317.愛しさの痕跡
俺達は先導するノエルに続き、スティアの母親が使っていたという部屋へ、ぞろぞろ歩いて向かっていた。
ノエルが持つランプだけが頼りの暗い廊下は歩く度にぎしりと軋み、頼りなげな音を奏でている。
バドが踏み抜かないか心配だ。振り向けばバドも不安だったようで、そろりそろりと歩いていた。鎧、着てなくて良かったな。
「すーちゃんは場所知らないの?」
「ええ。私はこの屋敷の事はまるで覚えていないので……」
そんな俺達の前を並んで歩くホシとスティア。ホシがくいと見上げると、スティアが少し沈んだような声で答えていた。
物心つく前に軟禁されて、その後ずっとそのままだったのだから、分からなくて当然だろう。俺がそう思っていると、背中を向けたままのノエルの内に、じわりと自責の念が滲み出したのが感じられた。
スティアを軟禁せざるを得なかった過去は、ノエルにとって自分自身を許せないものであるのだろう。やった事の是非はともかくとして、人として当然の感情だと思う。
だが先ほどの話を聞いた限りでは、彼女に責があるとはとてもじゃないが思えなかった。
あるとするならば一体、どこに責任があったのだろう。
この森に突然やってきた光の精霊のせいなのか。それとも光の精霊とねんごろになった親父さんなのか。
光の精霊を理解しなかったここの連中が悪かったのか。まさか、スティアが生まれた事がそうなのか。
俺は闇夜族の事情というものに疎い。だから何が決定的な原因となったのかは分からない。
何もかもが原因に繋がりそうだと思える反面、全部がそんな事で? とも思えてしまう。
ただ間違いないと思えたのは、きっとこれらの事情は皆少なからず関係していて、積み上がった末にこの結果となったのだろうと言う事だった。
スティアは不幸にもその事情に巻き込まれてしまった。前を歩くスティアの背中に目を向けると、そこにはこの町に来てからずっと俯いていた彼女はいなかった。
ホシと話をするスティアの横顔は今までのように失意に淀んだものでなく、いつも通りの優し気な笑みだ。
この町に来てからというもの頭にくる事ばかりだったが、しかしこの屋敷に来れた事で、おつりが十分過ぎる程来たみたいだ。
思わず笑みが漏れた俺に、スティアがふとこちらを向いた。
「どうかなさいました?」
「いや、何でもねぇよ」
軽く首を振る俺だが、スティアは不思議そうな顔をする。そして彼女はまた何かを言おうと口を開きかけたのだが、
「あ、なんか明るいよ!」
と、ホシが明るい声を上げながら前方を指差した。目を向ければ廊下の先に、光が細い線のようになって漏れる場所が見えていた。
閉じたドアの隙間から光が漏れ出ているのだろう。あれが例の部屋か。なるほど確かに、これほど分かりやすいものも無い。
さて、そんじゃあそこに何があるのか、行ってみるとしますかね。
そう俺が思った瞬間だった。
前を歩いていたノエルの体がぐらりと揺れ、ランプが派手な音を立てて廊下を転がったのだ。
「な、何だ!?」
「ノエルさん!?」
「も、申しわけございません……お見苦しい所を」
俺達は慌てて壁に手を突いたノエルに駆け寄る。彼女は問題ないと言うが、しかしその様子はただ事では無い。
こちらに顔こそ向けないものの、ノエルの様子はいかにも苦しそうなのだ。
前方にあるドアの隙間から漏れ出たか細い光は、俺達からはまだまだ遠い場所にある。だと言うのに、まさかあれがノエルに苦痛を与えているのか。
俺は転がったランプを急いで拾い上げた。
「バド、とりあえずノエルを後ろへ!」
「お、お待ち下さい。私は大丈夫ですから――」
「大丈夫な奴ぁ突然ふらつかねぇよ! 黙ってついて来い!」
バドがひょいと持ち上げると、ノエルが焦ったように声を上げる。だがここは問答無用だ。
俺達は来た廊下を駆け戻り、光が見えなくなるくらいまで離れると、ノエルをまた廊下に立たせる。彼女は困ったような表情を浮かべつつ、スティアにぺこりと頭を下げた。
「お嬢様、先程は申しわけございません。さ、参りましょう」
「ちょ、ちょっとお待ちなさいっ」
すぐにまた向かおうとするノエルだが、流石にスティアがこれを止めた。
「まさか貴方……あんなにも距離があっても駄目なのですか? わたくしがいた頃は部屋にまで入って来たというのに」
スティアはあの部屋に軟禁されていた。だから彼女の世話をする使用人も、あの部屋に入らなければならない。
だがあの様子では近づく事も厳しい様子だ。どうやって近づいていたのかとノエルを見れば、彼女は渋い顔を作っていた。
「あまりにも久方ぶりでしたので、気が緩んでおりました。今度は大丈夫です」
スティアの顔が絶対嘘だろうと言っていた。俺もそう思う。よく見ればノエルの首筋には冷や汗のようなものがあったのだ。
この様子を見れば分かろうと言うもの。彼女らにはこの光に抵抗する手立ては何も無く、ただただ根性であの部屋に入っていたという事に他ならなかった。
ノエルは苦しさを耐えながら、二十年もの間一日も欠かさずスティアの世話のためにあの部屋へ通った。
それはつまり、スティアの事をそれだけ大切に思っていると言う証明でもあった。
「スティア」
「ええ。分かっております」
声を掛ければスティアも分かっていると頷いて、ノエルの方をまた向いた。その視線が今までよりも柔らかかったのは見間違いでは無かっただろう。
「どこに行けば良いかはもう分かりましたから、貴方はお父様のそばへ行って差し上げて下さいまし。わたくし達は部屋を見終わったら戻りますから」
「いえ、ですが――」
「大丈夫ですから。貴方にこれ以上苦しい思いをさせたくないんですの。どうか分かって下さいまし」
スティアはノエルの両手を握りしめる。彼女ははっと目を見開いた後、口をきゅっと結んで堪えるような表情をした。
「かしこまりました。それではこの鍵をお持ち下さいませ」
「ありがとう、ノエル」
そうしてノエルは一つの鍵を取り出してスティアに手渡す。それを受け取ったスティアはまたもノエルに礼を言って、俺達の顔を見回した。
「では参りましょう」
そうして先を急ぐスティアの背中に、俺達も続いた。
暗闇だらけの屋敷にあった、たった一つの光る部屋。そこに何があるのかは彼女が一番知っているはずだろう。
だが彼女の背中から感じられる感情は、それとはまるで正反対で。未知の場所へと赴くかのような、期待と願望、そして緊張でいっぱいになっていた。
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カチャリと軽い音が鳴り、部屋の鍵が開く。そのドアノブに手を伸ばしたスティアは、しかしどうしてかいつまで経ってもドアを開かなかった。
「すーちゃん?」
ホシが不思議そうに彼女の名を呼ぶ。すると覚悟が決まったのか、スティアはドアノブをゆっくりと回した。
軋む様な軽い音と共にドアがゆっくりと開いていく。漏れ出ていた光は遮る物を失って、俺達の目の前をまばゆい光で覆い尽くした。
「うわーっ! すっごい明るい部屋! 目がしぱしぱする!」
「くっ、どうなってんだこの明るさは……。深夜だってのに目が痛いくらいだぞ……!?」
それはまるで光の中に放り込まれたような感覚だった。
今まで暗闇の中にいた事もあって、あまりの眩しさにまともに目を開けていられない。自分がどこに立っているかも分からなくなってしまう程だった。
何とか目を細めて周囲の様子を伺っていると、徐々に目が慣れ部屋の様子が見えてくる。部屋にはタンスやベッド、机などが置いてあり、机の上には本が詰まれている他、動物を模したぬいぐるみもいくつか並んでいた。
ベッドは明らかな大人用で大きく、机も物心がついた子供が使うには高すぎる代物だ。かつてスティアの部屋だったらしいが、これらの家具は全て、その前に使っていた母親の物なのだろう。
ふーむと俺は目を細めつつ、中の様子を観察する。だがそんな時バドが俺の肩をつんつんと突っつき、真正面を指差した。
何だろう。そう思い目をやっても、そこには白い壁があるだけだ。だがバドが意味のない事をするはずもない。
俺はもう一度よく見ようと、目を凝らしてそこを見る。異変に気付いたのは、それからたっぷり十秒程経ってからだった。
「……あ!? なんだこりゃ!」
思わず驚きが口から飛び出す。バドが指差していた場所にあったのは壁などではなく、壁が何かに破壊されたような大穴だったのだ。
その大穴は壁のやや下の方にある、子供なら通れそうなくらいの穴だった。
壁が白かった事、そして目が眩んでいた事で気が付くのが遅れてしまった。だがそうだとしても、こんな馬鹿でかい穴を見逃すとはなんて間抜けだ。
俺達はキールストラに追われているのだ、こんな外から丸見えの部屋にいるのは流石に不味い。
すぐに塞いでしまった方が良いだろうと、俺はそこに駆け寄ると片膝を突き、さっと右手を伸ばして詠唱する。
「土の聖霊ノームよ、我が呼び声に応じ、泥土の恵みを与え賜え。”粘土生成”」
すると右手を向けた箇所がじわじわと焦げ茶の粘土で塞がれていく。完全に塞いだらその後素早く”乾燥”を唱えて完成だ。
粘土を乾燥させただけだからレンガというには心許ないが、まあ殴ったりでもしなければこれで十分だろう。
色が合ってなくて悪いが、そこは勘弁して欲しい。”粘土生成”ってなんでか使う場所で色が変わるんだよ。
なぜかは知らん。精霊にでも聞いてくれ。
ふぅと一息つき立ち上がる。だがこの穴は一体何だったんだろうか。不味いと思って塞いだが、流石に塞ぐことが不味い、なんて事はないよな?
俺がそう考えつつ塞いだ穴を見ていると、不意に服を引っ張られ、俺の意識はそちらへ向いた。
「んあ? 何だ?」
「ん!」
見ればそこにはホシがいた。俺と目が合ったホシは、ちょいちょいと指を差す。釣られてそちらに目を向けると、呆然と部屋を眺めているスティアがいた。
昔を思い出しているんだろうか。歩くと言うにはあまりにもゆっくりと、スティアは歩みを進めていく。
彼女は俺の前を通り過ぎると、部屋の隅に置かれていた机のそばへと近づき、そっと手を伸ばして優しく触れる。
顔に浮かぶのは困ったような微笑みだった。
「もうこんな場所には二度と帰らない……そう思って飛び出したのは、一体どれくらい前だったのでしょうか。あの頃はこの部屋がわたくしの世界そのもので……外の世界には希望が溢れていると、そう固く信じていましたっけ」
その言葉は非常に穏やかで、どこか悲しい。長い間こんな小さな部屋に軟禁され、外に出れば出たで人族とは相容れず、スティアは一人で生きていく他に生きる術が見つからなかった。
昨日聞いた”断罪の剣”についてもそうだ。親しくなれた人間が辿った末路はきっと、彼女の人生に影を落とした事だろう。
”Ⅱ”なんて名乗ってまでオリヴェルの側にいた事がいい証拠だ。だがその結果得られたものは何もなく、決別という形で幕を下ろす事になってしまった。
彼女がここから出て数十年。今までの人生は何だったのかと、そんな思いが透けて見えてしまい、俺は言葉をかけられない。
こんな空気を断てるのはやはり、こいつを置いて他にいなかった。
「すーちゃん、それ何?」
「……ああ、これですか」
机に懐かし気に触れていたスティアは、今はその上に置かれていた本の表紙に手を置いていた。それをホシに指摘された彼女は、今気づいたかのように本を手に持ち、懐かしそうに目を細めた。
「これは魔法を使うための教本ですわ。これを全て覚えた後、わたくしはそこの壁に魔法を放ち、穴を開けて外へ出たのです。当時は文字すら読めなかったので、文字から覚えるところから始まって……。たったこれだけの魔法を覚えるまでに、どれくらいかけたのやら。少なくとも一年や二年なんて時間ではなかったはずです。笑ってしまいますわね」
スティアが持つその本は、そこまで厚くもない本だった。
集まってきた俺達に、スティアが本を差し出してくる。受け取ってパラパラとめくってみると、中身は魔法の使い方がただ書いてある、文字がびっしり羅列された本だった。
見れば誰でも分かろうが、子供向けの本ではない。こんなものから文字を覚えるなんて、大変な努力が必要だったはずだ。
それに当時のスティアは小さな頃からずっと軟禁されていたわけだし、誰かに教えられたということも無いだろう。
誰の助けも借りず自力で覚えたという事だ。文字を知らない子供が、本に書かれた文字を見てだ。
俺の頭だったら絶対無理だ。俺ならきっと――いや絶対、魔法を覚えるとか回りくどい事をせずに、力づくで脱出する方法を選ぶと思う。間違いない。
「いや、独学で文字を覚えたんだろ? 何も分からん状態で本から文字を覚えるなんて逆に凄すぎるだろ。お前も見習え、ホシ」
「ヤだ!」
未だ文字が読めないホシをチラリと見れば、彼女はぷいとそっぽを向く。これにスティアの顔に少しだけ、いつもの笑顔が戻った。
「いえ、文字を覚えたのはこの本ではないのです。確かここに……」
スティアはそう言いながら机の奥に積まれていた本に手を伸ばす。そして何か探していたかと思えば、その中から一冊の本を取り出した。
その本は何度も見たのだろう、かなりボロボロの薄めの本だった。スティアがそれを机の上でぺらりと開いたため覗き込むと、そこには何と言うか、簡単な単語と拙い絵が描かれていた。
「何これ? え、ら……ぽ?」
「おいおいホシ、横の絵をよく見ろよ。どう見てもリンゴだろ」
「この絵、リンゴなの?」
単語の横に書かれた絵をホシが指さす。うん、言わんとしている事は分かる。だってその絵、なんかボコボコと歪んでいて、微妙にピーマンにも見えるんだもの。
でも絵の横にリンゴってでかでかと書いてある。だからこれはリンゴで間違いないのだ。
これで「いえ、ピーマンです」って奴はいないだろう。ホシは不満そうだが、文句なら本を作った奴に言ってくれ。
この手書き感満載の本をな。
「ならこいつを持って行って製作者に聞いてみるか? この絵、リンゴなんですか? ってな」
「え? 製作者って……まさか」
「そのまさかだろ。ノエルかお前の親父さんか、どっちかが作った本だろこれ。お前に文字を教えるために」
スティアは思いもしなかったらしく、俺の考えに絶句していた。
ノエルのあの様子から、彼らがこの部屋に近寄る事もできなかったのは明白だ。その上でスティアにものを教えるとなれば、こんな方法ぐらいしか無かったんだろう。
絶妙に下手くそな絵を見ながら俺は笑う。机に積まれた本の中に、他にもちらほらと手作り感のある本があったからだ。
スティアが大切に思われてきた理由がこの屋敷にはある。もっとよく見れば、そんな痕跡があちこちにあるのかもしれない。
「わたくしのために、この本を……」
呟くように言いながら、スティアはその本を撫でるように触る。その手つきはまるで壊れ物を扱うように優しい。
この部屋にだけ差す明かりが彼女の横顔をはっきりと映し出している。本を見つめるその眼差しはいつもよりもずっと優し気で、だが俺にはどこか涙を堪えているようにも見えた。