295.月明かりの下で
「全く、何でまたこんな時間に走り回らなきゃならねぇんだ。くそっ」
俺はぼそりと独り言つ。今日は幸いにして月がぼんやりと空に浮かぶ、多少は明るい夜だった。
だが、そうと言っても夜である。しかも深夜だ、何もなしに捜索ができる程明るくも無い。
ランタンの明かりを頼りに、俺とバドは通りを走る。
「……? 何か向こうで話をしていやがるな」
走りつつ耳を澄ませると、どうもスティアは一人でないらしく、何者かの低い声が聞こえてくる。
だがその声はぼそぼそとした小さなもので、内容が全く聞き取れない。どうしてか向こうは小声で会話をしているようだった。
なぜ普通に話さないのか分からないが、だがこれで一つの事が分かる。恐らくスティアとその人物は、第三者に察知されたくないのだ。
しかも聞き取れないような声で会話するほど徹底している。となれば当然、スティアは簡単に居場所が分かるような場所にいない、という事になる。
全く、骨が折れそうだぜ。
「おいホシ。お前今、路地にいるんだろ?」
俺はホシへ声を掛ける。
《ええ? どうして分かったの?》
「へ、お前とどれだけ一緒にいると思ってんだ。簡単な推理よ、推理」
《おーっ! えーちゃん凄い!》
ホシの奴は異様なまでに勘が鋭い。当の本人は、なぜ自分が今路地を歩いているか、どうしてそこを選んだのか、理由を説明できないだろう。
しかしあいつはその直感で、今まで様々な事態を解決してきた実績があった。
きっと今も真っすぐにスティアのもとへ向かっているはずだと、俺はそう確信を持っていた。
それを知る俺はホシの行動に自身の経験を加味し、更に推理する。
人目につきたくないならば、選択肢は大きく二つ。入り組んだ路地を使うか、どこかの建物に潜伏するか。そしてその内どちらを選ぶかに関しては、目的次第だ。
誰かとの接触が目的だったなら、接触時間が短ければ路地を、長時間なら建物を基本的に選ぶ。
接触時間が短いのにわざわざ建物を抑える馬鹿はいない。抑えるための労力があるし、何より動きを察知されるリスクがあるからな。
こういう場合、自分と接触する相手以外、人を関与させないのが望ましいのだ。まあ拠点が町中にあるなら話は変わるが、それは今置いておこう。
なにせ先程聞こえた会話に少なくない手掛かりがあったからな。
俺は再度ホシへ疑問を投げる。
「もしかしてお前、今スラムにいるのか?」
こういう状況で選びそうな場所となるとスラムだが――
《あはは、そっちは外れー。スラムじゃないよーだ》
ならスティアは町中の、どこかの路地にいる、で間違いない。建物を貸し切っているんなら、声量をあそこまで落とす必要がないからな。
とにかくスティアが建物の中にいない事は分かった。なら後はホシを見つけて合流するのが一番の近道だ。
ホシはこういう行動に迷った時、滅茶苦茶頼りになるからな。
「じゃあホシ、お前今どの辺の路地にいるんだ?」
《分かんない!》
……うん。ホシが頼りになるのは確かなんだ。
けどこいつ、説明ができねぇんだよなぁ……。
どうせそんなこったろうと思ったよ。俺はがりがりと頭を掻く。
とにかくだ。ホシは宿から西の方向にいるのは間違いない。なら今はまず西へと急ごう。
俺達はランタン片手に、レンガ造りの通りを西へと走る。暗闇に支配された無音の町に、俺達が駆ける音だけが小さく反響する。
まるで俺とバドだけしかいないような錯覚すら覚える。こうまで静かだと、何か一つでも物音がすればすぐに分かるだろう。
僅かな音も聞き逃さないよう、俺は足音を消しながら走る。一方バドはそういう技能が無いため普通に走っているが、それなりに努力しているらしく、そこまで大きな音はしなかった。
しばらくそうして西へ向かう俺達。すると数分走った頃だろうか、俺の耳が僅かな物音を聞きつけて、目が反射的に左へ向いた。
少し先にあったのは、左に折れる大きめの路地。そこでひらりと何か――衣服の裾らしき物が舞ったのを、俺は確かにこの目に捉えていた。
(何だ? 見えたのはローブか、それともマントか?)
暗くて詳しくは分からなかったが、誰かが通りに出ようとして、だが止めて戻って行ったように俺には見えた。
「バド、見えたか?」
一度足を止めて前にランタンをかざす。やはり今はもう何もない、ただの路地がそこある。
隣のバドに横目を向けるも、しかし彼はふるふると首を横に振っている。この暗さだ、俺の後ろを走っていたバドが見えなかったのも仕方がない。
だが見えた手がかりらしきものを、このまま放置はあり得ない。
路地に駆け寄りランタンをかざせば、レンガでできた路地がずっと真っすぐ伸びている。だが路地は通りよりも深い闇に包まれており、奥に何があるかは見えなかった。
「行ってみるっきゃねぇな……ん?」
俺が踏み出そうとすると、ぽんと肩に手を置かれる。振り向けば、バドが俺を見ながらランタンへ手を伸ばしていた。
何があるか分からない。自分が先を歩くと言うのだろう。
「分かった。頼むぜ」
一瞬考えるも、俺は彼へランタンを手渡す。
そして、暗闇を切り開くように進み始めたバドの背中に続き、俺もその路地へと足を踏み入れた。
「ホシ、お前今どこにいる?」
《まだ路地だよー。すーちゃんいないねー》
「さっき路地から出ようとして引き返したか?」
《してないよ? ずーっと路地!》
小声で問えば違うとの返答がある。ならさっきのはホシじゃないという事だ。
先程見えたものを思い出す。一瞬過ぎて詳しい特徴は分からなかったが、少なくとも色は白では無かったように思う。
スティアなら白いローブのため、あれはスティアでもない可能性が高い。だが用心深いスティアの事だ、今は違うローブを着ていたのかもしれないし、もしかしたら先程見えたのは彼女と一緒にいた人物の可能性もあった。
何より俺達が来たのを見て、急いで引き返したように俺には見えた。
何かある。山賊として培ってきた勘がそう言っていた。
耳を澄ませながら俺とバドは二人、急ぎ足で路地を歩く。道中何度か分かれ道があったが手がかりも無く、とりあえず真っすぐ進んで行く。
左右にレンガの壁が建ち並ぶ、代り映えのしない景色が続く路地。周囲は変わらずしんと静まり返り、人の姿は全くない。
先ほど見えた人の痕跡がまるで幻だったかのように思えてしまう。
それ程この場所は人の気配というものに無縁だった。
だが、どうしてだろう
俺はこの路地に何かあると、同時に確信を抱き始めてもいた。
いつの間にか俺の足は止まっていた。
(……この、感覚は)
前に進むにつれ、冷たい何かが足元からせり上がってくるような感覚。
全身を縛るようなそれ。俺はこの感覚には覚えがあった。
「バド」
思ったより低い声が出た。
呼ばれてバドが振り返る。彼は俺から少し離れ、前方にあった十字路に差し掛かった所まで進んでいた。
俺が足を止めていた事に気づかなかったらしく、彼は少し離れた場所で不思議そうに首を傾げている。
ランタンの光が彼の姿をぼんやりと照らし出す。
どうにも嫌な予感がした。
「ドラゴンの尾を踏んだかもしれねぇ……。こっちに来い、今盾を出すから――」
持っておけ。そう言おうとしたのだが。
その言葉は結局、俺の口から出てくることは無かった。
「ヴオオオオオオーッ!!」
右側の路地から、何か巨大なものが十字路へ飛び込んで来たのが視界に映った。
そいつは咆哮を上げながらバドを思いきり殴り飛ばし、そのまま彼と共に左の路地へと消えて行く。
一瞬の出来事だった。ランタンがガシャンと足元に転がる。
「な――バドッ!!」
ただバドを案じる言葉だけが、口から飛び出していた。
俺は目の前を素通りしたそいつの姿を、一瞬だがこの目にした。
二メートルを超える巨躯のバドを、更に超えた人間。袖の無い服に革鎧らしきものを着た巨大な男。
そいつが降りぬいた筋肉で隆起する腕は、俺の胴程に太かった。
巨人。そんな言葉が俺の頭に浮かび――
「ひょ、ひょ、ひょ」
そして、消えた。
「いやはや、運命とは分からんものじゃ。運命神の導きとやらも、あながち馬鹿にできんらしい」
十字路の向こう側から声がする。見れば一体いつからだろう、一人の老爺が闇の中、音もなくそこに立っていた。
俺の半分程度の身長で、背中は大きく曲がっている。自分の上背より大きな杖を突いている事だけが、以前見た時と異なっていた。
「テ、テメェはっ!」
「じゃがこれも縁というものよ。罪深き者よ、己の命運を受け入れ、大人しく奈落の底へ落ちるが良い」
それは食堂で見た老爺だった。彼は話しながら手を伸ばし、顔を隠していたフードをばさりと脱ぐ。
白い長髪に皺くちゃの顔、そして閉じられた両目が露わになる。
だが俺はその事よりも、一つのものに目が釘付けになった。
「お前――エルフか!?」
顔の両側から突き出た長い耳。それは正しく、エルフである事の証明だった。
なぜこんな場所にエルフがいるのか。そう思うも、俺は既に知っていたのだ。エルフがここにいるだろう一つの理由を。
「既にお主には名乗ったが、改めて名乗らせて貰おうか。”断罪の剣”のⅤ――。お主に怨恨は無いが、依頼によりお主の命、この場にて頂戴する」
老爺は両目をゆるゆると開く。しかしそこにあったのは、人間らしい瞳の輝きでは無かった。
あったのは銀色に輝く金属のような光。この暗闇でも良く見える程それは輝き、そして奇妙な程にグリグリと回転をしていた。
何だこいつは――!?
俺は恐れか警戒心か、無意識に腰の魔剣を抜き放つ。だがそれと同時に奴の目の回転がぴたりと止まり。
同時に老爺はカッと瞼を開き、大声で口にした。
「”灼熱の縛鎖”!!」
全くの無詠唱から紡がれた魔法は、突如俺の足元から炎を噴き上げる。
絡みつく炎で敵の全身を焼く”灼熱の縛鎖”。それを知る俺は反射的に地面を蹴ろうとするが――
「な、何ッ!?」
突如地面から四本の腕が現れ、俺の足首をがっちりと握った。その膂力はすさまじく、足の骨がギシギシと悲鳴を上げる。
俺を逃がさないと言うよりも、そのまま絞め殺そうとでも言うようだ。拘束から逃れようともがくが、四本の腕は万力のように俺の足を締め付ける。
「う、おおおおおおーっ!!??」
地面に磔にされた俺はたまらず大声を上げる。
噴き上げた炎が瞬く間に勢いを増し、俺を包み込んで行く。
「ひょ、ひょ、ひょ。安心せい、痛みなど感じぬよ。一瞬で灰にしてやろう、せめてもの慈悲じゃ」
視界が赤に染まる中、俺の耳にそんなしわがれた声が届いていた。