288.カークの網
迷いの森を見に行ってから早四日。この日は小雨が降っており、外からはさあさあと心地の良い雨音が聞こえていた。
晴れていれば外に繰り出したものの、この天気では足が向かない。それに街の散策は昨日一昨日である程度終えている。
濡れてまで外出する理由はないと考えたリリは、外出を控え自室にこもっていたのだが。その後しばらくして思わぬ来客があり、今は彼らと歓談をしているところであった。
「あの、リリュールさん。これでどうでしょうか」
「うーん……と。えー……こことここ、あとここも間違ってますね」
「え、ええ? そんなに? えー……と。……どこでしょうか?」
それはもちろんフィリーネとベルナルドである。今女性二人はテーブルに座り、ペンを持って羊皮紙に向かっている。書いているのは普通の文字では無く、魔法陣に用いられる精霊文字だった。
リリはエイクに魔法陣を教わってから、それを修めようと意欲的に学習を続けていた。今では基礎魔法の魔法陣なら、手本――エイクに書いてもらったものだ――を見ながらであれば間違えずに書けるようになっている。
書いたものを魔法陣とするには次に定着という作業が必要となってくるのだが、彼女はそこまで済ませ終わり、魔法陣として完成させたものを既に数えきれない程持っていた。
彼女の魔法陣に対する理解は日を追うごとに深まっている。今は下級魔法の魔法陣へと学習を順当に進めており、今日は水魔法”水の弾丸”の魔法陣を作成している所であった。
ちなみに、火魔法の使えないリリは火に関する魔法陣だけは全く完成させる事ができていない。書くことはできても火魔法を使うための魔力の練り上げが出来ないため、定着が出来ないのだ。
だから彼女が作れるのは火以外の三つだけだ。そのため魔法陣は、彼女の”火魔法が使えない”という弱点を補う手段にはなり得ない。
なのだが、そこについてリリはこう考えた。
定着できないなら、わざと失敗して暴発させればいいじゃない、と。
無駄にはならぬこの発想。
あの師ありてこの弟子あり、である。
「どこが間違っているのか全く分からないのですけれど……」
「ここですよ、ここが間違ってます」
「ええ? これ、ですか? ……同じように見えるのですけれど」
そうして学習してきたリリは、簡単なものなら人に教えられる程度の知識を既に持っている。人に教えるのもそう難しくはない事だった。
とは言え、だ。今回教えられる側になったフィリーネは、精霊文字を見るのは初めてだ。リリに教えられ書いてみたもののやはり正確に書けないようで、間違いを指摘され困ったような声を上げていた。
「いえ、ここがですね、払いなんです。止めじゃなくて。で、こっちなんですが、もっと滑らかな曲線を描くように書かないと駄目なんですよ。ちょっと角ばっているの、分かりますよね」
「ず、随分と細かいのですね。これが精霊文字ですか……」
リリが間違いを指摘すれば、フィリーネは引きつったような声を出す。その様子を微笑ましく思いながら、ベルナルドは給仕よろしく紅茶をティーカップに注いでいた。
今この部屋には彼ら三人の姿しかない。残りの二人、カークとオディロンは、訓練に行くと冒険者ギルドに行ってしまった。
この二人、実は昨日もギルドへ行っていたのだが、その時はフィリーネも一緒だった。きっと昨日の訓練は彼女に対してのものだったのだろう。
少し嫌そうな顔をするカークをオディロンが無理やり引きずって行った形だが、それはまあいつもの事である。
リリは仲が良いなぁと笑顔で見送り、自分は魔法陣の勉強をしようとペンを握ったのだ。
だがそうしていたところ、今日を休養日としていたフィリーネからすぐに声がかかった。休むはいいが、どうにも暇になったらしい。
もしここがハルツハイムの居城なら他にもやれる事があったのだろうが、ここはルーゼンバークの宿である。更にこの町で一番と銘打っているものの、伯爵令嬢からすれば、ここが? と目を丸くするようなみすぼらしい宿だった。
外は雨、宿はボロボロ。加えて今は旅の途中で、余暇を潰せる物も無い。
つまり彼女には何もできる事が思いつかなかったのだ。そうしてリリの部屋に赴き今に至る。
魔法陣はフィリーネの故郷、ハルツハイムを救った一端を担ったものである。そのため少し興味が湧きリリに初めて教えを請うてみたが。
だが思ったよりも難解で面倒だった。そして地味であることも理解した。
「わたくしには、習得するのが難しそうです。随分難解な文字なのですね」
フィリーネはペンをそっと置き、困ったような笑みを浮かべてリリを見た。つまり、もうやらなくて良いという事である。
それを見たリリもあははと軽く笑みを返す。自分は興味が湧いてここまで上達した。だがフィリーネの気持ちもよく分かったのである。
「リリュール様、お嬢様、どうぞ」
一息ついたタイミングで、ベルナルドがするりとティーカップを彼女らの横に差し出した。彼に礼を言う二人の鼻を紅茶の香りがくすぐって、思わず頬がゆるりと緩む。
リリはカップに手を伸ばし、喉へ一口流し込む。この部屋に暖炉といったものはなく、室内は外とそう変わりがない温度である。
外へ出るのと同じ恰好をしてはいるが、それでも体は冷えている。そんな体に暖かい紅茶はありがたく、リリはほうと一つ息を漏らした。
フィリーネも同じく紅茶を飲み、ほっと軽い息を吐く。そしてカップをソーサーの上へと戻したところで、リリが再び声を上げた。
「そう言えば。フィリーネさんは戦う訓練は良くしていますけど、魔法の練習はしないんですか?」
道中オディロンやカークに指南を受け、フィリーネは訓練を続けていた。だがそれは槍を使っての戦いばかりで、リリは彼女が魔法を使っている所を一度だって見たことが無かった。
ふと不思議に思い口に出したが、しかしフィリーネは少しバツの悪そうな顔をする。小首を傾げたリリだが、これに声を上げたのはベルナルドであった。
「お嬢様。リリュール様の仰ることもごもっともです。たまには魔法の修練もなさってはいかがですか」
「そ、そうですね」
柔らかな口調で促すベルナルドだが、どうしてかフィリーネは目をそらしている。
理由が分からず、リリは顔をベルナルドへ向ける。だが返ってきたのは困ったような、そんな小さな笑みだけだった。
「そ、そう言えば、カークさんの方は今頃どうなっているのでしょうね」
小首を傾げるリリと、苦笑するベルナルド。二人が何も言わずにいれば、フィリーネがそんな事を言い始めた。
あまりにも露骨な変え方だったが、しかし人の良いリリはそれをそのまま受け止めて、すぐにカークについて思いを巡らせ始める。
彼女が初めに思い出したのは、カークのこんな言葉だった。
「この町で、エイクさんを捕まえたいと思います」
カークがそう言い出したのは、この町に来た初日の事。
スラムの子供達を雇い、皆が宿に戻った後だった。
「道中もお話ししましたが、僕らは既にエイクさんを追い抜いてしまっていると思うんです。だから僕はこの町で網を張り、彼らを待ち受けようと思っています」
カークはエイクを探す道中で、冒険者ギルドの黄鳩便を使い、東へ幾度も手紙を送っていた。
しかし返信は今まで返ってきたことが無い。返って来た事があるのは、シュレンツィアで送ったたったの一度きりだった。
単純にタイミングが悪かったという事もあり得る。しかしカークはそれよりも、今までの道中に目ぼしい情報が無かった事から、自分達の方が先に進んでしまったのだと考えたのだ。
この事は少し前に、皆もカークから聞いている。だから疑問を挟む者はいなかった。
そんな彼らへ再度確認するように、カークは皆の顔へ視線を巡らせて。そして異論がない事を見て取ると、自分の計画を説明し始めた。
カークの計画はこうだ。このルーゼンバークは先の戦争での決戦の地。そしてエイクの故郷にも近い場所である。
ならばきっとエイクはこの町に立ち寄るだろう。その時スラムの子供達を使い、彼の情報を得る。何せ顔に似合わずあの男は子供には中々甘いのだ。
この町の東西南北、全ての門の近くに待機させる子供らには、彼ららしい四人組には声をかけるように言ってある。
エイク達は顔を隠している可能性が高いが、しかし子供が相手なら油断もするはずだ。きっと見つかるはずだと、そういうわけだった。
なおカークはその役目を任せる子供についても吟味をしていた。楽をして金をせしめようという者を雇っては計画がパアだ。
だからカークは森へ行く際に、案内役に子供達を雇った。彼らがこの仕事を任せるに相応しいかどうか、確かめる意味があったのだ。
そこまで考えていたカークに異を唱えられるものはおらず、そうして一行はこのルーゼンバークでの長期滞在を決定した。
だがそうとなるとリリ達にできる事は殆ど無い。だからこうして宿でくつろいでいるのだが、一方で策を講じたカークは待っているだけでは落ち着かないからと、一人で動いているらしかった。
「どうでしょうね。カークさんは念のためって言ってましたけど」
「随分と周到な方ですよね。カークさんがいて下さったのは本当に幸いでした」
聞いた話では、彼はこの町のギルドから黄鳩便をあちこちへ飛ばし、エイクの行方を追っているそうだ。
オディロンに引きずられていったカークは嫌そうな顔をしていたが、しかしそうでなくても一人で行ったと言うわけだ。
リリやフィリーネにはこう言った手段を取ろうという考えなど浮かばない。エイクを追うという彼らの目的において、カークのような人材は一番に貴重な存在であった。
リリとフィリーネは彼に人知れず感謝をする。
「本当に、その通りでございます」
そしてその思いは彼、ベルナルドも同じだった。
「カーク様がいらっしゃらなければ、我々はこのままオーレンドルフ領に進むより他なかったでしょう。ですが正直なところあの領は……」
「……? ベルナルド?」
「いえ。あの領は輪をかけて治安が悪いのです。正確な情報を集めると言うのは至難の業となりましょう。ここで網を張ると言うのは、現在の状況を考えれば最善の判断かと存じます」
「輪をかけて……。ここよりも、ですか。わたくしには到底想像できません……」
カークは彼にだけこっそりと、この町でエイクをどうしても捕まえたいと、胸の内を打ち明けていたのだ。
これより先はより一層治安が悪くなっていく。金を得るために何でもする輩が多くのさばるため、仮に情報を得たとしても、その信憑性が低くなってしまうのだ。
更にオーレンドルフ領はエイクのホームグラウンドだ。天秤山賊団はあの領ではかなり名の知れた一味である。
どこに手の者がいるとも知れず、元頭領を探るというのは相当な危険を冒すことになると考えられた。
悪いことはまだある。それはオディロンの存在だ。
彼の強すぎる騎士道精神はきっと、この先で多くのトラブルを起こす事になるだろう。この町の門での事を思えば、それは明らかだ。
そんな話をなぜ自分だけにとベルナルドは彼に問うたが、返ってきたのは頼りになりそうだからという、そんな曖昧な答えと笑みだった。
だがベルナルドはカークの考えとその答えに、彼の優秀さを改めて実感した。もし彼が軍を抜けるようなことがあったなら、ハルツハイムの諜報部隊に引き抜こうと思ってしまう程に。
その時を思い出しふっと笑ったベルナルド。そんな彼の表情に、リリとフィリーネは不思議そうな目を向けていた。
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三人が話に興じていると、あっと言う間に時は過ぎ、気がつけば昼も間近となっていた。
この宿は素泊まりのみで、食事は自分で用意する必要がある。いつもは町に繰り出し済ませていたが、今日はあいにくこの天気だ。
それにこの町の食事はどうやら、皆の口にはあまり合わないようだ。ならば自分が腕を振るおうかとベルナルドが考え始めた、そんな時の事であった。
「ん? この声は……」
急に顔を真剣なものにして、リリがそう口にした。
リリは人族よりも感覚器官に優れた龍人族だ。何かを感じらしく、その何かに集中しながら音もなくゆっくり立ち上がる。
釣られてフィリーネも立ち上がり耳を澄ますが、しかし彼女には雨音以外に何も聞き取る事ができない。
ベルナルドに視線を向けるも、彼も首を一度横に振る。眉間に小さなシワを寄せるリリを、二人は注意深く見つめていた。
「――そんな! 大変!」
しばらくするとリリは目を丸くする。そして大きな声を上げたかと思えば、杖を引っ掴み部屋を飛び出して行ってしまった。
杖の隣に立てかけてあった神剣”風神の稲妻”のみが、その場にポツンと残される。
「リ、リリュールさん!?」
「お嬢様、追いかけましょう!」
「ええ!」
突然の事に慌てつつ、二人もその背中を追う。
フィリーネが部屋を出た後に、”風神の稲妻”を持ったベルナルドが部屋を飛び出す。そして階段を駆け下りながらフードをかぶり、宿のドアから飛び出した。
だが二人の足はそこですぐに止まった。どちらに行ったと左右を見れば、すぐ先に屈んだリリの背中があったのだ。
「ルナちゃん落ち着いて。ほら、一回深呼吸しましょう?」
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
どうやら彼女はスラムの子供、ルナと話をしているようだった。
リリが聞いたのはルナの声だったらしい。宿の中、しかも雨が降る中で、良く聞こえたなと思いつつも、少し安堵しながら二人はリリの背中へ足を向ける。
「はぁ、はぁ……。だから、カークさんと騎士さんが――」
しかしリリのすぐ傍まで近づいた時だ。
そこで聞こえたのは、彼らが思ってもいなかった言葉だった。
「兵士に、捕まっちゃったんです……っ!」
「なっ――!」
「なんですと……!?」
フィリーネとベルナルドは絶句し立ち尽くす。
だがただ一人、それが事前に聞こえていたリリだけは、
「どこですか? 案内して下さいっ!」
そうルナへ、少し険しい表情を向けたのだった。