302.絶体絶命
「リリさん!? どうしてこんな場所に……!?」
スティアは驚きに声を上げた。後方、少し離れた場所に立っていたのはいたのは、以前別れた仲間のリリだったのだ。
彼女と別れたのはもう三か月以上前の事になる。
セントベルでパーティを組み、少しの間行動を共にした仲間。しかしその後はそれぞれの目的のために別れて、顔を見たのはそれきりだった。
旅の途中手紙を貰い、リリが自分達を追っていた事は知っていた。しかしこの町で再会する事になるとは露ほども思わなかった。
しかもこんな場所、こんな緊迫した状況で。
スティアは困惑と驚愕が入り交じった眼差しでリリを見つめる。だがそれを向けられるリリは一瞬口元を緩ませたのみで、すぐに厳しい表情を浮かべて二人のそばへと歩いて来た。
「色々と話したい事はありますけど、この状況では残念ですが無理ですね。あの人を足止めすれば良いんですよね? ここは私に任せて下さい」
色々と思う事はあった。しかしリリの言う通り、急を要する事も確かだった。
足止めをしてくれるのなら確かにありがたい話だ。しかしスティアはあのオリヴェルを相手に、リリが一人で戦えるとは到底思えなかった。
そして、それは向こうも同じだったらしい。
「面白い冗談だ。たったの一人で俺を足止めするだと?」
地面に刺さった氷柱を魔剣で切り払ったオリヴェル。冷気を放つ氷の塊は一瞬で切り刻まれ、ガラガラと地面に転がった。
「随分と舐められたものだな。お前が何者かは知らないが、できると思うならやってみるがいい」
オリヴェルは氷の欠片をバキリと踏みつぶしながら、リリを値踏みするように睨みつけた。
冷たい殺気がリリを貫く。だがリリは臆することなく、それを厳しい表情で、真正面から受け止めていた。
殺気を向けようと怯む様子もなく見つめ返してくるリリを見て、オリヴェルはぴくりと片眉を動かす。
僅かな沈黙の後、彼はぽつりと独り言を溢した。
「……龍人族か」
暗闇に浮かび上がる淡い黄色の瞳。その月を思わせる龍眼を見て、オリヴェルは彼女が何者かを理解したようだ。
彼の闘気がより濃さを増していく。だがリリはやはりそれに応じることは無く、さらりと受け流してその場に杖を突いて立っていた。
「リリさん。オリヴェルは――あの男はかなりの手練れです。リリさんの実力は分かっていますが、それでも貴方は魔術師。一人では流石に分が悪すぎますわ」
魔法を使う際に詠唱が必須という制約がある以上、魔法使いは単独で戦う事にはかなり不向きである。
何らかのサポートがあって初めて輝く。これが魔法使いの常識だった。
リリへ警告するスティア自身は前衛もこなせる魔術師であり、単独で戦う事もできるのだが、これは異例中の異例である。魔法使いは基本的に魔導杖以外を持たない。あったとしても精々が、身を守るために盾を持つくらいであろう。
だがその盾ですら、持っている魔法使いは圧倒的に少ない。どうして身を守る防具すらなぜ持たないのか。そこには魔法使い達の抱える、ある事情があったのだ。
装備と言うのは当然だが、戦う時以外にも持ち歩く必要がある。非力な魔法使いにはそれがかなりの負担となり、体力を奪ってしまうのだ。
体力を不要に消耗していれば、いざ魔法を使うという時に集中を乱す原因ともなり得る。詠唱中に重い盾など持っていたら尚更だ。
魔法使いの仕事は魔法を放つこと。だからこそ、その時となって不発に終わるような事は絶対に避けなければならない。
そんな理由から、魔法使いは魔導杖以外持つ事を非常に嫌がる。ならばこそ、戦うための武器を魔法使いが持つなどありえない事だったのだ。
リリもまたそんな魔法使いの枠から出ない、完全に後衛専門の魔術師だった。短縮詠唱はできるが、それでも魔法の発動に時間を要するのは必至。
分が悪いとは口にしたものの、あのオリヴェルと一対一では、勝てる見込みはほぼゼロであるとスティアは考えていた。
「大丈夫ですよ。私を、信じて下さい」
しかし。リリはスティアに軽く笑って返したのだ。
彼女はすっと目を細め、再びオリヴェルに杖を向ける。彼女の握る水鏡乃杖、その先端に鎮座する宝玉がまるでオーロラのような光彩を放ち始め――
「”氷晶の棺”」
そして、リリは唱える。
そこに詠唱は存在しなかった。
「な――!?」
オリヴェルが出来たのは、たったの一文字を口から出す事だけだった。
リリの言葉を合図にオリヴェルは一瞬にして凍結し、高さ三メートルはあろう氷塊に完全に閉じ込められてしまったのだ。
上級魔法、”氷晶の棺”。敵を氷に閉じ込める、かなり難易度の高い魔法である。
だが本来この魔法は数秒程をかけて凍結させるはず。だのにリリは一瞬で巨大な氷を作って見せた。しかも詠唱らしい詠唱も無く。
鮮やかに有言実行してしまったリリ。スティアは目を見開いて、その場に立ち尽くす事しかできずにいた。
「む、無詠唱!? そんな!? これは……一旦全体どういう……!?」
スティアは驚愕の表情をリリに向ける。
しかし当の本人はと言えば、
「無詠唱とはちょっと違うんですけどね。でも、それ以上は秘密です」
と、小さくクスリと笑っていた。
かつて龍人族を生み出した龍神サリトゥーア。リリの持つ水鏡乃杖の宝玉は、その龍神の瞳をくり抜き作り出した神石であった。
龍神の力を内包するその神石は、物質でありながら生物としての側面も持つ。その意志を持った宝玉は、所有者の願いに応えて代理で魔法を詠唱するという力を持っていた。
青龍姫の実力は、水鏡乃杖の力を如何に引き出すかによって決まる。二百年前の青龍姫などは、杖の力をもって魔法を三種同時に使う事も可能とした才媛だったと言う。
現在の姫であるリリはまだ若く、まだそこまでに至っていない。だが水の上級魔法であれば問題なく杖での魔法の行使ができる実力を既に持っていた。
この事実は青龍族にのみ伝わる秘技であった。人の好いリリではあるが、彼女は青龍族をまとめる姫だ。立場上これを簡単に誰かに教えると言う事は流石になく、そこは口を噤んでいた。
だがそれでも。その秘技を彼女達の前で惜しみなく行使したという事実は、リリが彼女達をいかに信頼しているかという心情を明確に表していた。
「でっかい氷! りりちん凄いっ!」
ホシがわっと抱き着くと、リリもそれを抱きしめて返す。これを見て我に返ったスティアも脱帽の息を吐いた。
あそこまで鮮やかに決められては、さしものオリヴェルも脱出は困難だろう。リリは自分の言った言葉をちゃんと達成してくれた。
スティアは彼女がこの場に来てくれたことに、心の底から感謝をした。
「本当にやってのけるとはお見逸れ致しました。助かりましたわ、リリさん」
「ええ。でも、あの魔法もそう長く持たないみたいですね。見て下さい。もう氷にヒビが入っています。私、フロストベアだって十分以上は拘束できるんですけど。凄いですねぇあの人」
フロストベアはランクAの魔物だ。その毛皮は売れば数十年は暮らせる高級品だが、そのパワーはすさまじく、四メートルを優に超す巨体から繰り出される一撃の前には、鋼の防具も粘土同然なのだと言う。
それを十分以上も拘束できるというのは凄いが、しかし目の前の男はそれをもう破壊しようとしていると言う。見れば彼の体からは激しい白いオーラが立ち上っていた。
あの魔法は敵を閉じ込めるだけでなく、寒さで凍傷を負わせつつ体力を奪う効果もある。だと言うのに、オリヴェルはそれを物ともしていない。
精で体を最大まで活性化させ、脱出しようと抗っている。氷はビキビキと音を立て、もう細かなヒビすらでき始めていた。
「私も魔力を送って抵抗していますが……精々五分が限界でしょう。さあ行って下さい。エイクさんとフリッ――いえ。バドさんによろしく伝えて下さい」
ここまでの抵抗を見せられるとはリリも思っていなかったのだろう。抱き着くホシの肩に手を置き、優しく離しながらリリは言うが、表情には若干の焦りが浮かんでいた。
「りりちんありがとう! すーちゃん、行こう!」
ホシもその意を察して、スティアの手を引き行こうと促す。しかしスティアはその前に、彼女に聞いておきたい事があった。
「……理由は聞かないんですの?」
リリはこの場に来てすぐ魔法を放ち、こうして自分達を援護してくれている。
話は何も聞いていないはずだ。なのに何も聞かないリリに、スティアは問うような目を向ける。
「じゃあ、後で聞かせて貰いますね」
しかし返ってきたのはそんな言葉で。
スティアは目を丸くしてしまった。
(じゃあって。では理由を聞く気も無かったと? そういう事ですの?)
何も事情を聞かず、あの危険な男相手に、自分達が立ち去るための時間を稼いでくれたというのか。
リリが発したのは短い言葉だった。しかし当たり前のように放ったその言葉に、スティアはリリの、自分達への信頼を見た気がした。
「リリさん。後で絶対にまた会いましょう。……ありがとう!」
「りりちん、またね!」
「はい。また」
スティアはリリの瞳を真っすぐ見つめた後、くるりと背を向けて路地を走り出す。ホシも手を振りながらスティアに続いて走って行った。
リリは二人の背中にふりふりと手を振ってそれを見送る。だがすぐに顔を真剣なものに変え、彼女らの姿に背中を向けた。
「さて……」
リリが振り返れば、そこにいる男は氷の中から自分を睨みつけていた。
「すみませんが私も自分から口にした以上、すぐに貴方を開放するわけにはいかないんです。全力で貴方をここに足止めさせてもらいます」
リリは杖を両手で持ち、コォンと地面に突き立てる。集中するように目を閉じれば、氷塊に広がっていたヒビ割れがぴたりと止まった。
「――だから。すぐに抜けられるとは思わないで下さいね」
オリヴェルの視線がより一層強さを増す。再び開いたリリの龍眼も、鋭い輝きを放ち始めていた。
今までの破壊音が鳴り響く場所から一転、今度は異様に静かな戦場へと路地は変貌を遂げていた。
住民が避難した今、耳が痛くなるような静けさが二人を覆い尽くしている。しかし互いの全力をぶつけ合う苛烈さだけは、何も変わってはいなかった。
方や精を振り絞り、方や魔力を放出し続けて、二人は互いの全力をぶつけ合う。
静かに火花を散らす二人。時折ピシリと響く軋む様な音だけが、その空間に小さく存在していた。
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「く……っ。何が、どうなった……っ?」
爆風で吹き飛ばされ、俺は地面にうつ伏せに転がっていた。
呻きながら顔を上げる。路地の様相は先ほどから一転、黒一色に変わっていた。
路地を形作る地面もレンガの壁も、どれもが一様に真っ黒に染まり、黒い煙をぶすぶすと上げている。
焦げた臭いが鼻を突き、思わずむせそうになってしまう。俺は煙を吸わないよう地面すれすれに顔をつけ、思いきり空気を吸い込んだ。
(ギィドはどうなった……!?)
立ち上がり、煙が充満する路地の先を睨みつける。ただでさえ夜で見にくかったと言うのに、今はもう何も見えない状態だった。
「くぅ……!」
「な、なんつぅ威力だ……っ」
俺の周りには魔族達も転がっている。あの爆風で俺同様に吹き飛ばされたのだろう。呻くような声が聞こえるものの、とりあえずあの一撃での負傷は無いらしい。
それは良かった。後の問題は、俺がその一撃を叩きつけた相手が今どうあるかだが。
できるならあれで終わっていて欲しい。そう願いつつ、黒煙で覆われた路地を睨みつける。
だが不意に、その煙の中に一つの人影が浮かび上がる。そいつは確かな足取りで、こちらに真っすぐに近づいて来た。
俺は魔剣を構えてそいつを迎える。黒煙の中から現れたのは、やはり、一番見たくなかった相手だった。
「……良イ、一撃ダッタ。久々ニ死ヲ覚悟シタ」
そうは言うものの、ギィドは四本腕こそ黒ずんでいるがそれ以外に負傷は無く、痛そうなそぶりすら見せない。
魔剣を振り下ろした際、ギィドの体からはオーラが出ていなかった。精技無しで防御しきったってのかよ。あれを。
「チッ……! その割には随分とピンピンしていやがるじゃねぇかよ……!」
「ソウデモナイ。腕ガ全テ使イ物ニナラナクナッタ。拳ヲ握ル事スラママナラナイトハ、初メテノ経験ダ」
「精技も使わねぇで受けるからだぜ。舐め腐りやがって、いい気味だ。ケッ」
自分の怪我をさらりと言うギィド。奴は自然体でそこに立ち、俺を真っすぐに見つめている。
まるで世間話でもしようと言う佇まいだ。だがその衰える事のない闘気が、これからの事を明確に語っていた。
「勘違イシテイルヨウダガ。我ラノ身ヲ守ルハコノ装甲ノミ。精ヲ高メレバ高メル程、コノ装甲ハドコマデモ硬クナリ、輝キヲ増ス。我ラ蟲人族ハ防御ニ精技ヲ使ワナイ。コレハ我ラノ誇リナノダ」
つまり魔力で固くなるミスリルの蟲人版ってわけかい。生まれつきそんなもん持ってるなんて反則だろうがよ。
俺なんて少し前に魔剣を初めて持って、年甲斐もなく喜んでたってのに。クソッタレめ。
「ダガ……ソノ我ノ装甲ヲココマデ傷ツケルトハ。貴様ガ初メテダ。故ニ、我ハ貴様ヲ好敵手ト判断シタ。――ココカラ先ハ、我ノ全力ヲ尽クスト誓オウ!」
まるで暴風のように叩きつけられる奴の気迫に、俺は無意識に一歩足を引いていた。厄介な奴に目を付けられちまったなクソっ。
ジジイに魔法をぶっ放し、ギィドに先程の一撃を食らわせた。精も魔力ももう殆ど残っていない。
先程の一撃は、もう放てなかった。
「エ、エイク殿……!」
「大将っ!」
奴の気迫を感じ取ったガザら魔族達も俺のそばへ寄って来る。
一対一じゃ恐らく勝てない。だがこいつらと一緒に戦えばギィドも手負いだ、何とかなるかもしれない――
「ひょ、ひょ、ひょ」
そんな思いを、聞き覚えのある声が否定した。
「老い先短い老爺にとんでもない仕打ちをしてくれたの。……危うく死ぬところじゃったわ」
俺達の後ろから聞こえた声に振り向けば、そこには先ほど吹き飛ばしたはずのジジイが、目線より少し高いことろにふわりと浮いていた。
奴はボロボロの姿でローブもあちこち鮮血で染まっている。が、ジジイ自身は苦し気な素振り一つみせずそこにいた。
「やってくれよったな。こいつを持っていなければあわや、と言うところじゃった。転ばぬ先の杖とはよく言ったものじゃよ」
ジジイは懐から一つの瓶を取り出して、こちらにポイと放った。俺の足元でかつんと跳ねたそれは、割れずにころころと転がっている。
傷薬などの安価な薬を入れる瓶だったなら普通割れるだろう。だがわざわざ割れない瓶を使う。そしてあれ程の傷を癒す薬。
そんなものは一つしか考えられなかった。
「生命の秘薬か――っ!」
「我らは絶対に任務を失敗しない。それ故、有事に備えて一人一人が必ず常備しておるのじゃよ。無論そこのギィドもじゃ」
「な、なんだと!?」
つまりギィドが負ったあの傷も、生命の秘薬を使いさえすれば元通りって事か。
こっちは消費だけしてるってのに。
世界樹で使いまくったせいで、こっちには生命の秘薬なんて殆ど残っていない。
……最悪の状況じゃねぇかよ。
「……どうする、エイク殿」
”断罪の剣”二人に挟み撃ちされ、逃げ場を失った俺達。
危機的状況にガザが低い声を出した。
引くべき退路は無く、戦力的にも敵が圧倒的に優位。
この状況を切り開かなきゃならねぇ。だが誰も死なせねぇ。
両立するのは現実を考えれば不可能だった。
「ガザ、頼みがある」
「……何だ?」
迷っていられる状況じゃない。
俺は、ある一つの覚悟を決めた。
「これを使って俺がぶっ倒れたら、俺を担いでこの場から逃げろ」
「な、何?」
俺が懐から取り出したのは一つの瓶。絶対に口が開かないように、かつて俺が厳重に封をしたものだった。
これを使えばこの場は切り抜けられる。ギィドもジジイも人だ。人である以上、こいつを食らえばただでは済まない。
無論この俺自身も。
「ガザ! 後は頼んだぞ!」
自分に言い聞かせるように言い放ち、俺は皆にかけていた≪感覚共有≫を切った。
即座に前後の二人へ魔力を飛ばす。ギィドとジジイに魔力が届いた事を感じた俺は、再び声を張り上げた。
「≪感覚共有≫ッ!!」
そして瓶の封を開け放つ。中に入っていたのは人差し指と親指で丸を描いたくらいの大きさの、ごつごつとした黒い塊だった。
「む? 補助魔法じゃと? 一体何を――」
ジジイがかかった≪感覚共有≫に反応し、不思議そうな声を上げる。そりゃそうだ、いきなり敵に補助魔法をかける馬鹿なんて普通はいなからな。
だがな、例外ってのは世の中にはあるんだよ。そいつをこれから見せてやる。
俺は瓶を強く握りしめると、中身を盛大に口へ放り込んだ。