幕間.水の勇者と大聖女
「ナレシュ様、それではおやすみなさいませ」
「ああ」
頭を下げ部屋を出て行くネイサン。彼がドアを静かに閉めれば、小さな音がぱたりと鳴った。
立ってそれを見送っていたナレシュ。だが疲労から、体が鉛のように重かった。
彼は重い息を吐きながら移動して、ベッドの上へ腰を下ろす。ベッドが小さく軋む音が、彼の部屋に小さく響いた。
今から二週間ほど前の話。聖皇教会の枢機卿、シルヴィオ・ジルド・リーデリオンより直々の依頼があったとして、ナレシュはハルツハイム領にあるオーク魔窟の調査依頼をネイサンの口から聞く事になった。
その時のネイサンはあまりにも申しわけなさそうな顔をして、頭を深々と下げていた。話を聞けば、少し前に大海嘯を起こしたハルツハイム領民は不安に揺れており、民の安寧のため、こんな時こそ教会が動かねばならぬという事らしい。
だがこれを聞いたナレシュは、もっともらしい言い分だなと内心呆れてしまった。
大海嘯が起きたのは今から二か月以上前の事である。民心に配慮をするには随分と行動が遅いではないか。
そうと考えれば、教会がなぜ今更こんなことを言い出したのか分かる。大方教会が魔窟の調査に勇者を遣わしたと宣伝し、民の信心を深めようとでも思っているのだろう。
ナレシュはこれでも一国の王子である。その程度の事はすぐに分かった。
そして目の前で頭を下げるネイサンの様子を見れば、その考えは確信となった。
「分かった。行こう」
「……よろしいのですか?」
だがナレシュは教会に使われる事を是とし、首を縦に振った。
教会に使われてやる事で、これを貸しにしようと、そう思ったのだ。
ナレシュは勇者とは言え完全な部外者である。そして一国の王子である彼は、権力闘争と言うものにも理解がある。
宗教と言うものが本当に民のためにあるだけのものでない、と言う事を、彼は良く知っていたのだ。
そんな彼の考えが正しい事を示すように、教会は勇者を顎で使おうとしてきた。ならば今後もこのような事があるかもしれない。
だが彼は教会のコマになるつもりはさらさらなかった。だからこそ、小さなものでも貸しを作っておけば後々手札になるかもしれないと、ナレシュはそう考えたのだ。
それに、ナレシュはここに呼ばれてからずっと神殿騎士との模擬戦ばかりで、実戦からは遠ざかっていた。
水の勇者となってから、特別強くなった実感はない。しかし今まで訓練を続けていたこともあり、そろそろ自分の今の実力を実戦で感じてみたいと思い始めた頃合いでもあった。
様々な思惑を抱きつつ、ナレシュは馬に跨りシュレンツィアへとやって来て。
そして神剣片手にオーク魔窟に向かった。
ここまでは彼の考えた通りだった。
しかし彼が向かったのは、未踏破の魔窟である。人間が誰一人最奥を見ていない、凶悪な怪物が跋扈する魔窟である。
そこの第五階層が呈する様相は、ナレシュの想像を遥かに超えた、あまりにも凶悪な場所であったのだ。
「まさかオークキングがあれほどの敵だとはな……。あの強烈な威圧感、以前見たサンドサーペントに勝るとも劣らないではないか……っ」
第五階層で見たオークキングは、彼の故郷で大きな脅威となっているサンドサーペントを思わせる威圧感を放っていた。
サンドサーペントは砂の中を自在に移動する凶悪な大蛇だ。体躯も、小さいものでも二十メートルを超える大きさで、その牙には即死級の致死毒も持っている。
砂漠の中にある彼の国では、いつどこに現れるか予想もできない相手だ。突然現れたそれを軍や騎士団がなんとか討伐するものの、いつも多くの死者を出してしまうのが大きな問題になっていた。
サンドサーペントはまさに生きた災害だ。ナレシュも帝国の王子である故に、一度討伐に連れ出され――兄達のおまけではあったが――その姿を直に目にした事がある。
だがあの時の恐怖は今でも忘れられない。全身が震え足はすくみ、まるで生きた心地がしなかった。
何もしていないにも関わらず、生還できた事を感謝したほどだ。
そんな相手と互角に思えるオークキングは、今のナレシュでは到底太刀打ちできない相手に思えた。
いや、実際にそうだったのであろう。
では勇者がそんな状況で、オークキングを前にして、彼らは魔窟から尻尾を巻いて逃げ帰って来たのか。そう問われれば。
その答えは、否であった。
「それをたったの三人で倒すなど……。あのような戦士は祖国にも一人だっていないぞ。明らかに人間の枠を超えている。デタラメだろう、あんなものは……っ」
彼らの前に立ちはだかったオークキングを相手取ったのは、ナレシュではない。四天剣の三人だったのだ。
オークキングの威圧感に全くひるまず敵へ向かって行った彼らは、その攻撃をかいくぐり、己の武器を躊躇なく振るった。
ミフィーネの大剣が腕を断てば、カッツォの双剣がオークキングの目を両断する。止めにネイサンが振るった神剣ガルストレの一撃は、敵の頭部を両断し、あっという間に霧に返してしまった。
ナレシュはそれを信じられない思いで見ていたが、当の三人や聖女とその護衛はそれを当然のようにしており、それも全く理解ができなかった。
だが彼はそこで、一つの事を理解した。教会の依頼と言う事で自分はこの場所に来た。しかし実際は自分はただのお荷物で、ただの広告塔だったのではないかと。
そしてそれを理解したとき、こうも思った。
結局自分は祖国で”枯れ井戸”などと蔑まれていた頃と変わらない、何も成す事もできない非力で凡庸な人間のままなのだと。
勇者としてこの国に来て、そんな自分に決別したいと思っていた。だがしかしいくら訓練をしようと、勇者と呼ばれるような力を振るう事は叶わない。
そればかりか、自分の想像を超える力を振るう多くの者を見せつけられて、己の小ささを思い知らされる始末だ。
(何が水の勇者だ……。私は、私は結局何も変われぬまま、何も果たせぬまま……ただ物事の成り行きを、外で指を咥えて見ている事しかできぬのか)
彼の胸に灯った小さな希望は、日を追うごとに光を失って行く。
変えたいと願っていた自分自身は、結局何も変えられない。結局夢は叶わないから夢なのだ。
ナレシュは深く項垂れたまま、諦めたように静かに目を閉じた。
「――ナレシュ様。まだ、起きていらっしゃいますか?」
そんな時だった。
部屋のドアがコンコンコンと、軽い音を立てたのだ。
向こうからは鈴を転がすような声も聞こえてくる。ナレシュは閉じていた目を開き、ゆるゆるとドアに目をやった。
ドアの向こうに、何者かがいる気配が感じられる。彼は少し逡巡したが、しかしおもむろにベッドから立ち上がり、ドアのノブに手を伸ばした。
もしこれがネイサンら神殿騎士の声であったなら、ナレシュは動かなかったろう。彼が無意識に動いたのは、声の主が”彼女”だったからだ。
彼の心を折る原因となった彼らではなかった。だからこそ、ナレシュはこの時ドアを開けたのだ。
「どうかされましたか、聖女殿」
その事が今後の彼の行く末に、大きな転機を与える事になるとも知らずに。
「夜分遅くに申しわけございません、ナレシュ様」
ドアを開けると、暗い廊下に一人の少女が立っていた。
聖女マリア。彼女が軽く頭を下げれば、暗闇にも輝くプラチナブロンドが優雅にふわりと揺れる。
顔を見せたナレシュへ、彼女はにこりと微笑みを見せる。だがそんな相手に対してナレシュが向ける視線は、どこか感情の乏しいものだった。
「こんな時間に男の部屋を訪れるなど、勘違いされますよ。貴方にも立場があるでしょう。すぐ戻られた方が良い」
ナレシュは抑揚のない声でマリアを注意する。聖女が夜に男の部屋に忍んで行ったなど、教会の者に知られたらどう思われるか分からない。
最悪ゾッとする結果になるかもしれない。そう思うナレシュだが、しかしマリアはくすりと小さく笑う。
「ご忠告ありがとうございます。でも心配は無用ですよ。誰にも見られていませんし……誰にも聞こえておりませんから」
彼女は小さく弧を描く唇に、人差し指をそっと当てる。だが見られていない、と言うのは分かるが、聞こえていないと言うのはどういう理屈だろう。
ナレシュがそんな疑問を抱いている間に、目の前の少女は会話をそのまま続行する。ナレシュの注意などどこ吹く風で、帰る素振りすら見せなかった。
「何か、悩みがおありなのではありませんか? わたくしで宜しければ、お力になりますよ」
「……悩み、か。私には特には――」
「例えば――勇者としての力が無い、とか」
そして突然、核心を突く言葉を彼へ投げかける。今までずっと思い悩んできた事をピタリと言い当てられ、ナレシュの体が硬直する。
何も言うこともできず目の前で固まるナレシュ。そんな彼を見るマリアはやはりと言った様子で、痛ましいものでも見るかのような顔をした。
マリアが彼らに同行していたのは、全くの偶然であった。
何らかの使命を終えて王都へ向かう途中だったマリアが、たまたまシュレンツィアに逗留していた所、この町を訪れたナレシュ達と鉢合わせた。
この出会いは必然でなく、そんなただの偶然の産物だった。
図らずも初めて顔を合わせた聖女と勇者。肩書は知っていても、互いの実力は未知数だった。
だからこの魔窟での戦いは、互いの力を認識しあう場としても機能し、その結果ナレシュは聖女の力をまざまざと見せつけられる事になった。
だが反対に聖女側には、自分の姿はどう映ったろう。その答えは目の前の、聖女と称えられる少女がはっきりと顔に浮かべていた。
「実は魔窟で見た時からずっと、わたくしも不思議に思っていたのです。なぜ水の勇者であるナレシュ様が、神殿騎士程度に遅れを取っているのか、と」
彼女の真っすぐな視線に耐えられず、ナレシュは視線を逸らしてしまう。
こんな少女にまで引け目を感じてしまう自分が情けなくて、ナレシュはこのドアを開けたことを今更後悔し始めていた。
「実は、我が主神よりお告げがありまして。意味は存じませんが……しかしナレシュ様には重要な事と思い、お話しておこうかと」
「――え?」
だが。そんな彼の劣等感になど興味が無いのか、聖女はただ淡々と自分の言葉を紡いでいく。
「これより後に、神剣の真実を知る者が現れる。もし勇者が何たるかを知る事を願うならば、その者達と行動を共にせよ――我が主神のお告げは以上です」
彼女は黄金の瞳を夜の闇の中輝かせながら、聞いたと言うお告げを口にした。
「ナレシュ様が悩みを払拭できるよう、わたくしも祈っております。それでは、夜分失礼致しました。どうか良い夢を……おやすみなさいませ」
彼女は優雅にお辞儀をすると、そう言い残してその場から立ち去った。立ち尽くすナレシュは彼女の残していった言葉を、頭の中で何度も反芻する。
神剣を知る者とは何者か。これより後とは一体いつの事だろうか。
考えても答えなど見つからず、聖女も去った今、ナレシュはその日は眠る事にした。
明日の朝、マリアにもう少し詳しい事を聞こう。そう考えながら彼は疲れもあって、ベッドに入ればまどろみの中へ落ちてゆく。
そうして次の朝目覚めたナレシュは、まずマリアの姿を探す。しかし彼はすぐに、愕然とする事態に遭遇する。
「マリア様、ですか……? 聖女様は現在我々聖皇騎士団が、目下捜索中ですが……。ナレシュ様は聖女様とご面識が?」
「――え?」
虚を突かれた声を上げるネイサンに、ナレシュは目を瞬かせる。
聖女マリアと護衛アレス。二人はまるで霞だったかのように、彼らの前から消え失せていた。