幕間.光と闇とお茶菓子と4
「もう行くのか」
「ええ」
「そうか。……寂しくなるの」
季節は冬。王城の庭園はどんな時も開放されてはいるが、流石にこの時期は寒さから、いつも利用者が極端に少なくなる。
そのため普段なら中ほどに置いてある丸テーブルも今は撤去されており、その空間だけがぽっかりと開いている。
それをどこか寂し気にしながら、二人の人物が向かい合って立ち会話をしていた。
「随分と長居を致しましたし、私達はそろそろ発たなくては。エイク殿が戻られなかった事だけが残念ですが……致し方ありません」
そう話すのは輝くプラチナブロンドを後頭部で結い上げた、整った顔立ちの女性だ。彼女は心底残念そうに、形の良い眉を落としていた。
彼女はヴェティペール・フォヴァニ・クルエストレン。ライトエルフを統べる現女王である。
彼女は今ローブに杖という旅装で庭園に立っている。そんな彼女と話すもう一人の人物は、彼女の恰好を見ながら名残惜しそうに眉を下げていた。
「そうじゃのう。確かにそれは惜しい事じゃ。じゃがお主も、エイク殿の帰還がすぐに叶わぬ可能性は想定しておったのじゃろ?」
「ええ、それは勿論。ですからある程度の成果が確認できた今が、良い頃合いなのでは無いかと思いまして」
「ふむ……確かに」
彼女の首肯にヴェティペールもこくりと頷き、更に言葉を紡ぐ。
「我々のすとらいきで、エイク殿の名誉をある程度回復できました。辺境伯……でしたか。人族の地位としては高いのでしょう? 役割も私達と人族との繋ぎを担って頂けるとか」
「そうじゃの。エーベルハルトも考えたものじゃ。我らとの繋ぎとしてはこれ以上ない人選じゃからな」
そう言って彼女は腰に手を当てる。衣服の隙間からチラと見えた褐色の足は非常に長く、彼女のスタイルの良さがよく分かった。
肩に流れる銀色の長髪と端正な顔立ちとの調和は、彼女の美貌を更に引き立てている。目の前に立つヴェティペールにも引けを取らない美しさがそこにはあった。
彼女はダークエルフの女王、ドロテア・ラヌス・ジェドライゼである。彼女は最近見るようになったケープを羽織り、ヴェティペールの前に立っている。
その顔には感心したような表情が浮かんでいる。だが、かと思えばすぐに鼻からフンと吐息を漏らした。
「下々の者はともかく、正直儂は人族の貴族とやらは好かん。自ら剣を取らぬ癖に権利のみを主張し、挙句勇士達を鼓舞しようともせん者の何と多い事か。人族との友好は我らも望むところじゃが、この点は分かり合えぬ。が、その点エイク殿なら安心よ」
「右に同じですね。私達は異種族ですから、どうしても理解できない点は互いにあるでしょう。それは理解してはいますが、しかし鼻持ちならぬ輩と偽りの友好を演じる気は到底おきませんね」
「鼻持ちならぬ輩と来たか。随分と腹に据えかねていたようじゃのう」
珍しく強い言葉を使ったヴェティペールに、ドロテアはころころと笑った。
この部隊に所属してからずっと、その貴族と言うものに怒りを感じて来たのはドロテアも同じだった。
友人であるエイクの功績に見向きもせず、ただ過去を引き合いにして彼を糾弾する貴族と言う人種には怒りを禁じえなかった。
他にも見目が良い事が災いし、時に嫌らしく、時に居丈高に、自分達に絡む者達も多く、その事も更に嫌悪感を助長させた。
ヴェティペールの気持ちはドロテアにもよく分かった。だから普段なら非常に共感できた話だったのだが。
しかしそんな事よりも、彼女は今耐える事に必死だった。目の前で頬を膨らませるエルフの女王が可愛いやら可笑しいやらで、噴き出す寸前だったのだ。
口を手で隠して笑うドロテアに、むうとヴェティペールが不機嫌そうな顔をする。これもまた可笑しくて、ドロテアは終に肩を震わせ始めてしまう。
「……ドロテア? 貴方は一体、何がそんなにも可笑しいのですか?」
「す、すまんすまん。いや何、お主がそんな顔をするものじゃからな。中々どうして可愛いらしいものじゃと思うてな」
「か、可愛いらしい!?」
かつては憎らしい高慢ちきのクソ白エルフと思っていた相手。それがこんなにも年相応の愛らしい表情を見せた事が可笑しくて。
そしてそれ以上に嬉しくて、ドロテアは笑いを抑えられない。
一方可愛らしいなどと言われ、ヴェティペールは耳まで真っ赤になってしまう。はくはくと口を動かすも、そんな事を言われたことが無いのか、何も言葉が出てこなかった。
「いやはや、別れの前に良いものを見る事ができたものじゃ。眼福眼福」
「も、もうっ。揶揄うのはよして下さい」
「揶揄ってなどおらぬ。儂の本心じゃ」
「余計に悪いのですけれど!?」
真っ赤な顔で、珍しく大きな声を出すヴェティペール。しかしドロテアは機嫌良さそうに笑っており、柳に風であった。
昔であればこの様に声を荒げる場合、彼らが言い争う状況でしかありえなかった。しかし今のヴェティペールとドロテアは傍目にも親しい事が良く分かる。
肌寒く暖炉が恋しい季節に、外で談笑する二人。出立も間もないと言うのに二人の会話はしばらく絶えず、庭園には彼女らの楽し気な声が聞こえてくる。
まるで昔からの親友のように、明るい声と表情で話す二人。そんな他愛のない話をする二人に、お付きの森人族らはにこやかな笑みを向けたまま、それをずっと見守っていた。
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「そうじゃヴェティ。お主が出立すると聞いて、渡したい物があっての。おい、あれを」
それから十分程した頃だったろうか。分かれを惜しむ気持ちから長引いた会話を断腸の思いで断ち切って、ドロテアが付き人のダークエルフに視線を向けた。
合図を受けたお付きの一人は彼女の前へと歩み出る。そして抱えるように持っていた大きめのバスケットをうやうやしく差し出した。
「うむ。ではヴェティペール。旅立つお主に餞別じゃ、受け取ってくれい」
「餞別、ですか?」
頷きバスケットを受け取ったドロテアは、それをそのままヴェティペールへと差し出す。
不思議そうな声を出しつつも、素直に受け取ったヴェティペール。彼女は呼んだお付きにそれを手渡すと、目で開けても良いかとドロテアに尋ねる。
そして頷きが返ってきたのを見て取ると、おもむろに上蓋へ手を伸ばした。
蓋を取ると中には布が被せてある。それをさっと取れば、そこに入っていたのは果たして、沢山の小麦色の食べ物であった。
「ビスケット……ですか?」
「というより堅パンに近いの。じゃが小麦粉に炒った豆を挽いた物を混ぜて焼いておるから、人族の作った堅パンより我らの口には合うじゃろ」
「堅パン、ですか……」
堅パンは戦争中に何度か食べたことがある。だがしかし、この言葉を聞いたヴェティペールの声が沈む。
あの食べ物がヴェティペールはどうしても好きにはなれなかったのだ。
ドロテアからの贈り物ではあるものの、つい眉間に小さなシワができてしまう。これを目ざとく見つけたドロテアは、まあそんな反応になるだろうなと苦笑を漏らした。
「そう嫌そうな顔をするでない。儂が信じられんか?」
「え? あ、いえ。そういうわけではないのです。どうにも私には、あれに良い記憶が無くてですね」
「ま、お主の気持ちも分かるがの。ただこれは人族の堅パンを改良し、もっと食べ易くしたものじゃ。それにレーズンを混ぜ込んで、可能な限り食べ易くしておる。味はまあ、保存食じゃからな。じゃがある程度は保証する」
堅パンは保存食の一種であり、遠征の際には軍でも度々食べられることのある食糧である。長期保存にも適した堅パンは先の聖魔戦争においても活躍し、多くの兵達の腹を満たし、勝利に大きく貢献した。
しかしながら、日持ちさせるために水分や糖分を極力排した堅パンは、はっきり言って食べるのにも苦労する程の難物である。口の中の水分を奪い尽くし、歯も折れそうな程に固く、しかも味が殆どしない。
腹を膨らませる代償にストレスが溜まるような、そんな代物だった。
ドロテアはそれに目を付けて、より食べやすいように改良しようと考えたのだ。
「まあ、保存食である故に、あのパサパサからは逃れられんかったがの……」
「ああ……」
改善できない点もあったがそれはそれ。堅パンに比べれば、自分の作ったものはちゃんと食料と言えるだろうと、ドロテアは一応今の出来に納得できていた。
そして、それがヴェティペールと自分の望みを叶える一つとなるであろう事も。
「もし道中食してみて満足するようであったなら、これもまた我らのレシピに加えて欲しい。レシピはその中に入れておいたからの」
「ド、ドロテア……っ」
これはただの餞別ではなく、最後に贈るレシピの一つだったのだ。
目を見開くヴェティペールに、ドロテアはしてやったりと微笑む。最後にヴェティのこんな表情を見る事が出来て、彼女は今、非常に満足をしていた。
「――ええ、ええ。必ず後で食べさせてもらいます。そして厳正な評価をした後に……必ず、レシピの一つに加えますから」
「必ずか。ふふ、気が早いのではないかの?」
「いいえ。貴方のその顔を見ていれば、自信の程が分かります。今から食べるのが楽しみなくらいに」
ドロテアの粋な心遣いに、ヴェティペールの声も弾む。
「それで、名前は何というのですか?」
そしてその勢いで聞いた彼女へ、ドロテアは急に表情を引き締めた。
「――ガリバルディ」
これを聞き、はっとするヴェティペール。その名前はたった一つだけ、心当たりがあったのだ。
その名前はまさか。そう思う彼女へ、ドロテアは名付けた意図を静かに伝える。
「ライトエルフの三百年前の国王……ルーニエール・ジエストラ・ガリバルディの名を頂戴し、これをガリバルディと名付けたいと思う」
魔王ディムヌスのもと、ライトエルフのみならず、ダークエルフからも信頼を得たかつての偉人の名。
そしてそれはヴェティペールが尊敬する、祖父の名前でもあった。
「かつて奴には色々と世話になったが、その礼をしていないかった故な。これが後世にまで残るなら、奴も喜ぶじゃろう。奴はレーズンが大の好物でな、酒のつまみにとよく食しておった。打ってつけじゃと、そう思ったんじゃ」
「そう、だったのですか」
「ああ。いがみ合う二つの森人族を一時とはいえまとめ上げた、素晴らしい男じゃった。……惜しい男を亡くしたな。三百年もの月日が経った今でも惜しく思ってしまう。それほど奴は偉大な男じゃった」
ヴェティペールは以前、ドロテアに三百年前の事を聞いてみたことがあった。
ドロテアは三百歳を超えるエルフで、かつての聖魔戦争では魔王軍側として戦っていた過去があるからだ。
ライトエルフもむろん参戦していたのだが、ヴェティペールの周囲には当時を知る者がもうおらず、故に興味があっての事だった。
聞く事が出来るなら、自分の祖父の話も聞いてみたい。そう思っていたのだが、しかし予想に反してドロテアが話してくれたことは一度たりともないままだった。
この話をすると、ドロテアの表情はいつも曇った。理由は分からないが、恐らく辛い過去があるのだろう。
だからヴェティペールはこの話を以降口にするのは止そうと、そう考えていたのだが。
彼女が今こうして話してくれたのは、一体どういう心算だろう。何か理由でもあるのだろうか。
つい裏を読んでしまうが、しかし何も思い至らなくて。逆に思いつくのは自分のためにではないかと言う、そんな考えばかりだった。
「お主はそんな偉大な男の血を継いでおるのじゃ。お主自身の思いに目を背けることなく、真っすぐ進むが良い。おのずと周囲も付いてくるじゃろう」
「……ええ。話してくれてありがとう。お爺様の事が少しでも知れて良かった。貴方の心に深く感謝します、ドロテア」
「うむ」
そんな優しさに触れ目を細めれば、相手の口もゆるりと弧を描いた。
「次に会う時がいつになるかは分からぬが、これが一時の離別であることを、儂は信じておるぞ」
「ドロテアも、約束を違えないで下さいね。貴方の力なくしては、実現できない事なのですから」
「ふっふふ、これは手厳しいの。じゃが、こちらの事は心配いらぬ。何があろうとやり遂げて見せよう。万事任されよ」
互いの顔をしばし見つめ合う二人。そしてどちらともなく信仰する神への祈りを口にする。
「貴方にトゥドゥカス神のお導きがあらんことを」
「お主にトゥドゥカス神のお導きがあらんことを」
その日、人族の町に滞在していたライトエルフ達は皆、故郷へ戻るため王都を去って行った。
それを見送った第三師団の面々。その中には多くのダークエルフ達の姿もあった。
かつてはいがみ合い対立していた二つの森人族。しかし旅立つライトエルフ達を見送るダークエルフ達の目には、憎しみなど一かけらも浮かんではいなかった。
皆が皆森の神トゥドゥカスに祈りを捧げ、ライトエルフ達の無事を願っている。一方のライトエルフ達も、何度も後ろを振り向いて、彼らの姿を見つめていた。
その景色には同胞を思う心だけがある。長い時を経て一つに戻った二つの森人族達は、再びの離別を惜しむように、互いの姿を目に焼き付けていた。