277.突然の迷子
「えーちゃん! 起きて!」
「……ん? あ、あれ?」
誰かの声と頬の痛みで意識が覚醒していく。目を開けて最初に見えたのは、どアップになったホシの顔だった。
地べたに仰向けに倒れる俺の体に乗り、ホシが頬をぺちぺちと叩いてくる。彼女は俺と目が合うと、ニーッといい笑顔を見せた。
ぴょいと体から降りたホシに、俺はむくりと体を起こして周囲を見る。そこは暗い崖の下ではなく、木漏れ日が差し込む森の中だった。
「え? どこだここ」
「さあ? アタシ知らない。目が覚めたらここにいたんだよ。えーちゃんも隣で寝てたし」
ホシはけろりと口にするが、大問題だろう。森の中で大の字で寝てるなんて、何に襲われるか分かったもんじゃない。危険極まりない事だ。
里から出て記憶を失っても、あの崖下にいるのなら危険は無いと思っていたんだが、一体全体どうしてこんな所にいたのだろう。
そう考え始めた時、俺ははっと重要な事に気づいた。
「おいホシ」
「ん? なーに?」
「今まで俺達がどこにいたか、お前覚えてるか?」
こてりと首を傾げたホシ。だが俺がそう問いかけると、彼女は大変良い笑顔を見せる。
「面白かったね!」
ユグドラシルは言っていた。結界の外に出れば記憶が消えると。
だが俺もホシも、あの里での事をしっかりと覚えているようだった。
これは一体全体どういう事だろう。記憶を失うと言うのは嘘だったのだろうか。
「記憶、無くならなかったね」
「みたいだな……。ただユグドラシルが嘘を言う理由も無いからな。念のため他の奴らにも聞いてみよう。あいつらがどこ行ったか分かるか?」
「ううん。アタシは知らない」
立ち上がり、土を払いつつ声を掛ける。体を叩いて気付いたが、俺のローブはボロボロで、あちこち破れてかなりみすぼらしい。
だがこの恰好からも、世界樹での戦闘は俺の夢ではない事が分かる。もし記憶が消えていたら、この恰好に俺はどんな反応をしたんだろうな。
明らかに激しい戦闘があったと想像できるローブ姿だ。スティアなんて血相を変えて飛んできそうだな。
「たぶん近くにいるだろ。探すぞ」
俺はそうホシを見る。≪感覚共有≫をかけ直さず切ったまま里を出てきてしまったから、皆と連絡を取る方法が無い。地道に探すより他、手が無かった。
「そんな事する必要ないよ?」
「は?」
だがホシは不思議そうな顔をして、すうと大きく息を吸い込んだ。
「おーいっ!! すーちゃーんっ!!」
馬鹿でかい声が森に響き渡り、俺は思わず耳を塞いだ。いきなりデカい声出すんじゃねぇよ。耳が壊れるかと思ったわ。
突然なんだと思ったが、しかしその意図はすぐに分かった。何かの気配がこちらにぐんぐんと近づいてきたのだ。
そいつは真っすぐにこちらへ向かって来ると、木々の間から姿を現す。
「ホシさん! 貴方様ーっ!!」
それは銀の髪を振り乱したスティアだった。ホシのでかい声を聞いて一目散にかけて来たらしい。
「貴方様ーっ!!」
彼女は必死の形相で俺目がけて走ってきて、近づくや否やばっと飛びかかって来る。俺はそれをひょいとかわした。
「スティアは無事だったみたいだな。あとはバドか」
「だねー」
「全然無事じゃありませんわ! 酷すぎませんか!?」
木の幹に激突したスティアが、ぶつけた顔を赤くしながら文句を言う。だがな、それならあんなスピードで飛びかかって来るんじゃねぇよ。俺をひき殺す気か。顔もなんか必死過ぎて怖かったしさぁ。
ぷりぷりと怒るスティアをしばらくなだめていると、今度は後ろから大きなものがのっそりと姿を現した。振り向けばそれは、黒の全身鎧を着たバドだった。
彼が軽く手を上げたので、俺も手を上げて返す。魔族達はシャドウの中にいるし、これで全員揃ったか。
「バドも無事だったか。とりあえずは全員大丈夫だったみたいだな」
「わたくしは全然大丈夫じゃありませんわ! 見て下さいましこの顔を! なでなでを要求しますわ!」
「悪かったって」
とにかく一旦≪感覚共有≫をかけ直した方が良いな。魔族達とも話ができないし、色々不便だ。
俺はシャドウへ合図をし、魔族達を出してもらう。だがどこか困惑気味の彼らを見て、記憶の方は望み薄だと、聞く前に察してしまっていた。
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結論から言えば、やはり俺とホシ以外の皆は里での事を全く覚えていなかった。
持ってきたマンドレイクを見せながら説明すると、半信半疑と言った様子だがとりあえず納得はした様子だ。
だがやはり自分の記憶がないと言う事で、皆首を捻っていた。
「世界樹の里、ですか。だからそんなボロボロの姿に。理解は致しましたが、貴方様の仰る事とは言えにわかには信じがたいですわね……」
「すっごく楽しかったよ!」
スティアは腕を組み、マンドレイクを難しい表情で見ている。そんな彼女を見上げるホシは、両手をいっぱいに挙げて喜びを体全体で表していた。
まあこんなわけの分からん物を見せられても、普通誰も信じないだろうなぁ。俺だったら絶対に信じん。信じてもらえたのはやはり普段の行いの賜物か。
「な、なんでそんな重要な事を俺は覚えていないんだぁっ! この役立たずの頭め! くそっ! くそぉっ!!」
だが信じてくれるのは良いが、あれはどうなんだろう。木に頭をガンガンと打ち付けているオーリに何とも言えない気分になる。
魔族達も白けた表情で彼を見ていて止める気はなさそうだ。放っておくのが正解っぽいから、俺もそのままにしておこう。
「ねぇねぇ、えーちゃんも楽しかったよね?」
「楽しくねぇよ。少なくとも理由がなけりゃ、もう行きたくねぇ」
まあホシは楽しかっただろうな、存分に暴れられてよ。でも今そこは重要じゃないのよ。お分かり?
例えば見ろ、バドの様子を。俺の話を聞いて、可哀想なくらい肩を落としているだろう?
エルフと世界樹の関係を改めて知ってしまったからな。落ち込みようが半端ない。
俺がバドを見ていると、ホシもそれに気づいたらしい。とてとてと彼のもとへ歩いて行き、「ばどちん元気出してー」と腰の辺りをぺちぺちとやりだした。
「ん? これは何でしょう?」
そうこうしていると、自分のサイドポーチを検めていたスティアが声を上げた。
彼女はそこから何か光る物を取り出している。見るとそれは、黄金に輝く大きな鳥の羽だった。
「それ、もしかしてヴィゾフニルの羽か?」
「ヴィゾフニル? うーん……どうなのでしょう。分かりませんわ」
スティアは首を傾げながら俺にその羽を差し出してくる。黄金の羽なんてアイツの以外無いだろうと思いつつ、俺も何気無くその羽を受け取ったのだが。
「ん? なんだ――」
するとどうだろう。急にその羽が輝きだし、パッと弾けて消えてしまったのだ。
「は? な、なんだぁ? 今のは」
突然の事に呆けた声が出た。握っていたはずの羽はもうどこにも無い。誰ともなしに出た言葉には、当然ながら答えは返って来なかった。
「……何だったんだぁ? 大将が持った途端消えちまったぞ?」
「私に聞かれても分からないわよ」
ボソボソと話すデュポとコルツ。だが静かな森の中では丸聞こえだ。
「……なんか、悪かったな」
「いえ、わたくしは別に構いませんが。でも何だったのでしょうね」
何となくスティアに謝ると、スティアも何を言って良いのか分からないという様子で首を振った。
まあそうだよな。スティアは向こうにいた記憶が無いのだから、何を言って良いかなど分からないだろうし。
「ああ、そうそう。そう言えば」
微妙な空気が漂ったからか、スティアはポンと手を打って話を変えてきた。
「この森で貴方様を探している時なんですけれど。何だか向こうの方で、大勢の人間が騒がしくしておりましたわ」
「なんだそりゃ。何かしてるのか?」
「どうも争っているみたいでしたけれど。気になるようでしたら行ってみますか?」
争っていたって、何だその漠然とした情報は。まあスティアの事だから、そちらより俺達の方を優先したんだろうけども。
全く確認して来ないのが何とも彼女らしいと言えばらしい。だが俺は聞いた以上、確認しないと気が済まない性質である。
「よく分からんけど見るだけ見てみるか。スティア、案内頼めるか?」
「承知しましたわ」
「ガザ達はまたシャドウに入っててくれ。シャドウ頼む」
ぷるると震えるシャドウの中へ、分かったと言ってガザ達が入って行く。もう慣れたもので、五人組の姿はあっと言う間に消えてなくなった。
「よし、それじゃ行ってみるか」
俺は残る三人の顔を見回す。するとホシが俺をきょろりと見上げて来た。
「ねぇねぇ。まりちん達は? ほっとくの?」
確かにマリア達はまだ見つかっていない。だが俺達を探して森を歩いていたスティアが、見つけられなかったと言っていた。
今も声すら聞こえないという。となると、ここにはいない可能性が高いと見て間違いない。
「アレスもいるし大丈夫だろ。それにあいつが窮地に陥ってる状況を想像できねぇ」
「確かに」
あいつの事だ、きっとどこかで無事でいるだろう。スティアとバドもこれにうんうんと頷いた。
あいつにも記憶の事を聞いてみたかったが、別段支障があるわけでも無し。とにかくこの近くにいない以上、奴が無事な事を信じるしかなかった。
「それでは行きましょうか。こちらですわ」
そうして俺達はスティアが指さした方向へ歩き出す。マリアの心配もいいが、だが俺達は俺達自身がおかれているこの状況を、すぐにでも確認する必要がある。
この森が一体どこなのかも分かっていないのだ。ここが里のあったゲラニオ山なら構わないが、もし王都の近くまで飛ばされていた、なんて事になれば大事だ。俺達が数か月かけて歩いて来た時間が台無しになってしまう。
普通ならそんな事を考えないだろうが、マリアの転移を見たばかりの俺からすると、そんな馬鹿話も真面目に考えてしまう。
何より崖下でなくこんな森に飛ばされているんだからな。俺達が何者かに転移を受けたのは明らかだった。
下草を踏みつつ薄暗い森を進んで行く。そうして十分程真っすぐ進むと、森の切れ目が見えて来た。そしてスティアが言ったように、大勢の人間が戦っているような音も聞こえてくる。
俺達は一度目配せをした後、気付かれないよう警戒し、そちらへとゆっくり近づいて行った。
「おらぁっ! 無駄に足掻くんじゃねぇマヌケ共が! 無駄なんだよ!」
「ぐあぁっ!?」
「はっはぁーっ! 残念だったなここで死ね!」
「がはっ……」
そんな大声が前方のあちこちから聞こえてくる。どうもこの内容からするに、盗賊でも出たみたいだ。
なら戦っているのは誰だろう。そう思いながら更に近づいて行くと、徐々にその場が見えてくる。だがそれは俺の思ったような光景とは少し違っていた。
戦っているのは同じ胴体鎧を着ている傭兵のような集団と、首からドッグダグをかけているように見える冒険者達だったのだ。
彼らは左右を森に囲まれた街道で戦っている最中だった。傭兵の数は冒険者達の倍以上に上り、冒険者達の前後を塞ぎ、退路を断った上物量で攻めている状態だ。
戦局は明らかに傭兵達に傾いていた。それは分かる。だが今一状況が分からなかった。
「傭兵と冒険者の争いか……?」
盗賊かと思ったら傭兵だった。まあそんな事もあるかと思えるものの、傭兵と冒険者が戦っている理由が今一分からない。
傭兵と冒険者は商売敵だ。だが殺し合う程荒んだ関係でもないはずだ。
俺が不思議に思っていると、スティアがくいと袖を小さく引いた。
「貴方様、あれを」
「ん? 何だ――」
彼女が見ているその先に、俺も視線を向けてみる。そしてそこにいた人物に、俺は僅かに目を見開いた。
そこに倒れている男と女に、俺は見覚えがあった。もうどちらの名前も覚えていない。だがどこで見たのかははっきりと覚えていた。
「あれは……誰だったか」
「ミゼナギルドのマスターと、シルヴィアとか言う小娘だったはずですわ」
俺の呟きにスティアが応える。その言葉で俺ははっきりと思い出した。
血を流して倒れている男と、口から血を流している女。それがミゼナで見た、冒険者ギルドのマスターとその娘だった事を。