318.轟いた鏑矢
部屋に暫くいた俺達だが、残念ながらスティアの母親の姿が分かるようなものはやはり何も残っていなかった。
もうその見た目は誰かの記憶の中にしかないらしい。探していたスティアも諦めがついたらしく、俺達は連れ立って外へ出る事にした。
「残念だったな……」
「いえ、そうでもありませんわ。これがありましたから」
そんな状況のため気落ちしているかと思いきや、しかしスティアの顔には大変良い笑顔が浮かんでいた。
理由はもう見れば分かる。何せ彼女はあの部屋にあった手作りの本や、机の上に並んでいたこれまた手作り感のあるぬいぐるみ達を、大切そうに胸に抱いていたのだから。
「シャドウ、すみませんがこれをお願いしても良いですか?」
スティアに呼びかけられたシャドウがぷるりと震える。そうと思えば影からにゅうと伸びあがり、スティアへ黒い手を伸ばした。
これにスティアは本一冊だけを残し、持っていた物をまるで壊れ物でも扱うように彼に手渡す。
目的とは違ったけれども。
ま、あれを見つけただけでも来た甲斐があったかね。
「そういえば、しゃどちんは大丈夫みたいだね」
「うん?」
何か言ったホシの方を向くと、彼女も俺へきょろりと目を向けた。
「だってこんなに明るいのに、しゃどちん全然元気そうじゃん」
「……そういやそうだな」
バドもこくこくと頷いている。先程ノエルは近づいただけであんなに苦しんでいたのに、闇の精霊であるシャドウは何事もなさそうに動いているものな。
親父さんは闇と光は相反しながらも共生する関係にあると言っていたが、それと何か関係があるんだろうか。
ふぅむと顎を撫でている間に、シャドウの手がすすすと影に戻ってくる。そして何も語らないまま、とぷんと足元に沈んだ。うーむ、謎である。
「シャドウは精霊ですし、我々人間とは異なる存在ですから、光に対する反応が一緒とは一概には言えないのでしょう。日の光の下、普通に活動できていますし」
ふるふると震えるシャドウ。確かに言われてみれば、いつも普通に昼間外に出てるもんな。
闇が光に弱いというわけでは無いのか。どうも闇って光に弱そうなイメージがあるんだよなぁ。
他の闇夜族もたぶんそう思ってるんだと思う。思い込みって奴は厄介だわ。
そんな話をしつつ俺達は部屋を出て廊下を歩いて行く。少し歩けば、先程別れた場所でノエルが立って待っていた。
「お嬢様、ご気分はいかがでしょうか。悪くなったりは――」
心配そうに声を掛けてくるノエル。だがスティアは返事をせずに彼女へすたすた近づいて行くと、持っていた一冊の本を差し出した。
「この本は、貴方が作った物なのですか?」
「……お嬢様」
「やはり、そうなのですね……」
スティアはおもむろに本をぺらりと開く。無言のまま何回かページを開いていたスティアはとあるページではたと手を止め、不意にくすりと笑った。
「ふふ、このページの絵、本当に懐かしいですわ。最初何の絵なのかが分からなくて、他の文字を理解してから解読しましたっけ」
「も、申しわけありません」
そのページに何の絵が書いてあったのか後ろの俺からは見えなかったが、しかし顔を赤くするノエルに対して、スティアはころころと楽し気に笑っていた。
「当時は苦しさしかありませんでした。ここに来るまでは思い出したくもない記憶でした。でも――今はそんな記憶も、少しは懐かしめそうですわ」
そしてスティアは本を優しく閉じると、ノエルへ非常に優しい声をかける。
「わたくし、ずっと貴方の事を勘違いしておりました。ごめんなさい。そして、ありがとう。ノエルさん、貴方のおかげてわたくしは今、ここに生きていられます」
かつてはこの屋敷にも多くの使用人がいたのだろう。だが今はもうその面影は無く、彼女が一人いるだけだ。
ノエルがなぜこんな状態のアーリンアッドに仕え続けてきたのかは俺には分からない。だが彼女がずっとスティアのために耐え続けて来た事は、揺ぎようの無い事実だった。
じっと見つめるスティアの顔を、ノエルも驚いたような顔で見つめている。
ランプの明かりだけが照らす薄暗い廊下の中、見つめ合う二人。思わずといった様子でノエルの瞳から一筋流れ落ちた涙は、か細い光を受けてキラリと美しく輝いていた。
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「その様子では、あの部屋に何かがあったようだな?」
「はい。大切な物がありましたわ。わたくしにとっては、何よりも大切な物が」
「ふむ……?」
部屋に戻った俺達を見て、親父さんはさも不思議そうな声を上げた。さもあろう、スティアは見るからに上機嫌であり、更に言えば俺達のそばにばかりいた彼女が、今はノエルの隣に立っていたからだ。
相当の鈍感でなければ何かあったと思うだろう。親父さんもそれを見て取ったが、しかし彼はそうかと目を細めたのみで、どうしてかの追及はしなかった。
それは配慮だったのか、それとも娘との距離を測りかねてか。だが俺にはそれが、少なくとも無関心からでない事が分かる。
親子そろって不器用なことだ。思わず苦笑していると、スティアが不思議そうにこちらを向いた。
「貴方様?」
「いや。考えたんだが、もしお前の母親の姿が見たいってんなら、そこの画伯に頼んでみたらどうだ?」
「ええ!? 私ですか!?」
誤魔化すように冗談を言うと、これにノエルが仰天した。彼女はとても無理だと言いたげに、両手と首をぶんぶんと振る。
「私にはとても無理ですっ! エイク様、分かって仰っているでしょう!?」
「いや、何事もやって見なきゃ分からねぇぞ? 本を作ってから時間も経ってるし、もしかしたら案外いけるかもしれねぇ」
「まあ! それは良い考えですわね!」
「お、お嬢様まで!?」
焦るノエルにスティアがころころと笑う。初めてこの屋敷に来た時、まさかこんな和やかな雰囲気になるとは全く思えなかった。
だがスティアもノエルも親父さんも、本当はこんな光景を望んでいたのだ。皆が笑い合っていられればと心から渇望していたのだ。
もし何事も無かったならこの屋敷にはこんな明るい声が溢れていて、誰も苦しむことも無く、ここに幸せに暮らしていたのだろう。
「ラスティ」
唯一つ、闇夜族の事情さえなかったなら。
そうしたら運命は大きく変わっていたのだろうか。
「日が昇る時間になるまでもうあまり時間がない。仕掛けてくるならそろそろ頃合いだろう。もう行きなさい」
「お、お父様」
父親の静かな声を聞き、スティアがはっと彼を見た。
親父さんもスティアを見つめている。その瞳は優し気だ。だがその瞳の奥に押し殺された感情が、俺にははっきりと伝わっていた。
「旦那様、それはっ」
「ノエル、お前も分かっているだろう。オズヴァルドの小僧は若輩ゆえの浅慮があるが、だが決して愚か者ではない。お前が屋敷からラスティ達を連れ出したのは小僧も予想がついたはずだ。恐らく今夜が終わる前に、奴はこの屋敷に来る。朝を迎えて身動きが取れなくなる前にな……」
俺達はキールストラの屋敷で襲われ、ここに逃げて来た。その時完全に追っ手を撒いてはいるが、だがこのアーリンアッド家は連中と仲違いしているようだし、疑われるのは必至に思えた。
このアーリンアッド家は公爵家だ。侯爵家のキールストラよりも本来なら立場が上のはずだろう。
だが今のこの屋敷を見れば、現実どっちが上かは馬鹿でも分かる。親父さんはそれを懸念して、スティアに逃げろと言っているのだ。
数十年ぶりに会えた娘と再び別れなければならない、深い悲しみを隠して。
「お、お父様。ですが」
「屋敷を出るなら早いうちが良い。準備があるなら早くしなさい」
掛けられた声は静かながら異を唱えさせないもので、スティアは珍しく狼狽えた様子を見せている。だが親父さんは彼女へ言うだけ言うとスティアから視線を外し、今度はこちらに顔を向けた。
「君達も早く行きなさい。こちらの事情に巻き込んだのはすまなかったが、だがこれは我ら一族の問題。君達が関わる必要はない事だ。森を抜ければ我らはどうしようと追いかける事が出来ない。屋敷を出たら真っすぐに森の外へ向かいなさい。問題なく外へと出られるだろう」
暗に関わるなと言われてしまうと何も返す事ができない。だがこのまま去るのもどうにもしこりが残る。捨てられた犬のような顔をしているスティアを見ていると、尚更はいそうですかと言う気になれなかった。
それにそれを除いても、俺達には森をすぐに出るわけにはいかない事情もあった。
「そうは言われても、”断罪の剣”の件もあるしな……」
俺はがりがりと頭を掻く。だがそれでも親父さんの返答は渋かった。
「何事もない時なら吝かではないが、今はな……。先程話した通り、絶対に面倒に巻き込む事になる。どうするか……」
親父さんは少し悩んだような様子を見せるも、しばしの後にノエルへ目を向け声を掛ける。
「ノエル。今日まで色々とご苦労だった。これからはラスティに付いて行き、娘を支えてやって欲しい」
「旦那様!?」
だがその内容は驚くべきものであり、当事者であるノエルも大きな声を上げ、零れんばかりに目を見開いていた。
「お前の闇魔法なら、人間を攪乱する程度簡単だろう。彼らを助けてやりなさい」
「そ、それなら旦那様の方が適任ではないですかっ。かつての”夜王”の力は未だご健在なのでしょう!?」
「……馬鹿な事を。お前も分かっているはずだ。今の私はもう老いさらばえ、力を失って久しい。加えてこんな体では、付いて行っても足手まといなだけだ。それに私は――」
親父さんがそこまで言いかけた、その時だった。
「な、何だ!?」
「うわわわわっ!」
突然外から激しい爆発音が鳴り響く。屋敷全体が大きな横揺れに襲われ、俺達は驚きに声を荒げた。
飾られていた壺が床に砕け散り、かけられていた絵画もガタガタと激しく揺れた後、床に落ちてガツンと跳ねる。
テーブルの上に置かれた燭台も倒れかかるが、これはバドがはっしと止めて、何とかボヤ騒ぎだけは避けられた。
「そいつは消しておけバドっ!」
俺の声にバドが慌てて息を吹きかけ炎を消す。明かりが暖炉の炎だけとなった部屋は、あっという間に黒に染まってしまった。
そんな中でも更に外から破壊音が鳴り響き、屋敷が強く揺さぶられる。突然の事に俺達は皆動揺を隠せなかった。
その男一人除いては。
「一体何事ですの!?」
「来おったようだな……」
スティアが声を上げた後、ため息を吐きつつ親父さんがゆっくりと立ち上がる。
その声は呆れたようなものだったが、目をやればこの暗い部屋の中でもはっきり見えるくらいには、彼の顔には深い皺が刻まれていた。
「だがまさか、こうもはっきりと敵対して来るとはな。このアーリンアッドを完全に排除しに来たか……随分と舐めた真似をしてくれる」
顔から感じられるのは彼の強い不快感だ。だが俺の《感覚共有》は、彼の内にあるその感情を俺へ確かに伝えてくる。
「少々あの小僧には仕置きが必要のようだ、私が一人で行くとしよう。その間にお前達は裏口から出なさい」
「旦那様、それなら私もお供します!」
「ノエル、先程言った通りだ。ラスティの事は頼んだぞ」
「旦那様っ!」
俺はその時不意に昔を思い出していた。戦場に出る度に感じる事になった、何かを強く決意したような熱く、それでいてどこか妙に落ち着いた不思議な感情。
俺はその感情が嫌いだった。そんな感情を胸に抱き武器を手に駆けて行った者達は、その殆どが帰って来なかったからだ。
俺は今、そんな胸がざわつくような感情を目の前の男から感じている。
その男の表情はやはりいつか見た時と同じく、妙な凛々しさを湛えているものだった。