323.生きる意味、戦う理由
「我らの闇魔法で忌み子を葬り去ってやるのだ! さあ、始めろっ!」
『はっ!』
ディルクの号令を受け、周囲の闇夜族達は一斉に闇魔法の詠唱に入った。
「闇の精霊シェイドよ!」
唱えるのは剣を持つ闇夜族達だ。彼らは後方でこちらを伺うキールストラ侯爵の周囲を固める魔法使い達に比べれば魔法の腕は劣ったが、それでも下級の闇魔法であれば問題なく行使ができる腕がある。
その行動には迷いがなく、闇魔法を淀みなく紡いでいく。ディルクはスティアを警戒しつつその時を待つが、しかしただ一人、ディルクの息子ルーラントだけが父へ非難がましい声を上げていた。
「父上っ! そのような事をせずとも、この女は私達の手で十分――!」
「卑怯、とでも言うつもりか?」
じろりと見られたルーラントは、図星を突かれて声を詰まらせた。
「甘ったれるな。これは訓練ではない、戦なのだ。勝者は栄光を手中に収め、敗者は生きる場所を失う。我らは敗者となるわけにはいかん。不要な甘さは捨てろ」
「……っ!」
「女一人相手にという気持ちは分からんでもないが……我らはどうしても勝たなければならないのだ。その悔しさは次にとっておけ」
悔し気な息子に声を掛ける間も、ディルクはレイピアを構えたまま、スティアから一切視線を外していなかった。
その視線は険しく、警戒を一切緩めていない事がスティアにも伝わってくる。
危機的な状況に、先程見た父の苦しむ姿がスティアの脳裏に過ぎった。
(ここを守り通さなければ、お父様が――! くそっ!)
彼女は奥歯を噛み締める。闇魔法は絶対に食らっては駄目だ。危機感がそう警鐘を鳴らすものの、しかし詠唱をしている敵はあまりにも多く、そしてその全てを相手取ろうとしても、目の前に立つ男がそれを許してくれるとも思えなかった。
敵の詠唱は終盤に差し掛かっている。スティアにできた事は先程の父と同じく、耐えようと魔力を体に巡らせる事だけだった。
「黒の暗闇で視界を封じ賜え! ”暗闇の雲”!」
視界を封じる闇魔法がスティアへ牙を剥く。他の魔法使い達も詠唱を終え、更に聴覚や触覚、意識すら奪う闇魔法が、次々に彼女へ襲い掛かっていった。
その数は父親にかけられた比ではない。総数三十にも近い闇魔法が、スティアの自由を奪おうと一斉に襲い掛かったのだ。
「……とは言え私もこの様な手を好むわけでは無い。いたずらに苦しませる理由も無し。一思いに楽にしてやるとしよう」
この様子を見つめながら、ディルクは己のレイピアを構える。
そして地面を強く蹴り飛ばし、スティアへ急速に迫って行った。
「――さあ、これで終わりだ!」
ディルクの突き出したレイピアが、スティアの眉間に吸い込まれていく。対してスティアは微動だにせず、ぼんやりとした様子でその場に立っていた。
(哀れな呪われし忌み子よ。次に産まれてくる時は、ルピナス様の加護を得てからこの世に生まれ落ちてくるのだな)
ディルクはそんな彼女を前にして、本心から憐れみ、そして祈っていた。
思い出されるのは自らの過去。彼の第一子もまた女児であり、金の髪をもって生まれた忌み子であったのだ。
そうした例は闇夜族では珍しくなく、凡そ一割程の確率で、この一族には忌み子が生まれてくる。だが慣習ではそう言った子は葬らなければならなかった。
だから彼は自らの手で娘を丁重に葬った。だが慣わしとは言えそこに何も思わなかったわけでは無かった。
当時の思いが蘇り、ディルクはレイピアを強く握りしめる。
目の前の女もまた神の御元へと帰り、娘同様ルピナス神の加護を得てまた生まれてくれば良い。この痛みも一時で済むのだ。
その一撃はディルクの中では紛れもなく慈悲であった。
だからであろう。
「――な!?」
その剣先が弾き飛ばされた時、ディルクの双眸は零れ落ちんばかりに見開かれたのだ。
弾き飛ばしたのは、闇魔法が掛けられていたはずのスティアだった。彼女は右の短剣を振るった格好で、その場で彫刻のように固まっていた。
まさか動けるとは思わなかったディルク。そんな彼の目の前で、スティアはまたもゆるゆると動き、短剣を振るった腕を下ろす。
その時ディルクは確かに見た。険しい表情を浮かべるスティアの目から、一筋涙が流れ落ちた事を。
起きている事が理解できず、ディルクはスティアを見つめたまま固まっていた。
周囲の闇夜族達も動揺を隠せず、ざわざわと大きくどよめいている。
ルーラントも、スフレイヴェル伯爵も、彼らを率いるオズヴァルドですら、誰も彼もが理解できない事態に言葉を発せずにいる。
そんな中たった一人、スティアだけがその理由を知っていた。
闇魔法をかけられたあの時、スティアは魔法に抵抗しようと魔力を振り絞った。しかし彼女の身に魔法が降りかかった瞬間、それらの魔法はまるで霧散するかのように、彼女の表面で弾け飛んだのだ。
自分の人生で魔法がまるで効かなかった経験など流石に無く、スティアも驚愕を隠せなかった。
だがどうしてと自問した時、最初に頭に蘇ったのは、つい先ほど聞いた父の言葉だった。
――だが何も気にすることは無いぞ。お前には光の精霊――母、ラスティエトラの加護がちゃんとあるのだからな!
彼女はこれを父の心遣いだと思っていた。
だがそれは彼女を慰める言葉ではなく、確かにそこにあったのだ。
彼女の人生とずっと共に、娘を思う母の願いが。
「……お前達の神、ルピナスの加護など私には必要ない」
驚愕に固まる闇夜族達に、彼女ははっきりと告げる。この町に来て淀んでいた彼女の瞳は今、光のように強い輝きを湛えていた。
「お前達の称える神の加護など不要だ! 私には母、ラスティエトラの加護がこの身にあるのだからっ!!」
スティアは力強く地面を蹴り、ディルクへと向かって行く。左右に握る短剣は主の思いを受け取るかのように、暗い森の中、まばゆく光り輝き始めた。
「父上! 下がって下さい!」
「ルーラント!? 無茶をするな!」
「ルピナス様を愚弄するとは許せんッ! その不敬、その命でもって償うが良い! ”穿突撃”!!」
その間に割り込むルーラント。彼のレイピアもまた淡い光を放っており、ルーラントはその鋼をも易々と貫く精技を、スティア目がけて突き出した。
だがスティアはこの精技に対して一切臆さず、逆に踏み込んで前へ進む。
「”狂嵐連撃”!」
その声と共にスティアの両短剣が一層強い輝きを放つ。左右の短剣はまるで嵐のように、次々とルーラントへ襲い掛かった。
暴風のように暴れ狂う精技はルーラントのレイピアを精技ごとバラバラに切断し、そればかりか彼の右手をも切り落とすと、胴すら十字に切り裂いて、体から鮮血を噴き上がらせた。
「――カハッ」
「ルーラントッ!! ……おぉのれぇぇええーーッ!!」
血飛沫を上げながら後方へ弾き飛ばされて行くルーラント。父ディルクは怒りに顔を染め、猛然とスティアへ突っ込んで行く。
「我が息子を切り捨てた事、今更後悔しても遅いぞッ!!」
「戯言を! 私はこの場に命を賭けて立っているのだ! 目前の勝利に酔いしれ温い覚悟で戦いに臨んだ者の事など、一々構っていられるか!」
「貴様ぁぁぁああッ!! その言葉、最早飲み込めぬぞ!」
二人の武器が激しい火花を散らす。レイピアと短剣が幾度もぶつかり合い、激しい剣戟の音が打ち鳴らされる。
ディルクは怒りのままにレイピアを振るう。それは猛攻と言っても良い苛烈なものであったのだが、しかし戦局は彼へと傾かない。
すぐにスティアに押され始め、彼は一歩、二歩と後退し始めた。
(強い! 強すぎるッ! 何なのだこのパワーは! スピードは! 精なととうに全力だ! だというのに……攻撃を受ける事で精一杯だと!? 信じられん! ルピナス様の加護を失った忌み子がこのような強さを持つなどありえぬ! いや――あってはならぬのだッ!)
スティアの攻めは冷酷だった。二本の短剣がまるで生き物のように自分に襲い掛かり、防御を無理やりこじ開けてくる。
スティアの短剣をスウェプト・ヒルト――レイピアの防御用の鍔だ――で受けたディルクの背中にどっと汗が流れ落ちる。
このままでは自分も息子同様負ける。彼の判断は素早かった。
「皆の者、この女を生かしておいてはならぬ! この者はいずれ闇夜族の未来に暗雲を齎す! かかれ! 首級を上げろっ! 我が息子ルーラントの仇を取った者には、我がプリンセン侯爵家から褒美を取らせるぞッ!」
『おおおおおおっ!!』
ディルクの号令に、戦いを見守っていた者達が武器を手に一斉に襲い掛かる。
一体一から一体多へ。戦局が一気に悪くなったスティアは左右から繰り出された剣を短剣で捌くと、ディルクへ厳しい目を向けた後、彼を諦め一旦防戦に回った。
(あの男、最後まで油断してくれていれば良かったものを……! くそっ、こうも数が多いと流石に制圧するのも難しい……! 幸いお父様の方には注意が向いていないが……)
戦いの隙をつき、後方の様子を何度か伺っていたスティア。父レイグラムは闇魔法のダメージがかなり大きかったようで、未だ満足に動けずにいるようだった。
杖に取りすがるように立っている今の状態では、敵の攻撃を受ければ次は助からないだろう。
父を守るため、スティアは敵の注意を何としても引きつけなければならない。
彼女は短く息を吐き、引かずに敵を迎え撃つ。
幸い敵の練度は高くない。目の前の相手、ディルクは相当の腕であったが、この程度の者と戦った経験は彼女の人生で何度となくあった。
それを思えばこの程度、何と言うことは無い。左から剣を振るって来た相手を切り捨てて、スティアはまたディルクに目を向ける。
相手の目には怒りもあったが、それ以上に焦りも浮かんでいた。
このままなら押し切れる。スティアはそう考えていた。身体能力に物を言わせ、仕掛けてくる敵を流れるように切り捨てる。
闇夜族達は、自分達を意にも介さないスティアの様子に焦りを隠せず、大きくどよめいている。ディルクは冷徹に味方を切り捨てるスティアを睨み付け、憎々し気に奥歯を噛み締めていた。
戦局はもうどちらにあるのか分からない。ともすれば一人で戦うスティアに天秤が傾いているようにすら見える。
だがしかし、この中の一体誰が分かっただろう。母の加護を知り、戦いも多勢に無勢をものともしない。そんなスティアがこの場の誰よりも余裕が無かった事を。
スティアの心臓は今、異常なほど早鐘を打っている。そして頭の中はいつものように、ある一つの強迫観念にも似た意思が渦巻いていた。
屋敷を飛び出してから六十年、彼女はこの世界で生きていくには強さが必要であると知り、戦う力をひたすらに磨いてきた。
最初は魔法を。しかし人族と共に生きられない事を悟ってからは、独りで戦う力も必要と考え、戦闘術も鍛えてきた。
その結果彼女は冒険者の頂点、ランクSにまで上り詰めたのだが、だが彼女にとってそんなものは何の価値もないものだった。元々彼女が強さを求めたのは必要に迫られての事であり、そもそも彼女は昔から、戦う事があまり好きでない性分だったからだ。
だからこそ揺ぎ無い強さを得てからは、彼女は研鑽すらぱったりと止めてしまう。
が、そこで彼女は気づいたのだ。好まなかった自己研鑽だけが、自分の人生に彩りを与えてくれていた事に。
軟禁状態から解放されて、それからは必死に自己研鑽を行う日々。他に意識を向ける事もなかった彼女はいつしか、自分の人生に何の意味も見出す事ができなくなっていたのだ。
そんな彼女が自己研鑽すら止めてしまえば他にすべき事が何も見つからず、宛ても無く大陸を放浪してはみたものの、結局更に傷口を広げるような結果しか彼女には待っていなかった。
自らの人生には何の意味も無かった。
故郷の者達が言ったように、産まれた事自体が間違いだったのだ。
暗い絶望の奥底でそう考えながらも、それでもただ死を選ぶ気にもなれず、彼女は辛い事ばかりの聖王国を離れ、今度は王国領を目指した。
それは考えがあっての事では無かった。ただ足が向いただけだった。
しかしその選択は、彼女が辿った九十二年という人生にとって、実に初めてとなる福音を彼女にもたらす。
旅をしていた彼女はこの王国で、運命神の導きとも言える出会いを果たす。それは王国北部を巡っていた王子軍と、そこに所属する第三兵団――後に第三師団となる者達との出会いであった。
これは独りだった彼女の意識を大きく変える事となった。
王国軍では今まで出会った人間と同様に、下卑た目で彼女を見る者がいる一方、ありのまま見てくれる人間――主に人族でない者ばかりだが――も多くおり、そこでの暮らしは孤独を受け入れていたスティアにとって、あまりにも温く感じられるものだった。
最初はそんな温かさがあまりにも熱すぎて距離を置こうとしたのだが、しかし人に飢えていた彼女は、彼女を引き込もうとするエイクやホシ達を理由にして、徐々にそんな輪の中へ入っていった。
彼女が人を拒絶していたのは人が嫌いだからではなく、自分を拒絶して欲しくないという恐れからだった。だから彼女は、自分を受け入れてくれた第三師団の人々を心から愛し、そしてそんな人達を守りたいと、自分の強さを積極的に振るうようになった。
誰かのために自分の強さを生かす事ができる。助ければ感謝さえされる。
そんな軍での暮らしは失意の中生きて来た彼女にとって、あまりにも充足感を覚えるもので。
そんな行為が生きる意味に変わるのに、そう長い時間はかからなかった。
自分を無価値と考えるスティアは、自分のためには生きられない。
だからこそ彼女は誰かのために戦う事に、自分の存在理由を見出した。
そんな彼女は今、自分を思い続けてくれた父親を守るため力を振るい続ける。
父を守れなければ自分は生きている意味など無いと、彼女は必死に短剣を振るい、襲い来る闇夜族を一切の慈悲なく切り捨てる。
「ガハッ!?」
「ゴブッ!!」
胸から鮮血を噴き出しながら倒れる同族に一瞥もくれないスティア。その無慈悲は彼女の余裕のなさからくるものであるが、しかし闇夜族達はそんな彼女の内心を知る由もない。
(こ、この女……悪魔か――)
むしろその冷徹な動きは、敵を的確に葬るだけの機械のようにも思えて、ディルクすら恐れを抱き始めていた。
数は未だに多勢に無勢。しかし精神的にはスティアが圧倒的に押していた。
このままであればスティア一人で戦局を引っ繰り返しただろう。
「一体何をしているのだプリンセン卿ッ!」
だがそんな時、不意に後方から大声が上がる。その声はスティアの異常性に恐れをなしていた者達の気を、一気に現実に引き戻した。
「忌み子たった一人を相手に何と言う有様だ! 貴卿ともあろうものがこの体たらく、言い訳は聞かんぞ!」
「くっ……! だがキールストラ卿、この者の実力はっ!」
「そのくらい見れば分かるわ! 私の目は節穴ではない!」
焦ったように叫ぶディルク。しかしオズヴァルドはこれに馬鹿にするなと怒鳴り返した。
「確かに強いらしいが、だがその女がなぜそうも必死かを考えれば、打開策など考えるまでもないであろう! 先にあの男の方を始末してくれる! ――クラメル子爵、貴公の出番だ!」」
場をディルクに任せていたオズヴァルドは、たったの一人に押され始めた自陣に苛立ち、標的を変える事を口にしたのだ。
スティアの心臓がドクンと跳ねる。これを絶対に許してはならない。考えるまでも無く言葉が口から飛び出て行く。
「この私の実力に恐れをなし、標的を変えると言うのか!? たった一人の女に対して、多勢に無勢で殺しにかかっておいてか! どんな男かと思えば……フッ、器も肝も小さな男のようだ!」
「調子に乗っているようだが勘違いをするな。私が最も警戒しているのはあの男ただ一人。お前のような塵芥、いつでも消す事はできるのだ」
スティアは標的を変えさせまいとオズヴァルドを挑発する。
しかし相手はこれを鼻で笑うだけで、彼女を相手にもしなかった。
「それにだ。奴に娘が殺されるところを見せてやりたかったが、どうやら今は逆の方が効果的なようだからな。貴様が守りたかったものを守れず、死んで行く様をそこで見ているがいい! さあクラメル子爵、やるのだ!」
「そう易々とさせるものかぁーッ!!」
スティアは必死に止めようとするも、襲い来る闇夜族達がそれを許さない。そうこうしている間に、クラメル子爵と呼ばれた男は杖を前に向け詠唱を始めた。
「火の精霊サラマンダーよ、我が呼び声に応じ、赤より紅き猛き咆哮を。
獄炎より出でし紅蓮の魔獣よ、全ての者を食らい尽くし賜え!」
「ま、待っ――! くっ!」
「させん!」
スティアは破れかぶれに腰の投げナイフを詠唱者へ放つ。だがディルクのレイピアがこれを高い音を立てて跳ね飛ばした。
「”獄炎竜の咆哮”!」
結局スティアは相手の詠唱を止める事は叶わなかった。
男が向けた杖の先から巨大な火炎が生み出される。その逆巻く火炎はまるで竜の顔のように形どり、唸り声さながらにゴウゴウと燃え盛った。
その姿はまるで、狙うべき獲物を見定めているようにも見えた。
「行けッ!」
男がそう声を上げると炎の竜は牙を剥き、男の手元から勢いよく放たれた。
竜は激しい熱と風を放ちながら、闇夜族達とスティアのすぐ上を飛び越え、屋敷へと真っすぐ飛んで行く。
その正門に一人立つ、杖に取りすがるようにして立つ老人へと。
「お父様ーッ!!」
スティアの絶叫が森にこだまする。
屋敷の正門は炎竜の牙の餌食となり、紅蓮の炎に飲み込まれた。