31.ユーリのパン屋
「ただいまー! お母さーん!」
ユーリちゃんの案内でその店に入った途端、彼女は大きな声を上げて店の奥に駆けて行く。ユーリちゃんが走るに従って床がぎしぎしと小気味良い音を立てるが、それも徐々に聞こえなくなっていった。
店の様子を見ると、派手な装飾は無いが、真っ白いテーブルクロスがかけてあるテーブルが三台並んでいて、決して汚い感じではない。外の様子を見る限り多少ボロボロでも気にしまいと思っていたが、これは意外だった。
確かに良く見ればあちこち修理した跡はあるものの特に目立っているわけでもなく、そう気にはならない程度だ。
ただ、気になるといえば気になる点がたった一つだけある。それは、だ。
「誰もお客さんがいませんわね」
「……そうだな」
「店員さんもいませんわ」
「……そうだね」
全部スティアが代弁してくれたわ。
そう、人がいない。もう昼だというのに誰もテーブルに座っていないのだ。
それどころか、店員も含めて誰一人として店におらず、がらんとした雰囲気に気圧されるほどだった。
席に着こうかどうか迷ったが、使った様子も無い綺麗なテーブルクロス達が逆に俺達を拒んでいるような気すらする。他の三人も同じだったようで、どうも足を踏み出す気になれず、俺達四人は入り口で呆然と突っ立っていた。
そうしていると、ユーリちゃんが消えていった方からすぐにバタバタと足音が聞こえてきた。
「あ、あら! まあ! 本当にお客さんだわ! いらっしゃいませ!」
奥からユーリちゃんと一緒に走って出てきたのは、薄い茶色の髪を首元で縛った一人の女だった。まあお母さんなんだろう。確かにユーリちゃんと顔立ちが実によく似ている。
奥で何か作業していたのか三角頭巾を頭に巻き、エプロンをかけたまま慌てて出てきた。
作業するのはまあ構わないんだが、接客する店員はいないのだろうか? これだとお客さんが来てもほったらかしになると思うんだが。
「どうかお掛けください! さあさあ!」
「ホシちゃん、こっち!」
「う、うん」
なんか、この二人から絶対に逃がさんという気迫を感じる。ホシも同じように感じたのか珍しくうろたえていた。
俺達は二人に促されるまま目の前のテーブルについた。と思ったが、バドだけは立ったままだ。
「ああ、そうか。椅子が……」
「あ、あの? 椅子? ですか?」
バドが立ったままの理由が分からず、お母さんが困惑している。まあ普通分からないよな。
「ああ、多分彼が座ると椅子が潰れるからですよ。バド、どうする? 鎧脱がせて貰うか?」
「あ、あの、これ、使ってください!」
どうしようか迷っていると、ユーリちゃんがもう一脚椅子を持って来てくれた。ああ、二つに渡って座ればなんとかなるか?
バドに視線で聞くと、ちょっと戸惑っていたが試してみるようだ。
背負っていた盾を外してから二つ並べた椅子の真ん中にゆっくりと腰を下ろすバド。椅子が少したわみ苦しそうな音を出したが、なんとか一応座れたようだ。
なるほど、盾抜きで椅子二つならなんとか座れるのか。今度からそうすることにしよう。
というかどれだけ重いんだよバドは。そのうち床が抜けるんじゃないのか。椅子より床の方が心配になってきた。
「すみません、今ランチのメニューは一つしかなくって……。パンと、豆と肉を煮込んだスープ、あとソーセージ二本で小銅貨12枚なんですが、よろしいですか?」
正直に言えば、そのメニューで小銅貨12枚は少し高めだ。ただこの町の状況を見ると物流もまだ回復していなさそうだし、むしろ頑張っているほうなのかもしれない。
「じゃあ、それを四人分お願いします」
あまり値段のことは気にせずに頼もうかとそこまで言った途端、申し訳なさそうな声が何処からか聞こえてきた。
《大将……ソーセージを……っ!》
《ば、馬鹿っ! あんたは黙ってなさい!》
「すみません、ソーセージだけ持ち帰りってできます?」
「え、ええ! できますよ!」
《よっしゃ! やったぜ!》
「それじゃソーセージだけ十人分追加で」
《お前という奴は……。大将、申し訳ない》
「じゅ、十人分!? かしこまりました! ソーセージ十人分で銅貨1枚ですがよろしいですか?」
「ええ、お願いします」
《ありがてぇ! 大将、恩に着ますぜ!》
「ありがとうございます! 少々お待ちください!」
《あんたはと言う奴は……!》
ユーリちゃんのお母さんは注文を取り終わるとパタパタと店の奥へと引っ込んでいった。
彼女の背中を見送る俺の耳には、ソーセージなんてご馳走だとかなんとか言う魔族達の話し声が、≪感覚共有≫を介してわちゃわちゃと聞こえてきた。
ユーリちゃん達には魔族の声は聞こえないからいいものの、誰かと話しているときに向こうからも話しかけられると脈絡が滅茶苦茶になって混乱するから勘弁して欲しい。
ちなみにソーセージを所望したのはデュポだな。彼らの外見の違いはまだ分からないが、声で誰が誰なのかはだんだんと判断がつくようになってきた。
チサ村からセントベルへは丸二日かかったが、その間にもこうして話をしながら歩いてきたため、彼らも大分調子が出てきたみたいだ。
向こうの話がこちらにも聞こえてしまうため、有事を除き、基本的に魔族同士で喋るときは小声で喋り、こちらには話しかけないよう言っておいたのだが、たまに我慢できずこんな風に話しかけてくることがある。まあ大体飯の話なんだが。
ただ理由は不明だが、いつの間にか彼らが俺のことを大将と呼ぶようになっていた。
なんかおっさん臭くてちょっと気が乗らなかったのだが、まあ実際おっさんだからしょうがないかと、撤回せずにもう諦めた。
ちなみにスティアのほうは姐さんと呼ばれ始めているが、当の本人はすこぶる不本意なようでまだ抵抗している最中だ。
「あのね、私の家はパン屋さんなんだけど、でも、ランチも出すようにしたの。パンはね、焼き立てだから、おいしいんだよ!」
ユーリちゃんはいつの間にかホシの隣に椅子を持ってきて座っていた。凄く嬉しそうにお喋りしているが、先ほどのお母さんの様子も見る限りだと、もしかしてお客さんがあまり入っていないのだろうか。
店の雰囲気もそう悪くないように見えるし、ユーリちゃんとお母さんも感じが良さそうだ。もしかしたらこの町に人が少ないせいで、相対的にお客さんの数も減っているのかもしれないな。
「ユーリ! 運ぶの手伝って!」
「はーい! ホシちゃん、ちょっと待ってね!」
「あたしも手伝う!」
「ホント!? じゃ、こっち来て!」
「うん!」
お母さんから声がかかると、ユーリちゃんがホシと仲良く連れ立って店の奥に引っ込んで行った。客に手伝わせていいのだろうかと頭を過るが……まあ好きでやってるんだからいいか。
しかし本当にホシは誰かと仲良くなるのが上手いな。ユーリちゃんもさっきまでおどおどしていたのに、もうそんな様子は全くない。
そんなことを思いながら、俺は隣に座るスティアをチラリと横目で見た。
昔スティアは人族と見るとまるで噛み付かんばかりの態度で、誰も近寄りたがらなかった。上司に置かれた俺も、彼女には随分頭を悩ませたものだ。
今はもう隠れるような態度はただのポーズになっているが、それでもストレスは感じるらしく、初対面の人間と話すことは殆どない。しかしこの四年余りでの変わりようは劇的で、きっと彼女の昔の姿を知っている人間からすれば驚愕に目を剥くこと請け合いだ。
なおここまで改善したのは、独りでいるスティアを見かねて、ホシにスティアの態度を軟化させられるか頼んだ結果だった。つまりひとえにホシの明るさのおかげだ。
上手いことやったもんだと今でも感心する。少なくとも俺には出来ない。大したものだ。
『お待ちどうさまです!』
奥に引っ込んでいったホシとユーリちゃんが、明るい声を出しながら木のトレイを持ってゆっくりと出て来る。ただ、ホシは手に持っているだけでなく頭にもトレイを乗せて出て来た。
その後ろからお母さんもトレイを持って出てきたが、ホシの頭を見ながら、ひっくり返さないかどうかもの凄くはらはらしている。
気持ちは凄く分かるが、あれ、本当に大丈夫なんだよな。びっくりするぐらい溢さないから、頭が平らなのか撫でて確かめたくなるくらいなのだ。
「えーちゃんさん、どうぞ! これ、おしぼりもどうぞ!」
「ああ、ありがとう」
ユーリちゃんが俺の前にトレイを置いてくれたため軽く頭をなでると、彼女はちょっと照れくさそうにはにかんだ。
こういう反応は新鮮だな。ホシの場合ニカーッ! と笑うかウッヒョーッ! と奇声を上げるかのどっちかだから。こちらも思わず頬が緩んだ。
ホシの頭にあるトレイはバドが受け取っている。彼はそれを静かに自分の前に置いて、何を思うのかじっと眺めていた。
一方、スティアはお母さんにトレイを置いてもらったのだが、顔を合わせないように俯きすぎているため、お母さんが変な顔をしていた。あの様子じゃまだまだ先が長そうだ。
「ダ、ダークエルフ!?」
隣にいるスティアを見て苦笑していると、突然お母さんが悲鳴のような声を出し、俺達から距離を取ってしまった。
彼女の視線を追えば、丁度バドがマスクを取り素顔を晒しているところだった。
やっぱりまだダークエルフは警戒されてしまうな。そうとう昔から人族との関係がこじれていた種族だから、この反応は当然といえば当然なのだが、俺もついうっかりしていた。
「ああ、大丈夫ですよ。エルフもダークエルフも、今や人族とは良き隣人として王国に迎えられてますからね」
「え、えぇっ!? ……そうなんですか?」
「ええ、先日、王都でパレードがあったんですがね。エルフやダークエルフ、それに龍人族なんかも王国軍や騎士団に混じって参列していたんですよ。そこの彼もずっと俺達や他の人族と一緒に暮らしていましたから、大丈夫ですよ」
俺はパレードなんて見てないけどね。ジェナスの奴からそういう予定だということは聞いていたから間違いないだろう。
少なくともバドに危険が無いのは間違いないから、大切なところは嘘を言っていない。
お母さんは体を強張らせていたが、俺の言葉に少し安心したようで僅かに警戒を解いてくれたようだ。ただ、やっぱり視線はバドに釘付けになっている。
今も視線は前を向いたまま、さっとユーリちゃんの後ろに近づいたため、完全に信じてくれてはいない様子だ。
「それじゃいただきますかぁ」
剣呑になってしまった雰囲気を吹き飛ばすように、俺はお絞りで手を拭きながら努めて能天気にそう言うと、早速いい匂いのしているパンに手を伸ばした。
うん、さっきユーリちゃんが言っていたとおり、焼き立てでほんわか温かい。これは美味そうだ。
俺は早速一口かぶりつく。かみ締めると、思ったよりも固めでもっさりとした重い食感がまた――
「ん?」
なんか思っていたのと違う。
俺はかじったパンの断面に目を落とすが、特になんてことはない普通のパンに見える。
もう一口食べてみると、やっぱりなんかもっさり、パサパサしている。俺だけか?
「……貴方様、これってこういうパンなんですの?」
スティアが顔を近づけ、ひそひそと小声で聞いてくる。俺の前に座っているホシの様子を見てみると、非常に珍しく、黙って口をもぐもぐと動かしていた。たぶんホシのパンもそうなんだろう、ちょっと困ったような顔をしている。
ホシの横に座っていたユーリちゃんがどこか祈るように熱い視線をホシに送っているのが目に映る。
なるほど。俺はなんとなく状況を察したぞ。
「……たぶん、違うと思う」
「……ですわよね」
口の中がパサパサになってしまったため、スープを一口飲み込む。
……うん、こっちは普通のスープだ。そう、普通。特においしい! という感じではない、ありふれた感じの素朴なスープだ。
多分俺が作るとこんな感じになると思う。肉と豆を煮てやりましたぜ!! ……と胸を張って言っているような感じのスープだ。
豆の奴が「俺様は豆だ!」と言うと、肉の奴も「我が名は肉である!」と言い返している。調和が無い。
「おいしいでしょ? ね? ねっ?」
俺達が無言なせいか、ユーリちゃんがどこか必死だ。
そんなユーリちゃんの様子を見てか、お母さんのほうも俺達の様子を伺い始めたのがなんとなく分かったが、ちょっと視線を合わせづらい。
なんとなく声もかけづらいため、無言でスープを飲み続ける。
「あ、あの、いかがでしょうか……?」
痺れを切らしたのか、お母さんのほうから声をかけられてしまった。
……どうしよう。スティアは返答するわけないし、バドは言わずもがなだ。
と言うことは、ホシか俺が反応しなければならないが、ホシがまともな食レポをするとも思えない。
とすれば、ここは俺が何か反応しなければなるまい。俺は目の前の食事を見つめ、窮地に立たされながらも、気持ちを落ち着かせながら思考する。
コメントに困る微妙さだ。正直褒めるところがない。スープは飲めればいいや、みたいな感じの漢のスープ、パンはもっさりパサパサ、ソーセージは……そういえばまだ食べてなかったな。
俺は目の前に横たわっているソーセージに一縷の望みを託すことにした。ソーセージにフォークを突き刺すと、神に願いながら無言でかぶりついた。
パキッというはじけるような食感がしたかと思うと、じゅわっと肉汁が口の中に広がる。舌の上を滑らかに滑った肉汁の旨みが鼻からゆるりと抜けると、唾液がじんわり口に染み出してきた。
――俺は目を見張った。予想に反して、これは他の二つに比べると美味かったのだ。
「おっ! ソーセージは意外といけるぞ!」
俺は歓喜した。ようやくコメントできる可能性にめぐり合ったのだ。
まるで暗闇に閉ざされた空間に突如光が差し込んだかのような気分だった。俺はそう声高に返す。このソーセージは救世主だ!
だが、俺はすぐに失敗を悟った。
返答しなければならないという重圧から開放される目処の立った俺は、そのままの感想を口にすると言う勇み足を踏んでしまったのだ。
「そ、そうですか。意外と。ソーセージ、だけ……」
お母さんの口から漏れた言葉に俺は固まってしまう。確かに、これではパンとスープは不味いと言っているようなものだ。いや、実際そうなんだけども。
がっくりと肩を落としてしまった彼女になんとか取り繕おうとするも、褒めるネタがソーセージの他にはパンとスープしか残されておらず、絶望的な状況だ。
もう万事休すだろうか? ……いや、窮鼠は猫すら噛むものだ。まだ手は残されているはずだ。
諦めたら終了だと、かつての偉人も言っていた! ような気がする!
「い、いえ、その……そう、お前らはどうだ?」
俺は退路の確保を黙っている三人に任せることにした。そう、丸投げである。
ホシからは恨みがましい視線を向けられるが、今はこの場をなんとしても乗り切る必要があるのだ。
ユーリちゃんとお母さんの悲しそうな顔を見てなんとも思わないのかよ!? と、視線に思いを込めてホシを見つめてやった。お前のせいだとか言わないで下さい。
ホシは俺から視線を外すと、手元のパンを見つめむっつりと黙り込んでしまった。一方スティアは発言しようかいまいかで悩んでいるのか、難しそうに顔をしかめている。
「お母さん……」
しんと静まり返ってしまった店内に、ユーリちゃんの悲しげな声が響く。
どうにかしなければと持ち前の灰色の脳細胞をフル回転させようとしたが、この稀に見る強者――パンとスープを前にしては何もいいコメントが浮かばない。なんとかこの二品から褒める部分を抽出しなければならないのだが……。
いや、待て。ここは発想の転換だ。これはきっと美味いパンを作れないのではなく、不味いパンしか作れない理由があるんじゃないのか?
パン屋をしているくらいだ、本当は美味いパンを作れるだろう。
そう、例えば誰かに嫌がらせをされているとか――
脳内で勝手な理由をでっち上げ始めた俺。
だがその時まさに、それは起こった。
バンッ!!
突然大きな音が店内に響き渡ったのだ。
誰もが目を丸くしてそちらに顔を向ける。それらの視線が集まった先にいたのは一人の男。
バドだ。
彼はテーブルに両手を突いて立ち上がっていた。
座っていた椅子が派手な音を立てて後ろに倒れるも、そんなことはお構いなしとバドはお母さんの方に勢いよく体を向ける。そして驚愕し固まってしまっている彼女に向かって、バドは両手を高く掲げてて見せたのだ。
その両手が示す意味は――
バツ!!
誰もがまるで石像のように固まっていた。
息をするのも忘れていたように思う。
俺も、スティアも、ホシも、ユーリちゃんも、お母さんも。バドの掲げるバッテンを、阿呆のように口をあけて見つめていた。
一体どのくらいそうしていただろう。永遠と続くような気すらしていたその時間。
しかし時が経つ事を拒否しているかのようなその空間も、たった一つの音によってあえなく破壊されることになる。
がっくりと頽れたお母さんが、床に両膝を突いた音によって。