314.英雄を憎む者
執務室を兼ねる自室にて、その男は椅子に座り、イライラとした様子で机を指で叩いていた。
部屋にいるのはその男一人。彼がむっつりと黙り込んでいる部屋は静まり返っており、ただ机を叩く音がコンコンコンと小さく鳴り続いている。
一体どれだけそうしていただろう。やがてその音とは別に、ドアをノックする音が部屋に響く。男が苛立ちを抑えつつ「入れ」とだけ口にすると、執事が一人部屋に入って来て、小さく礼をした後に調査の現状を報告した。
「旦那様。申しわけございませんがエイク様の行方は未だ掴めておりません。町の方々に手の者らを向かわせ全力で調査をしております。もう少しお待ち頂きたく」
執事はそう言って自分の主である男――オズヴァルド・ロランド・ダッジエ・キールストラ侯爵へ頭を下げた。
芳しくない情報にオズヴァルドは執事をじろりと睨む。だがその視線に執事は全く怯まない。執事はこの屋敷に勤めて長い。腹立たしさが自分に向いていない事を知っていたからだった。
「アーリンアッドの様子は」
「数名張らせておりますが、まだ確証を得られておりません。しかしやはり、可能性は高いかと」
チッ、とオズヴァルドが舌打ちをする。重要な局面で邪魔をしてくるアーリンアッド家は、彼にとって昔から忌々しい存在であった。
彼が目の敵にするアーリンアッド公爵家は、かつてこの闇夜族をまとめ上げていた権威ある家系である。現当主レイグラムがかの魔王ディムヌスにも認められ、魔下四将として名を連ねるに至った功績は未だに語り継がれているほどだ。
三百年前という相当昔の話ではある。しかしレイグラムがまだ現存である事、そして当時を生きた者がまだ残っている事からかつての影響力は未だ消えず、依然として無視できない大きな過去であり続けていた。
とは言え長寿の闇夜族も今は戦後生まれの者が大半で、新世代が台頭する時代となっている。そのため闇夜族の中にはこれを快く思わない者もまた存在していた。
「アーリンアッド……忌々しい過去の遺物め……っ」
このオズヴァルドはその筆頭と言って良い男であった。
かつてキールストラ侯爵家は、アーリンアッド公爵家を支える腹心としての役割を持つ家系であった。
オズヴァルドが侯爵家を継いだのは百数十年前、父が亡くなってからであるが、その父はアーリンアッドの当主レイグラムを崇拝に近い形で敬愛しており、死の間際までアーリンアッドを支えるようにと、彼に言い聞かせていた程だった。
だがオズヴァルドはそれが大層不満であった。
もう三百年前の事など知る者も殆どいないと言うのに、未だに自分達はアーリンアッドの腰巾着として生きる事を強いられる。
人族などに負けて逃げ帰った挙句、森に守ってもらった事の何が偉業か。それに人族を警戒し未だにこの森に引きこもっている事にも、彼は憤懣やるかたない気持ちを抱いていた。
いつかアーリンアッドになり替わり、自分が闇夜族をまとめ上げ、人族を蹴散らしこの大陸の覇権を握ってみせる。そんな思いを抱きながら、オズヴァルドは侯爵家当主となってからもその牙を隠しつつ、アーリンアッドの隙に目を光らせ生きて来た。
そんな願いが通じたのか、それから数十年後。アーリンアッドに大きな変化が訪れた事で、彼の願いは一歩成就に近づく事になる。
それは、アーリンアッド家に光の精霊を迎えたと言う報せであった。
闇を生きる闇夜族にとって、光の精霊は相容れない存在だ。だというのに排斥するどころかそれを迎えると言う判断は、闇夜族にとっては到底看過できない事態である。
オズヴァルドも当然最初は憤慨した。だが彼はすぐにこの事態が自分にとって好機であると考えた。
光の精霊に迎合したとして、アーリンアッドの権力を削ぐ。そうして彼の家から求心力を失わせ、闇夜族への影響力も低下させようと目論んだのだ。
その企みはすぐに功を奏し、使用人達は次々と彼の家を見限り始める。結果今ではアーリンアッドは見る影もない程落ちぶれ果てた。
オズヴァルドの目論見は成功し、キールストラ侯爵家の権威は揺ぎ無いものとなりつつある。だがそれでもアーリンアッドは当時の威光を笠に着て、今でも度々嘴を突っ込んで来る事がまだあった。
今回も。そして一年前に魔族がこの森に現れた時もだ。
だが過去は過去、今は今。
もはや立場は逆転したのだと、オルヴァルドは拳を握り締める。
(このキールストラに盾突くなど奴らを置いて他にはない! もはや我慢の限界よ……! 過去の栄光に縋る事しかできぬ貴様らは、もう闇夜族には必要ない!)
そうして彼は判断を下す。
「捜索は続けろ。アーリンアッドが関与している以外にも、奴らがどこかに潜伏している可能性も捨てきれん。奴らが森を出る事は何としても阻止しろ。特にエイクに関しては絶対にだ。生きてさえいればどんな状態でも良い。絶対に奴を私の前に連れてくるのだ」
「はっ」
「アーリンアッドが匿ったのであれば、どんな小さなものでも良い、必ず尻尾を掴め。疑いでも良い。そうすれば私が奴らの屋敷を捜索する口実を作る。もしその証拠が確固たるものであったならば、これを機に奴らを攻め落としてくれよう。そうだな……クラメル子爵を呼べ」
「は……? クラメル子爵、でございますか?」
執事は主の言葉を復唱する。その声には明らかな戸惑いが滲んでいた。
クラメル子爵と言えば、闇夜族の中でも珍しく炎魔法に卓越した一族である。
だが同時に彼らは、闇夜族の鼻つまみ者としても知られる家系でもあった。
闇夜族にとって水、風、土という魔法はこの森で暮らす上で非常に有用である。 水は森に少ない水源となり、風は停滞する不浄の気を払い、土は営みを豊かにする。
畑に、森に、家屋に生活に。資源の少ない森での生活にこれら三属性は必要不可欠となっていた。
だが一方で火の力は基本的に破壊の力だ。誤れば迷いの森すら破壊する事にもなり得える事もあって、闇夜族は基本的に炎魔法を忌避していたのだ。
そんな理由から火魔法を得意とするクラメル家は当然良い目で見られていない。これをオズヴァルドが知らないはずはなく、執事の言わんとする事は理解をしていた。
だが今はアーリンアッドを落とす事が一番であり、使えるものは何であろうと使うのだ。
痩せても枯れてもアーリンアッドは簡単に倒れはしない。なにせ三百年前の戦を生き延びた者が当主を含め二人もいるのだ。
彼の家を嫌悪するオズヴァルド。だがだからこそ油断も慢心もしなかった。
「ここで我らに協力したならば、キールストラはクラメル家の権威を保証する。そうとでも言っておけば食いつくだろう。これから人族に打って出る事も考えれば手駒はいくらあっても困らん。それに、獲物をいぶり出すのには炎がうってつけだ」
目で理解を促すと、執事は恭しく礼をしてすぐに部屋を出て行く。パタンとドアが閉まる音がすれば、部屋は再びしんと静まり返った。
静寂が占める中オズヴァルドは椅子に体を預け、腕を組みつつこれからの事に思いを馳せる。
同族である事から今まで物理的な手段には訴えて来なかった。しかし今回横槍を入れたのがアーリンアッドであったなら、もうそんな配慮も必要ない。
ここが分水嶺なのかもしれない。
アーリンアッドに屈しながら仮初の主導者に甘んじるか。
それとも本当の意味でキールストラが闇夜族の頂点に立つか。
「父上。貴方の事は嫌いではありませんでしたが……。しかし貴方の思想だけは終ぞ受け入れる事ができませんでしたよ。今のこの状況を知ったら、貴方はどう言うのでしょうね」
呟くも、そんな事は考える必要もない事だった。
ふ、と僅かに口角を上げ笑ったオズヴァルドの表情は、次の瞬間笑みを消し、鋭いものに変わっていた。
「歴史とは過去が作り上げるのではなく、今を生きる者が紡ぐものなのだ。もう十分栄華を満喫しただろう……朽ちた英雄にはそろそろ消えてもらおうか。忌まわしきあの娘と共にな……」
積年の思いが彼を突き動かす。彼はあまりにも鋭い眼差しで、じっとどこかを見つめていた。