320.両雄決裂
スティアの父レイグラムが玄関ドアを開けて目にしたのは、自分へと迫る巨大な炎だった。
赤々と輝く炎はレイグラムの右上方へと逸れていき、屋敷に当たって轟音を上げる。ぱらぱらと降る火の粉を目にしながら、レイグラムは正門の向こうへ鋭い視線を向けた。
闇夜族の家屋は火災に強いレンガ造りである。森の中にあるにも関わらず木造でないのは、迷いの森の木々を無暗に減らさないようにという配慮と、他に屋敷で火災が発生した場合にも森に延焼しないようにという意味があった。
レンガは土を焼き固めた物だ。土は燃えない。だからレンガが火に強いのは当たり前なのだが、しかしだからと言って元はただの土である。
ただのレンガが火魔法に耐えられるような強度を持っているはずもなかった。
屋敷のあちこちが黒ずみ煙を上げている。所々のレンガがひび割れ、中には崩れて穴が開いている箇所もあった。
この状況に怒りを覚えながら、レイグラムは足を前へと踏み出す。正門は魔法で破壊されたようで、黒焦げの鉄柵が屋敷側へ倒れている。
そしてその向こうには屋敷を取り囲むように立つ、集団の姿があった。
その集団は闇夜族特有の黒いローブに身を包んでおり、手に杖を持つ者もいれば、剣を吊るしている者もいた。
これにレイグラムは老いた顔を険しくしながら、杖を突いて足を進める。すると一団の中央から一人の男が歩み出て、彼を鋭い表情で出迎えた。
彼らは無言のまま距離を詰めていく。そして正門を挟んで三十メートル程の距離まで来ると、互いにぴたりと足を止めた。
「まさか屋敷に魔法を放たれるとは、最低限の礼儀すら忘れたようだな小僧。そればかりかこんな場所で火の魔法など使いおって。気でも触れたのか?」
森ごと屋敷を焼くつもりかと、レイグラムは低い声で咎める。しかし相手――キールストラ侯爵家当主オズヴァルドは悪びれもしない。そればかりかフンと鼻で笑い飛ばした。
「朽ちた英雄様はどうやら、未だにご自分を高く評価されておいでのようだ」
「何だと?」
「先に我が屋敷を襲撃したのはそちらだろう。だというのに自分が逆の立場になれば不敬だと? これが驕りでなければ一体、他に何と言いようがある。違うかアーリンアッド卿」
眉間にしわを寄せるレイグラムを、オズヴァルドは鋭い目で睨み返す。
「いつまで我らが頭を垂れるべきだと考えている。貴方は――いや。お前は一体、いつまで闇夜族を率いているつもりなのだ」
オズヴァルドの口調には明らかな敵意があった。
疎まれている自覚はあった。だがここまでのものであったかと、レイグラムは内心ため息を吐く。
どうしてか、不意に腹心であり親友でもあった男の顔が頭を過ぎった。
「何を言っているのだ貴様は。私は既に一線を引いた身だ。闇夜族の事は既に貴様達に委ねている。やる事に口など出すつもりは毛頭無い」
彼は苦々しく思いつつ、目の前に立つ、親友の息子にそう告げる。彼にとってオズヴァルドの詰問は、見当違いも甚だしい内容だった。
レイグラムの言う通り彼は既に隠居しており、一族の行く末に口を出す事を止めて久しかった。
今の闇夜族はキールストラを中心にしてこの森での生活を続けているが、これもレイグラムも認めるところである。
彼の言葉は一切の誇張や虚言も含んでいない、現実を語ったものであった。
更に言えば、アーリンアッドはキールストラに疎まれている事が災いし、一族の情報を共有する事ができない状態にあった。
今回エイク達を森に連れてくる事も、外へ出ていたノエルが偶然耳に挟まなければ知る事もできなかったのだ。
そんな状況でアーリンアッドが闇夜族を率いるなど、到底できるはずが無い。
「一族の舵取りも分からぬ状態で、どうやって率いると言うのだ。私がいつ口を挟んだか、言ってみるが良い小僧」
「白々しい事を。ならば言ってやろう」
だからレイグラムはそうだろうと指摘する。
だが相手は違うと言い放った。
「一年半前、魔族達がこの森に来た時の事を忘れたか? お前は彼らに加勢しようという我らの意見を一蹴したな。その時の事、よもや忘れたとは言わせんぞっ」
オズヴァルドが口にしたのは、今から一年と半年前の事だった。その日、このコーンラッドの町に思わぬ客が大挙して現れて、彼らを大きな混乱に陥れるという事があった。
それは王国軍と戦い、撤退してきた魔王軍である。万を超える兵が突如現れるという事態に、闇夜族らはどうするかと紛糾する事態に陥ったのだ。
居場所はどうするのか。兵糧はどうするのか。彼らと共に戦うのか。今後現れるであろう王国軍をどうするのか。
コーンラッドは人口三千にも満たない、そう大きくもない町である。その数倍もの人間を置いておける場所や賄える備蓄があるわけもなかった。
闇夜族が混乱するのは当然の事で。
だがここで彼らにとって予想外の事が起こる。
それは魔王ディムヌスの存在だった。
かの魔王は闇夜族の前で、己の力をまざまざと見せつけたのだ。
魔王の力により作られた摩訶不思議な空間は、魔族達の居場所を作り出し。
そしてその空間では植物は見る間に育ち、大きな実を沢山実らせたのだ。
これにより魔族達の居場所、そして兵糧事情は瞬く間に改善される。そうして後に残ったのは、闇夜族が魔王軍につくか否かという、その問題だけとなったのだ。
これに闇夜族は大きく割れた。
三百年前の恨みを晴らすため魔王軍につくべきだとの声があれば、負け戦に加わるなど一族を根絶やしにする行為に等しいとの反論もあった。
彼らをまとめるキールストラ侯爵家も、心情と状況から自分達が取るべき方針を決めかねていた。
大きく揺れた闇夜族達。だがその大局は魔王軍に参戦すべしと傾いていた。
見せられた魔王の力は信じがたい程に強大かつ驚異的で、多くの闇夜族の心を鷲掴みにしていたのだ。
これほどの力があれば人族に負けるわけが無い。魔王軍に参戦し、憎き人族共を今こそ蹴散らすべし。
強大な魔王の力に自分達の未来を見出す闇夜族達の声は時を経るごとに徐々に大きくなり、反対意見を封殺した。
そして彼らを率いるキールストラも、ついに決断し立ち上がる。各家の当主達を集めると、魔王陛下の傘下に加わり戦おうと、声高に宣言したのだ。
かつて一族を従えたという強大な力を前にして、彼らはどうしようもなく畏怖を覚えた。
だがそれ以上に、その力に魅せられた。魔王の力さえあれば、自分達の未来も明るいのではないかと心の底から畏敬を抱いていた。
そうして闇夜族は魔族軍に加わり、人族と刃を交えんと動き出そうとしたのだ。
だが、まさにそんな時であった。
「魔族達と共に人族と戦う事は許さん。魔王陛下もそう仰っておられる。出過ぎた真似はわきまえよ」
当主達が集まったその場に単身赴いたレイグラムが、彼らに向かってそう言い放ったのだ。
杖を突き老いさらばえたレイグラムだが、その時の迫力は凄まじいもので、これに腰が引けた闇夜族達は次々に手の平を返し始め、結局闇夜族の舵は日和見の立場へと戻る事となる。
結局魔族達は負け、魔王は封印されてしまった。だから結果から見ればレイグラムの言った事は正しかったのだろう。
だが闇夜族を率いるオズヴァルドは、これをただ良かったと思える程、アーリンアッドの事を良く思っていなかった。
憎しみすら感じる目を向けてくるオズヴァルド。しかしレイグラムは内心呆れつつ、これをさらりと受け止めた。
「ならばあのまま一族が魔族軍に加わり、滅びの道を辿れば良かったと、お前はそう言うのか? 小僧」
「そのような話をしているのではない! なぜこの私を差し置いて、貴様がディムヌス様に直接話を伺っていたのかと言っているのだ!」
「あの方は闇夜族の中で参戦すべしと言う意見が強い事をご存じだった。それ故自ら釘を刺されに来たのだ、負け戦に関わる必要はないとな。あの方と面識があるのは今や闇夜族では私だけだ。そのため私が伝令役を務めたに過ぎない。何を憤る事がある」
激しく詰問するオズヴァルドに対してレイグラムはあまりにも冷静だった。
これが面白くないオズヴァルドの怒りは更に増していく。
「くっ……! それならば、後で我らが謁見に伺う旨をディムスヌ様にお伝えすれば良かった話であろうっ! 隠居の身が一族の意向を正確に伝えられると思うか!? 出過ぎた真似をなぜしたと問うているのだッ!!」
オズヴァルドは怒鳴りながら、レイグラムへ指を突き付けた。
その怒りは長年に渡りアーリンアッドへ滾らせ続けていた苛立ちや嫉妬、恨みという感情が綯い交ぜとなった、どす黒い感情の奔流であった。
「小僧」
だが。
「貴様……まさか、魔王陛下の仰った事に異を唱えるべきであったなどと思っているのではあるまいな?」
突然変わったレイグラムの態度に、オズヴァルドはひゅっと息を呑んだ。
「一族の意向だと? 我らが魔王陛下へ意見をしようなど、仮にも闇夜族であるならば断じて許されん。まさかとは思うが、その程度の理屈さえ分からん愚物ではあるまいな? 小僧」
「く、わ、分かっている! そんな事は言わずともっ!」
その威圧感に周囲の闇夜族達は大きくどよめく。オズヴァルドもまたその例外ではなかったが、しかし彼は怒りとプライドでもって大声を上げる事で、それを何とか跳ね除けた。
「それに今回の事もそうだ! 我らが招き入れた客人を、貴様は我が屋敷を襲撃までして攫っただろう! 言い逃れはできんぞ、貴様の屋敷に彼らがいる事を私の手の者が確認している! これを一体どう弁明するつもりだ!?」
そして今度は今回の事についてを、レイグラムに問い質した。
「……馬鹿な事をしおって」
「何だと!?」
だが返ってきたのは明確な落胆であった。
「闇の精霊が好く者を無理に押さえつけようなど、精霊の事を何も分からん馬鹿のする事だと言ったのだ。そのような事をしてシャドウ様が我らに協力するとでも思うか? 精霊にも意思がある。そのような事をすればどうなるか、幼子でも分かる理由だと思うがな……」
レイグラムは自分の妻が大精霊であった事で、精霊にも薄弱ながら自意識というものがあり、個々の感情で動く生物だという事を理解していた。
大精霊は更に格が上がった事で、自我に芽生えてもいる。そんな妻と同等の存在であるシャドウに意思や感情がないはずが無い。
レイグラムはそこに確信をもっていたものの、
「ふん、何を言うかと思えば馬鹿馬鹿しい!」
今度はオズヴァルドの方が彼を馬鹿にするように鼻で笑った。
「我ら闇夜族は月の女神ルピナス様の加護を賜った、尊き一族なのだぞ! 闇の精霊が我らに力を貸さんはずが無いだろう! ここまで耄碌したかレイグラム!」
オズヴァルドの言葉には疑いと言うものが無かった。胸を張り自信満々で、間違った事を言っていると微塵も想像していない。
レイグラムはそんな彼をただ、口を閉ざして見つめていた。