にいさせてくれた。
その事が彼女はあまりにも辛くて。
でも、何よりも嬉しかった。
生きる意味を与えてくれた人。
何もない自分に価値を見出してくれた人。
そんな大切な人だから、彼女はその人を心からこう呼んだ。
「貴方様っ!!」
その声に、彼はいつもと同じく余裕たっぷりに不敵に笑った。
「待たせたな」
彼は右手の魔剣を振り払う。
火竜の残火はそれだけで、残らず溶けて消えていった。