303.退路を開け
王国軍にいた頃の話だ。俺は軍務を行う傍ら、生命の秘薬や魔力の霊薬など、貴重な薬を自作できないかと考え色々と試していた事があった。
当時は戦争の真っ最中だ、薬はいくらあっても困らない。だから軍内で作れたら大いに役立つだろうと、そんな理由で始めたものだったが、しかし個人的な興味も多分にあった。
まだ若い頃、傷薬を作れないか試した経験が俺にはあったからである。
山賊なんてやっていたら普通、店で薬なんぞ購入できない。購入できたとしても、貧しい故郷では傷薬すら目玉が飛び出るほど高かった。
なら自分で作るかって、そんな単純な考えだったわけだが、しかし薬の知識というのは叙爵されるくらい貴重な技能である。いっちょやってみっか! で作れたら、そいつはただの天才だ。
そして俺にはそんな天賦の才はなかった。
試行錯誤の末得られたものは草を煎じる手際だけで、山賊仲間に笑いつつも慰められ、俺の試みはそこで潰える。そうそう上手くいかない現実を噛み締めて終わっただけだった、ってわけだ。
そんな経験がある俺が、なぜもう一度と思い立ったか。その理由は同行する事になったエルフ達の存在だった。
彼らは植物に対して特殊な知識を持つ連中で、製薬の知識も豊富に持っていた。だから彼らを頼れば何とかなるかもと、そういう経緯だったのだ。
だが当然ながらエルフ達にとっても、それは門外不出の知識であった。女王に直談判もしてみたが、二人に「駄目じゃ」「駄目です」と同時にばっさり断られた。
だが諦めの悪いのが俺の取り柄だ。そこを何とかと頼み込み、アドバイス程度ならと協力を取り付けて、俺は再び色々と試作に励む事となる。
そうして色々と試した結果唯一できたのが、この瓶の中のブツであった。
結局また傷薬すら作れなかったが、こいつだけが俺の手によってこの世に生み出されたのだ。
エルフの女王二人のお綺麗な顔を引きつらせた、このおぞましく忌まわしい最凶のブツがな。
俺はそいつを口に放り込み、決意と共に一気に噛み砕く。途端、生理的嫌悪感が全身を支配し、俺はカッと目を見開いた。
名状しがたい奇妙な刺激と脳天を突くような激しい生臭さが口内に一瞬で広がり、全身の体毛を逆立たせるような悪寒が体中で暴れ出す。
考えるよりも早く、俺はガバと地面に両手を突いていた。
「ゥオエエエエエェーッッ!!」
まるで瀑布のように口から”中身”が噴き出した。
体が、理性が、本能が。俺の全てが絶対拒否の警鐘をガンガン鳴らしている。
人目を気にする余裕なんぞ一切ない。全身が激しく痙攣し、腹の中のものを無理やりぶちまける。
激しい悪寒に立ち上がる事すらできない。俺はただえずくだけの生命体と化す。
だからこいつは使いたくなかったんだ。死ぬくらいなら使ってやるけどよ、覚悟したって限度があるわ! ヴォエーッ!
俺が取り出したのは薬でも何でもない。あれは薬を作ろうとした結果できた、ただの失敗作であった。
だから薬効などは何もない。ただただ人体に圧倒的拒否反応を強制する、クソ不味いだけの代物だった。
口に含んだが最後、体がアホみたいにガタガタになる、劇物と言って良いクソみてぇなものだ。
だが、毒性はない。後遺症や副作用も無く、人体には奇跡的に無害だった。
だから俺は嫌々ながらも万が一のためにこうして持っていたのだ。
なおこいつの名前は魔力の霊薬の別称、”竜の小便”にちなみ、こう名付けた。
”竜の大便”と。
まさにシット! また俺自身に使う羽目になるとはな! もう泣きそう! というか泣いてる!
「う、うげおおおおお……っ!」
「ナ、ナントイウ事ダ……。コノギィドガ、気分ガ悪イ、ダト……? クッ、ダガ……コレシキ……ィッ! ウゥッ!?」
だが効果は覿面であった。飛んでいたジジイは地に落ちて、俺同様地面にぶちまけている。ギィドもぶちまける程では無いにしても、膝を突き体を激しく震わせていた。
先程あいつらにかけたのは”味覚”の共有だ。こいつを口にすれば最後、誰だって必ず行動不能に陥る。そこに強弱は関係ない。人間なら生理的に無理なのだ。
俺なんてこいつの検証のため一度口にしてしまってから、あの”竜の小便”すら「あれに比べたら……」って飲めるようになってしまったくらいである。
そんなもんを俺は今、窮地を切り開くためにとは言え自ら口にしたのだ。誰か俺を褒めてくれ。褒められたところで全然嬉しくねぇけども。
己の身を犠牲にして隙を無理やり作りだした俺。だがしかし、わけの分からない事態に魔族達は狼狽えるばかりだった。
突然三人が悶え始めただけでなく、内二人がぶちまけているものだから困惑しているんだろう。
だがこの状況を無下にされては尊厳を打ち捨てた俺が救われない。
俺は喉の奥から噴き出そうとする酸味のある液体を気力で押し戻し、無理やりに声を張り上げた。
「早く、しろーッ!!」
俺の声に我に返ったのだろう。ハッとしたガザは弾かれたように俺に駆け寄り、一瞬の迷いもなく俺を肩にぐいと担ぎ上げた。
あ、ちょっと待って! 腹に刺激を与えられると我慢ができ――ヴォエーッ!
「お前らずらかるぞ! 急げっ!」
「はい!」
「ガッテン!」
そんな願いも虚しく、魔族達三人はその場から全力で駆け出した。
なりふり構わず走るガザに、俺の体も激しく揺さぶられる。吐き気と悪寒で回っていた目が、ダメ押しを食らい遠のいていく。
ああ、やっと気絶できる。こいつはぶちまけた後に気を失うまでがワンセットなんだ。これで”竜の大便”から解放される。相棒、後は頼んだぜ……。
遠のく意識に身をゆだねる。がくがくと揺さぶられながら、俺の意識はそこで途切れた。
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エイクを担いで逃げるガザ達三人。彼らは先の十字路目指し、暗い路地を全力で駆けた。
「ガザ様! 大将が気ぃ失っちまったぞ!」
「気にするな! エイク殿は逃げろと言った! 俺達はその言葉に従い、今は全力で逃げればいい!」
後ろからデュポが叫ぶ。ガザはこれに振り返りもせず大声を上げた。
何が起きたのか彼らはまだ理解が及んでいない。しかしエイクが言ったことに今まで間違いはなかった。
ならば今はエイクの言う事を信じると、ガザは一切の迷いを捨てていた。
十字路へと急ぐ魔族達。しかしどうしてかコルツだけが二人から徐々に引き離されていく。
気付いたデュポは焦ったように声を荒げた。
「どうしたコルツ、遅れてるぞ! 怪我でもしたのか!?」
「違います。大将が気を失ったので、魔法が切れたかと思い奴らの様子を見ていました」
魔法をかけた当人が気を失った事で、その効果が切れたのではとコルツは考えたのだ。
後ろを見ながら走るコルツの目には、暗い路地が映っている。煙も上がっていて視界は非常に悪かった。
しかしコルツは魔族である。こんな状況でも彼女には、路地の様子がはっきり見えていた。
後ろには地面にうずくまる二人の姿があった。小さな方は痙攣しており動く気配が全く無い。だが大きな方に動きがあって、コルツは声を張り上げた。
「蟲人がこちらに向かって来ます!」
「何だと!?」
蟲人ギィドがふらつきながらも立ち上がり、こちらへ歩き始めたのだ。
その歩みは非常に遅い。しかし最も危険視する相手が再び立ち上がった事は、魔族達を動揺させるのに十分だった。
「もういいコルツ! 今は全力で走れっ!」
「はい!」
コルツはすぐに前を走る二人を全力で追いかける。ふらつくギィドとの距離は瞬く間に開くが、しかし相手の実力を嫌と言う程知った魔族達は、警戒も足も、全く緩めなかった。
「あの爺さんは倒れたままか!?」
「はい。きっと魔法自体は解けていないのでしょう。あの蟲人も立ち上がりはしましたが、ふらついていました。恐らく魔法か、もしくは効果か。どちらかが奴には効きにくかったんじゃないでしょうか」
「蟲人って奴はどうなってやがるんだ!? 攻撃も魔法も効きにくいって!? ヤバすぎだろ、反則だっ!」
先ほど見た光景から考察するコルツに、デュポが大声でがなる。文句を言いたい気持ちはガザも同じだったが、しかし今はそれどころではない。
彼はチッと舌打ちをするだけに止め、二人を強く急かした。
「エイク殿の代わりに、シャドウ殿が魔法を維持しているのかもしれない……! とにかく奴らの動きが鈍い今がチャンスだ! 急ぐぞ!」
『了解!』
彼らは十字路に差し掛かると、前方のレンガの壁を足場に減速せず左折する。
その先に見えたのは、人と言うにはあまりにも巨大な背中。バドを足止めしている巨人の姿だった。
「ヴオオオオオオッ!!」
巨人が咆哮を上げつつバドに殴りかかる。バドは両腕を交差して相手の拳を受け止めるが、完全に力負けしており後方へ弾き飛ばされてしまう。
体勢を整え何とか着地はするものの、バドの息は荒い。額には玉のような汗がびっしりと浮かんでおり、頬や口元には赤いものも流れていた。
バドのローブはもうボロボロだった。既にフードは脱げており、露わになったバドの顔には激しい殴打の跡も多くあった。
そんな彼を、巨人が険しい顔で見下ろしている。バドはすぐさま地を蹴って、再び男へ向かって行った。
表情こそいつもの真顔だ。しかし血を流し荒い息を吐きながらも遮二無二向かって行く姿には、バドの必死さがにじみ出していた。
「……そんなにも、仲間が大切か。敵ながら、良い心意気だ。だが、ここを通すわけには、いかないっ!」
猛獣が唸るような低い声を出しながら、男は腕を上下に開いた構えを取る。男の体から巨大な闘気が溢れ出し、ただでさえ大きな男の体躯が、バドには更に一回り膨れ上がったように見えていた。
しかしバドは一瞬すら怯まない。怯む理由が無い。
そこをどけ。そう叫ぶかの如く、彼はまるで野生の獣のように、男へ真っすぐに飛びかかって行った。
「バド殿ッ!」
「――む!?」
魔族達が走ってきたのはそんな時だった。
バドを呼ぶガザの声が轟き、二人は弾かれた様にそちらを向いた。
「何!? ⅤとⅦを、やったのかっ!?」
走って来るガザ達に、巨人が驚愕を口にする。あの二人がやられるなど考えもしなかったのであろう。その目も驚きに大きく開かれたのだが、しかしそれはほんの一瞬であった。
巨人は即座にバドに背を向けて、魔族達へと地面を蹴った。狙うはエイクを担ぐガザ。”断罪の剣”の狙いはエイクだ。彼を担ぐガザをまず始末しようという狙いだった。
「ウオオオオオオッ!!」
男は咆哮を上げながらガザへ飛びかかっていく。突然の強襲に不意を突かれ、ガザは咄嗟に迎え撃つ態勢を取った。
だが、ガザはすぐにハッと気付いた。今自分はエイクを担いでいる。片腕でどう戦うと言うのだ。しかも相手はあのバドすら吹き飛ばす猛者だと言うのに。
避けるべきだった。いつもの癖だった。だがやり直しが効くはずも無い。
当然男はその隙を見逃さず、右拳をガザへ叩きつけた。
「その男の命、もらい受ける!」
人間の頭より巨大な拳が、ガザの顔面目掛けて飛ぶ。
エイクは勿論魔族達も、誰もが反応できなかった。
正しく反応できたのは、この男一人だけだった。
「何っ!?」
人一人たやすく粉砕したであろう鋭い突き。それを受けたのはガザでもデュポでもコルツでもない。
重厚なオーラを立ち昇らせたダークエルフの戦士。バドがそこに立っていた。
「”堅牢なる聖盾”――!」
男の突きを左腕で受け止めたバド。彼は男の懐へ飛び込んだ。
体全体を覆っていたオーラは、そのまま彼の右拳に集まっていく。まるで太陽のように光り輝く拳。バドは自分の全力を、男の体に叩きつけた。