283.希望をつないだ意思
その日は体が芯から冷えるような寒い日だった。
冷え切った鎧兜を内心煩わしく思いつつも、衛兵二人は背筋を伸ばし、槍を手に城の門を守っている。
彼らは無駄な話など一切せずに、直立不動でその場に立つ。しかし二人の見慣れぬ人物が急ぎ足で近づく姿を見て取れば、彼らの動きは素早かった。
「そこの御仁、立ち止まられよ! このルーガル城に何用か!?」
そう大きな声を上げると共に、衛兵達は彼らの前に立ちはだかる。これに二人の人物も歩調を緩め、衛兵の前で足を止めた。
衛兵達は彼らに近づき、二人の顔をよく見ようと身を乗り出すが――
「随分と偉くなったものだなフィクトル。私の顔を見忘れたか?」
二人のうちの一人――黒髪の女がそう言うと、フィクトルと呼ばれた衛兵は目を見開き。そして数秒の間をおいて、槍をガランと取り落とした。
「――ま、まさか。まさか、まさかまさかまさかっ!」
ぶるぶると震える指を向ける衛兵。
「ティ、ティナ様!? ですかッ!?」
「久しいなフィクトル。一体お前は私を、他の誰と間違えたのだ? ん?」
「わ、分かるわけないですよ! ティナ様が城を出てから何年経ったと思っているんですかっ! 何も言わずにいなくなるから俺達皆心配して――っていやいやそんな事言ってる場合じゃねぇッ! 大変だ大変だ大変だーッ!」
衛兵フィクトルはひたすら捲し立てたかと思えば、落とした槍もそのままに、踵を返して城へ走っていく。
「おいお前ら! ティナ様だ、ティナ様が帰って来たぞーっ! マジで帰って来たんだよ! ええ!? 嘘じゃねーって! 信じられねぇならテメェで見て来やがれってんだコンチクショウっ!」
「やれやれ。あの落ち着きのなさは変わらんか」
「みたいですね」
彼は叫びながら庭園を駆け抜けて行く。二人――ティナとステフはその場に立ち尽くし、苦笑しながら小さくなっていく彼の背中を見送った。
「ティナ様、どうぞお通りを」
そうしていると、もう一人の衛兵が声を掛けてくる。彼はフィクトルとは違い落ち着いた声を出していたが、顔を見れば隠し切れない感情がありありと浮かんでいて、ティナの頬は思わず緩んだ。
「お帰りなさいませ、このルーガル城に。我ら一同貴方様のお戻りを、ずっと心待ちにしておりました」
「うむ。ありがとうヘリー」
深々と頭を下げる彼へ礼を告げると、ティナはステフを伴い城門をくぐる。
このルーガル城は城としてそう大きく無いが、まだ帝国領になっていない昔からずっと、ロンベルクの行く末を見守ってきた長い歴史を持っている。
ロンベルク国が帝国領ロンベルクとなっても、ロンベルク王がロンベルク侯爵となってからも、ルーガル城は姿を変えず、ここにずっと聳えている。
その姿を懐かしく思いながら、ティナは庭園を歩いて城を目指す。中ほどまで行くと、作業を中断し集まっていた庭師達がおり、彼女の姿におおきくどよめいた。年配の者の中には目に涙を浮かべる者もいた。
「ジャスティーナ様、おかえりなさいませ!」
「姫様……あんなにもご立派になられて……ううううっ」
彼らは思い思いの感情をのせて彼女へそろって頭を下げる。
「皆、ただいま戻った。父上に火急の用件があるため、また後でな」
ティナはこれに微笑みを返しつつ、彼らの前を通り過ぎた。
「父上と母上はご健勝だろうか。ここを出てもう八年……懐かしいな」
「ティナ様が戻ったとなれば絶対にお喜びになりますよ。早く参りましょう」
ステフに促されるまでもなく、ティナの足は知らず早足になっている。だがそれも当然だろう理由がティナにはあった。
ティナと言う名は彼女の愛称であり、本名ではない。
彼女の本当の名は、ジャスティーナ・メイヴィス・ロンベルク。このルーガル城にあり、ロンベルク領を治める領主、コンラッド・ウォーレス・ロンベルクの実の娘である。
つまり彼女は紛うことなき侯爵令嬢である。さらに言えば、もし帝国に下ってさえいなければ、ロンベルク国の第一王女ですらある女性だった。年のいった者が彼女を姫と呼ぶのはその名残である。
かっちりとした服装の上に鈍く輝く胴体鎧を着こなす様は、生粋の戦士の風格を漂わせている。首からかけるドッグタグも手伝って、彼女が尊い身分だなどと想像できる者はいないだろう。
だがしかしそれがティナという冒険者の、本来の姿である。
かつてドレス姿で駆け回った庭園を抜け、ティナとステフは城内へと足を踏み入れる。たちまち上がった喜びの悲鳴は、歴史あるルーガル城に大きく響き渡った。
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勝手知ったる城の中、ティナは歩きつつ家臣へ父母に会いたいと告げ、入った応接室でソファに座って待っていた。
なおステフは座らず、ソファの後ろで立っている。ティナの護衛が本職の彼だ、これが当然であり、給仕のメイドも特に気にした様子もない。
メイドは一人分の用意をし、ティナの前にティーカップをするりと置く。だがティナがそれに手を伸ばそうとしたところで、ノックもなしに部屋のドアが開け放たれる。
飛び込んできたのは艶やかな黒髪の女性だった。
「ああ、ティナ! 帰ってきたと言う話は本当だったのね!」
そう言うなりティナを思いきり抱き締めたのは、ロンベルク侯爵夫人アビゲイルであった。
「は、母上。どうか落ち着いて下さい。折角のドレスが汚れてしまいますよ!」
「何を言っているの、これが落ち着いていられますか! 八年ぶりに娘が帰ってきたのですよ? 全く連絡も寄越さずに冒険者などして! どれだけわたくしが心配をしたか、貴方に分かりますか!?」
普段は少し冷たい印象のあるティナ。だがぎゅうぎゅうと抱き着いてくる母親に、今はもうたじたじである。
「大体どうしてこんな部屋にいるの! わたくしの部屋に直接来れば良いものを!」
「い、いえ、私の用で伺ったわけですし。それにこのような汚れた恰好では――」
「親に遠慮する子がおりますか! どんな姿だろうと、貴方はわたくしの娘なのですよ! さあもっと顔をよく見せなさい!」
ステフやメイドはこれをニコニコしながら見つめている。止める者がない状況に、ティナはどうにもならず困ったような笑みを浮かべていた。
ティナは母親のこの行動を、相変わらず大げさだと思いながら見ていたが、しかしアビゲイルの立場で考えればそれも当然と言うものである。
何せ蝶よ花よと育てた娘が、城を飛び出して血生臭い冒険者になどなってしまったのだから。
昔からお転婆な所がある娘で、アビゲイルが窘めたことは数知れない。かくれんぼの最中に城の屋根へと登ってしまい、降りれず泣き叫んでいたと聞いた時は卒倒しそうになったほどだ。
そんな振る舞いも大人になれば多少は落ち着くかと期待していたのに、まさか悪化してしまうとは、母の気は未だ休まらず。
そうしてずっと心配し続けていた娘が、八年越しにやっと帰ってきた。嬉しさや怒り、心配などと言った気持ちが爆発し、娘に詰め寄ってしまうのも無理はない事だった。
「アビー、そろそろ私にも話をさせてくれないかな」
だがそうこうしていると、いつの間にか部屋に入ってきたもう一人の人物に声を掛けられる。
ティナがそちらに目を向けると、そこには自分の記憶よりも少し老けた様子の男性がおり、彼女は思わず目を見開いた。
「父上!」
「元気そうだねティナ。うん、顔が見られて嬉しいよ」
ティナの父、 コンラッド侯爵はそう言いながら腕を広げる。
ティナはアビゲイルの腕からするりと抜けると、父親と軽い抱擁を交わした。
「随分逞しくなったみたいだね。ギルもいたらきっと喜んだろう」
「兄上には度々会っておりますから大丈夫です。帝都に行った際には顔を見せておりますし、つい最近も話を致しましたから」
「それでも、だよ。自分から危険に首を突っ込んで行く家族がいるなら、いつだって顔を見たいものさ」
ギルとはティナの兄、ギルベルトの事だ。三つ上の兄はかなり前に帝都に移っており、今は城にはいなかった。
ただ冒険者でいる都合上帝都で活動する事も多く、ティナは兄とは度々顔を合わせている。これを言えば父からは少し困ったような顔を向けられ、そして母からは嫉妬するような視線を向けられた。
「ギルは良いですわね、ティナと頻繁に顔を合わせられるなんて。わたくしも帝都に移ろうかしら」
「それはないだろうアビー。君に置いて行かれたら私が困ってしまうよ」
頬を膨らませるような仕草を見せる妻に、コンラッドは笑顔で手を伸ばす。
「さあ、アビーもティナもそんな所に立っていないで、座って話をしようじゃないか。八年も顔を見せなかった娘が自分から帰って来てくれたんだ。色々と積もる話があるだろう」
彼は妻の手を取って、自然とソファへ誘導する。
「だが、この子がこうして帰ってきたのは、きっと私達に話があるからだろう。まずはこの子の話を聞いてみないか? 面白い話が聞けそうだ」
二人はティナが腰かけていた向かいのソファに並んで座る。不満か心配か、アビゲイルは少し眉を八の字にしている。しかしそれに対して父コンラッドは楽しそうにして、娘の顔を真っすぐ見つめていた。
娘が冒険者になる事を認めたのは、目の前にいる父だった。そして彼女の思いを一番に理解してくれているのもまた父だった。
顔からは朗報なんだろうと、そんな彼の思いが透けて見える。
母に会えて嬉しくはあったが、あれでは日が暮れても終わらなかったはずだ。父の配慮に感謝しながら、ティナはまたソファに座り直す。
そして自分がなぜ帰って来たのか、その理由を、両親へと話し始めたのだった。
「マンドレイク、か。そんなものが本当にあるのか、にわかには信じられないが。しかしこれを見る限りはきっと、本当の事なのだろうね」
一通り話を聞いた父は、テーブルの上に苦悶の表情で横たわる不可思議な物体と、聖女からという手紙に目を落とした後、顔を上げてそう言った。
「しかし話を聞けば、大変な冒険をして来たみたいだね。ステフ、娘を守ってくれてありがとう。やはりステフを付けて正解だったみたいだ。あの二人を撒いてくれたようだしね」
「うっ! ち、父上。それは――」
ティナは時が時なら王女でもある尊い身である。護衛がたったの一人など到底考えられず、コンラッドはステフの他に、もう二人護衛を付けていたのだ。
ティナとステフ、そして残る二人で組んだパーティ”黒薔薇”は、帝国領ではそれなりに有名である。
先頭で戦うティナとステフに、弓使いの斥候と、精霊魔法も習得している神官というパーティはバランスもよく、今まで幾度も大きな任務をこなしてきた仲間であったのだが。
「あの二人はきっと今もティナを探しているんだろうねぇ。撒かれたのはあの二人が甘かったからだから、自業自得だけどね」
「も、申しわけありません、父上……」
「報告が来ているよ。北の王国へ攻める帝国軍に加わって、手柄を立てようと考えているって。まったく、自分の娘ながら無茶をする。そう思わないかい? ジャスティーナ」
ステフは元々ティナ付きの護衛である。しかし残りの二人はティナの護衛であるが、その前にコンラッド侯爵の忠実な部下であった。
コンラッド侯爵からの命令は、娘を守る事。二人は帝国軍に加わろうというティナ達を諫める立場にあったのだ。
だがそんな二人をティナとステフは出し抜いて、帝国軍に加わってしまった。二人は大慌てでコンラッドへ報告しつつ後を追ったが、未だに合流できずにいる有様だった。
普段柔和な父親だが、ふとした瞬間に妙な威圧感を覚える事があり、ティナは小さな頃からそれを苦手としていた。
だがそれは大人となっても変わらないらしい。目の前の父が放つプレッシャーに気おされて、ティナは冷や汗をかいていた。
「でも貴方。ティナがここに無事でいると言う事は、結局帝国軍には加わらなかったと言う事ではありませんか。それが知れただけでも良かったわ」
だがそこにこんな母の声が聞こえて、ティナははっと顔を上げた。
「……え? 母上、それは一体どういう事でしょうか」
「ええ? 何を言っているの。だってまだ帝国軍は王国領にまで進軍していないと聞いていますよ。ねぇ貴方?」
「……そうだね。それは間違いないんだけど。聞いていいかな、ティナ」
コンラッドは娘の顔をじっと見つめる。その瞳は嘘は許さないと言う力強さを持っていた。
「聖女からの手紙に、王国軍第三師団長からの手紙。このマンドレイクをどこから持ち帰ったか言えないと言ったけど、これを見ればすぐに分かる。ティナ、君がこれを手に入れたのは、王国領だね?」
見つめられ、ティナはぐっと奥歯を噛む。場所に関する情報は、絶対に話せないと彼女は考えていた。
それを話す事はユグドラシルとの約束を違える行為だ。だがそれ以上に、彼女は話したくない大きな理由を持っていた。
「申しわけありません。例え父上だろうとも、こればかりは話せません」
マンドレイクが王国で手に入れた物だと知られたら、帝国は更に王国を獲得したいと思う可能性がある。そうなれば、二つの国がぶつかり合う更なる火種になりかねない。
自分を助けようとしてくれた彼らの命も危険に晒される。そんな行為は決してできないと、ティナは強く思っていたのだ。
ティナは真っすぐに父親の目を見つめ続ける。折れたのは、父親の方だった。
「分かった。そこまで言うのなら聞かない。いや、むしろ聞かない方が良いのかもしれないね」
「え? それはどういう事でしょう父上」
しかしほっとしたのも束の間、コンラッドの口から出て来た言葉を不思議に思い、ティナは疑問を口にする。
コンラッドは少し逡巡するが、しかし話すことを決めたようで、ティナの顔を真っすぐに見つめた。
「今から言う事は絶対に口外しないように注意するんだよ。相当不味い情報だからね。ああステフ、君はいてくれて良い。マンドレイクに関しては君も当事者だ、何かあればこの子をフォローして欲しいからね」
「ちょっと貴方、その話は――」
「ティナはもう何も分からぬ幼子じゃない。こんなに逞しく成長してくれたじゃないか。大丈夫だよ、アビー」
メイドにちらりと目を向け退室を促すコンラッド。彼女は頭を下げて、静かに部屋を後にする。
ステフがそれに続き出て行こうとするも、コンラッドはそれを手で制し、少し慌てた様子の妻も横目で黙らせ、また娘に目を向け口を開く。
「皇帝陛下は、どうも難病を患っておられるらしい。あまり情報は出てこないけど、もしかしたら長くないのかもしれない」
『えっ……』
ティナとステフの口から驚きが転がり出る。声を漏らしてしまった事に慌てるステフだったが、しかしコンラッドはそれを咎める事は無く、小さく頷いて見せてから再び話を続けた。
「もしかしたらこの王国攻めも、それが理由なのかもしれないね。ただそんな時に君達はこのマンドレイクを持ち帰ってきた。何かの意思すら感じるけど……これはきっと好機なんだろう。上手くすれば、戦争を止められるかもしれない」
驚きの内容に言葉が出ないティナ。だが彼女は分かり始めていた。その意思と言うものが父の思い違いではなく、本当にあったものなのだと。
自分達が王国にいた時は、まだ冬に入る直前の、肌寒いくらいの季節だった。
しかし自分達がロンベルクへ転移された時、その寒さに驚いた。帝国と王国はこんなにも気候に差があったかと、勘違いしてしまったくらいに。
「陛下への献上は私に任せてくれるかい? お前が場所を教えたくないと言うのなら、僕が上手くやってみせるから」
しかし母の言葉と父の話す内容で、ティナは一つの事実に思い当たった。
帝国が王国にぶつかる前、皇帝は既に難病だった。その十月程後にティナ達はマンドレイクを手に入れたが、その時皇帝はまだ存命だったのかと。
ティナは別れ際聞いたマリアの大きな声を思い出す。
「時と空間の精霊達よ、この二人をロンベルクへ! 時空間跳躍、転移の行使を、大聖女マリアの名のもとに命じる!」
転移と言うなら空間だけで良いはずだ。そこに時という単語がある事に、彼女は今になって気が付いた。
全てが繋がった事を理解して、ティナは溢れた涙を隠すように下を向く。
(マリア様……ありがとうございます……! 貴方はきっと、皇帝陛下がすでに儚くなっている事をご存じだったのですね……! だからあの時貴方様は……っ!)
平時であったなら、皇帝の崩御などという情報は王国へも届いていただろう。
しかし王国とは未然とは言え事を構えた後だ。知られては不味いと、帝国側が一時的に秘匿した可能性があった。
今までティナとステフ、そしてもう二人の仲間と八年。奴隷解放のために血を吐く様な努力をしてここまで来た。
しかし皇帝を唸らせる功績など得られる機会はまるでなかった。霞のような希望だと心が折れかけた事もあった。
頼れる者など他にはいないと、無意識に思い込んでいた。自分の力だけで切り開くしかないと、半ば意固地になっていた。
それなのに。
(それにエイク殿。貴方は本当に、自分の言葉を真っすぐに貫いてくれた……。貴方の進言があればこそ、きっとマリア様も力を振るって下さったのだ……!)
気に入ったからとそれだけで、力を尽くしてくれた人がいた。
恐れ多くも聖女に対し、協力を仰いでくれもした。
マンドレイクも過去へ戻る事も全て、彼らの尽力のおかげだった。
(貴方達が道を作ってくれたのだ……! ありがとう……っ! 本当に……私は、私は貴方達に、一体どう返したらいい……っ!)
耐えるように俯くティナの目から、ぽたりと雫が拳に落ちる。これに父と母は腰を浮かした。
「ど、どうしたんだいティナ。もしかして不都合でもあるのかい?」
「ティナ、急にどうしたの!? 何か不安な事でもあるの!?」
突然変わった娘の様子に慌てる二人。しかしティナは顔を上げられない。こんな情けない顔を、久しぶりに見る両親の前に晒すのは嫌だった。
「いえ……っ! 父上、どうか……お願い、致します……っ!」
彼女は震える声を隠すように、小さく短くそう話す。これにまた両親は慌てるが、しかしその後ろで一人、ステフだけが優し気な目で彼女を見つめていたことに、その場の誰も気づいてはいなかった。
その後、コンラッドは迅速に動き出す。
マンドレイクが皇帝の元に届けられたのは、帝国軍が王国軍とぶつかり合う、数日前の事だった。