284.散りゆく花にたむけを
マイツェン領とディストラー領をまたぐように聳えるゲラニオ山。その底の底、黒よりも暗い闇を抜けた先には、誰にも知られぬ秘密の花園が広がっていた。
その場所は三百年もの間、結界の効果により何者の立ち入りも許さなかった。
結界の効果は生物の意識に作用して、無意識にゲラニオ山を避けようとするものだ。そのため今まで入り込んだのは、結界の効果が薄い小動物や偶然入り込んだ魔物などの、人以外の生物ばかりであった。
人の営みのないその場所は、騒々しさとは無縁であった。穏やかな空間は緑と花に彩られ、美しさと和やかさに溢れていた。
穏やかな日差しが降り注ぎ、芳しい香りが絶えず漂う。その夢のような光景はきっと、誰の目にも幻想のように映る事だろう。
永遠に続く秘密の花園。事実ここは三百と言う年月を、そのままの姿で保っている。
だからその姿はこれからもずっと続いて行くのだろうと、その里に住む僅かな生き物達は、疑いを持たず暮らしている。
だが、物事には始まりがあれば終わりもある。
知る者は知っていた。
その平穏な日々の終わりがもう、目の前に迫っていたことに。
彼女は自らに迫る死を見つめながら、この数十年を生きて来た。
己の体が崩壊していく様を目にしながら、しかしどうにもならない現実を諦め、その時が来ることを受け入れてしまっていた。
だがそんな彼女のもとにこの数日前、突然人間が現れる。
結界をものともせずこの里に入ってきた人間達に、彼女はらしくもなく希望を抱いてしまった。この人間達は創造神が遣わした救世主なのではないか、と――。
「ふぅ……。やれやれ、騒々しい連中じゃったわ」
玉座の背もたれに体を預け、ユグドラシルは息を吐いた。
呆れたような台詞を吐く彼女。しかし顔に浮かべる感情は、嬉しさを隠しきれていなかった。
「しかしまさか本当に世界樹の浄化をしてくれるとは。我の直感は正しかったと言う事だの。流石我よ。なぁ、そう思わんか?」
ユグドラシルは機嫌のよさそうな笑みをそこに向ける。その場所にいるのは一人のアルラウネ。
エイク達が里にいた際に、ずっと一緒にいたアルラウネだった。
「~~~~~~」
彼女はまるで奏でられたような音色を口から発する。それは言語として成り立たないただの音だったのだが、これにユグドラシルは渋い顔を浮かべた。
「なんじゃ、我の功績ではないと申すのか」
《だってそうではありませんか。全てはあのお方達の尽力の賜物だと言うのに、それを己の手柄と仰るのはいささか傲慢ではないでしょうか》
「むう。傲慢とまで言うか」
アルラウネの言葉は人には理解できないものだ。どんなに努力をしても、ただの音色にしか聞こえないだろう。
しかしここにいる彼女だけは違った。元が同じ存在に近いだけに、その意思を理解できていたのだ。
エイク達はアルラウネの事を、人族などとは異なる人間の一種だと考えた。だがそれは全くの見当違いであり、事実にかすりもしていなかった。
木々が枝に花を咲かせるように、世界樹にも当然花が咲く。
だがそれは普通の木々とは全く違い、枝で花開くものでは無い。蕾の時点で枝から落ち、地に根を張り大きく育ち、そこで初めて花開く。
まるで一つの草花のように。そして意志を持って活動するのだ。
そう。アルラウネは花である。人ではなく、植物なのだ。
そしてそれは世界樹の分体であるユグドラシルも同じ事。
己の娘のような存在の意思を、ユグドラシルが分からないはずが無かったのだ。
「随分と強い言葉を使うではないか。どうした、何が不満なのじゃ」
《ふ、不満と言う事はありません。ただ感じたまでをお伝えしただけだったのです。気分を害されたようでしたら申しわけありません》
ただ、アルラウネは基本的に穏やかな性格であり、あまり他人を責めるような物言いをしない。そして主観的な事も殆ど口にしない存在でもある。
それは彼女らが植物であり人とは異なる生態を持つためなのだが。
しかし今その通例を破り、娘は強く主観的な物言いをし。
そんな彼女へ母が浮かべた表情は、ひどく人間的な感情を湛えていた。
「どうやらあの人間が随分とお気に召したようじゃのう。ん?」
《う……》
ユグドラシルはにやにやと笑いつつ娘を見る。揶揄うようなそれを受けて、アルラウネは恥ずかしそうに俯いてしまったのだった。
「あんなにも入れ込んでおるとは流石の我も驚いたぞ。別れ際に接吻などしおって。あの行為の意味を分かっておるのか?」
《い、いえ。ですがすみません。気持ちが抑えられなくて、思わず体が》
つまり完全に衝動的と言うわけだ。ユグドラシルは依然として楽しそうだったが、しかしアルラウネは自分のとった行動の意味が分かっていなかった。
彼女は両手を胸の前で組み、不安気に眉を八の字にする。それは相手の事を本気で心配している表情だった。
《あの行為の意味は一体なんなのでしょう。あの方は私にあのような事をされて、気分を害されなかったでしょうか。そればかりが心配で……》
あまりにも不安そうな娘の顔に、楽しさを覚えていたユグドラシルも流石にバツの悪さを覚える。
「何、あれは己の好意を示すのみの行為じゃ。別に気分を害する理由も無かろうよ。むしろ嬉しかったのではないかの?」
《嬉しい? 嬉しいのですか?》
「そうじゃろう? お主のような美しいおなごに接吻されて、嬉しくない男児がいるはず無かろうよ」
《よく分かりません。でも、それならばあの方へご迷惑をかけずに済んだという事ですね。良かった……》
そう言って笑う母を見て、アルラウネは心底安心したようにほっと息を吐いたのだった。
ちなみに。アルラウネは接吻の意味を知らなかったが、実際のところユグドラシルも、好意を伝える手段とは知っていたが、それ以上の事は知らなかった。
ユグドラシルはこの里に来る前の幼い頃、人間が多く住む場所に僅かだがいたことがある。そこで聞きかじった知識を披露しただけで、接吻が真に何を意味するのかは彼女もまた知らなかったのである。
彼女もまた世界樹とは言え植物だ。そういった知識において、彼女達はどんぐりの背比べであった。
「それほどまで好いた者を、本当に引き留めずとも良かったのか? お主たっての願いと言うから我も突き放すような物言いをしたが、少しくらいゆるりとさせても良かったろうに」
そうして出て来た話から思い出し、ユグドラシルはずっと気になっていた事を振ってみる。
世界樹の浄化という大役をこなしたエイクらを、当初ユグドラシルも数日はもてなそうと考えていた。
しかしこれを止めさせたのは、実はここにいるアルラウネであったのだ。
この三百年多くのアルラウネを見てきたが、請われた事は一度も無かった。
そのため、そういう者達だと思っていたユグドラシルは、初めてされた願いに大変驚いたものだ。
必死に請うアルラウネに思う事もあり、ユグドラシルはそれを了承した。だがそれが他の願いであったなら、しこりなど残らなかったものを。
未練は無いのかと問うたユグドラシルに、アルラウネははっきりと首を振る。
《あの方には大きな使命がございます。このような場所にこれ以上お引止めしてはいけないのです》
「このような場所とはご挨拶じゃの」
先程までのアルラウネの表情は、どんな顔をしても柔和さがあるものだった。
しかし今彼女が見せる顔は固さがあった。それが何を意味するのかを、ユグドラシルは正確に理解ができていた。
マンドレイクは世界樹の実である。
そしてアルラウネは世界樹の花である。
マンドレイクは神の力――オドをその実に有する事で、人間の体を活性化する奇跡を起こしている。
そしてアルラウネもまた、その身にオドを有している。
その能力は第六感。つまり強い直感能力だった。
元々それは世界樹を外敵から守るための索敵能力として利用されていた。
しかもその力は索敵のみに留まらず、未来視として現れる場合もある。
あまりにも強力なその能力。
だがそれは、代償なくして振るう事の出来ない諸刃の剣でもあった。
「じゃが、少しくらい引き止めても良かったのではないかと思うんじゃがの。忘れておるわけではあるまい。お主……もう時間はほんの僅かじゃぞ」
花には色々な種類がある。そこには多種多様の違いがあり、色や形、咲く季節と様々あるが。
その中に、花を咲かせる期間の違い――すなわち、多年草や一年草という花の寿命と言うものもあった。
《分かっております。でも、それは私の事情です。そんなものにあの方を巻き込むわけにはまいりません》
彼女達の寿命はたったの一年もなかったのだ。春に生まれ、冬の間に枯れる。それがアルラウネという者達の運命なのだ。
今は冬間近。彼女達の寿命はもう、一、二か月程しか残されていなかった。
これは当然ユグドラシルも知っている。彼女がアルラウネへこう言うのも、娘を思う親のような気持ちがあったからだ。
《それに、あの方に会えた……それだけで、私は今二度目の春を迎えたような気持ちで一杯なのです。あの方にはこんなにもかけがえのないものを頂きました。これ以上頂いたら、私はどうにかなってしまうでしょう。だから私はここであの方の無事を祈り続けます。それだけでもう、十分なのです》
しかし目の前の娘は本当に嬉しそうに笑っている。そんな笑顔を見せられては、もう何も言うことが出来なかった。
「あ奴の使命というのは我には分からんが、お主がそう言うならそうなんじゃろうの。あんな男に御大層な使命があるとは到底思えんがのっ」
だからかユグドラシルは彼女の気持ちに納得を示しつつも、理解できないと眉間にしわを寄せる。不満そうにひじ掛けに肘をつき、頬杖を突いてぼそりと吐いた。
《――あんな男?》
「こ、この話は止めじゃ、止めっ!」
しかしアルラウネが妙に低い声を上げたことで、居住まいを正してすぐに話を打ち切った。
「まあもうあの者達はおらん。今更言っても詮無いことじゃな。さて、と」
《あ!? そんな、お一人で立ち上がるなど――!》
「もう心配いらんと言うのに。さっきも一人で動き回ったじゃろう」
誤魔化しながらユグドラシルは玉座からちょこんと立ち上がる。これに慌てるアルラウネだったが、彼女は頬を緩めて楽しそうに笑った。
「世界樹からの力の供給は始まっておる。全快には程遠いが、歩く程度ならもう問題ないわ」
分体であるユグドラシルは世界樹からマナとオドの供給を受け、その体の維持を行っている。
しかし世界樹が枯れ始めてからというものその供給が断たれる事となり、維持のできなくなった彼女の体は、徐々に老いて行くようになったのだ。
彼女の体はマナとオドで生成されている。動く事にも喋る事にも、そして考える事にも力を使うため、彼女はなるべく消耗しないよう努めていた。しかし長い年月により彼女の体はもう崩壊寸前にまで老いてしまっていた。
そんな状態でエイクらと会話をしたユグドラシルは、もはやいつ消えるかも分からない状態にまで陥ってしまった。エイク達が世界樹にいる間、彼女と交信できなくなったのは、そんな事情があったのだ。
だが彼らが浄化を進めたことで、世界樹からの力の供給が再開された。今まで不自由な思いをしていた分か、ユグドラシルは今、楽しそうに笑っていた。
《これからどちらへ行かれるのですか?》
「やっと動けるようになったのじゃ。当然行く先はたったの一つ」
彼女はそう言って白い歯を見せる。
「我が父ネロスの墓じゃよ」
かつては一日も欠かさず行っていた、自分が慕う父の元へ。まだ走る事は出来ないが、彼女の頭の中はもう、駆け出したい気持ちで一杯だった。
《それではわたしもお供いたします》
「やれやれ、心配性じゃのう」
二人は玉座に背を向けて、連れ立ちゆっくり歩き出す。アルラウネに手を引かれて歩く様は、まるで母親と子供のようだ。
久方ぶりに歩くユグドラシルを心配そうに見るアルラウネ。それに苦笑を見せながら、彼女は心の中で深く感謝をした。
(世界樹を救ってくれた事。そして我が父の墓へ参る事ができた事。お主らは感謝をしていないなど言うておったがな、我は本当に感謝しておるぞ)
彼らの記憶はもう無くなっているだろう。しかし自分は、自分だけはこの記憶をずっと残しておこう。いつか自分も最後を迎える時が来る。だがその時まで絶対に、自分は彼らの事を忘れない。
そんな思いを抱えながら、ユグドラシルはその場を後にする。部屋に残ったのはたった一脚の、子供が座るに似つかわしくない玉座のみだった。
ユグドラシルが動けなくなってから数十年、玉座は常に彼女を支えてきた。彼女をずっと乗せて来たその椅子は、久方ぶりの安息に息を吐くように、小さくきしりと音を立てた。
これにて第五章は終わりです。いかがでしたでしょうか。
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