276.いざさらば世界樹の里
「よし。それじゃあもう、ここに用事はねぇな。とっとと帰るとするかぁ」
全てを終えれば後はもう帰るだけだ。ならさっさとお暇するとしよう。
ここにいると面倒事がさらに増えそうで怖いしな。
「ちょっと待てエイク。まだやる事が残ってるぜ」
だがそこへ一つの声が上がる。やはりというか、マリアだった。
「ああ? まだ何かあんのか?」
「こんなこたぁ殆どやらねぇんだがな。今回はサービスしてやるよ。ティナ、ステフ。お前らそこに立て」
マリアは不敵に笑いながら、自分の前を指差した。
そこはかとなく嫌な予感がするのは気のせいだろうか。ティナとステフも同様に感じたのかチラリと視線を交わしたが、聖女に言われては断れないと思ったのだろう。困惑しながらも、二人はそこに並んで立った。
それに小さく頷いたマリアは杖を両手で構えつつ、静かにその両目を閉じた。
「……凄い魔力ですわ」
「そんなにか?」
「ええ」
すすすと近づいて来たスティアが小声で話しかけてくる。俺にはあまり分からないが、しかし周囲の空気が何となく変わったのは分かった。
珍しく胡散臭い詠唱をしないマリアからは、どこか静謐な空気が漂っている。こうして見ると美しい容姿も相まって、本当に聖女にしか見えなかった。
皆が黙って見守る中、マリアは静かに瞼を開く。黄金の瞳がきらきらと、太陽のように輝いて見えた。
「おいティナ。お前、これから帝国のどこに向かうつもりだ? 帝都か?」
「え? どこへ、ですか?」
一緒に付いて行けないと言っていたのに、それを聞いて一体どうするつもりなんだろう。
意図が分からない問いかけに、ティナも困惑から声を漏らす。
「一度私の故郷、ロンベルクへ戻ろうかと思っておりますが――」
しかしそれも僅かの間で、彼女はすぐに問いに答える。
これにマリアは微笑み頷いた。
「帝国領のロンベルクだな。分かった。場所は――向こうか」
そして彼女は杖をさくりと地面に突き立てる。するとどうだろう。ティナとステフの足元が、円状に目映く光り始めたのだ。
二人は突然の事に慌てふためく。俺達も何が起こっているのか分からず、動揺するばかりだった。
だがそんな事には目もくれず、マリアが光らせているだろう足元は、どんどんと輝きを増していく。
「マリア様っ!? こ、これは一体――!?」
戸惑いにティナが大きな声を上げる。だがこの声は、さらに大きなマリアの声に遮られた。
「時と空間の精霊達よ、この二人をロンベルクへ! 時空間跳躍、転移の行使を、大聖女マリアの名のもとに命じる!」
すると突然足元の光が激しい輝きを放ち、俺は堪らず目を瞑った。それは間違いなく一瞬の事で、一秒にも満たなかったと思う。
それなのに、次に俺が目を開いた時には、二人の姿はどこにも無くなってしまっていた。
本当に、周囲のどこを探してもいなかった。こんなにだだっ広い、何もない畑だと言うのにだ。
「いっ、今の力は!? お主、一体何者じゃ!?」
突然、ユグドラシルが大声を上げた。見開かれたその目は驚愕に染まり、マリアを凝視している。
だが何者って、創造神の関係者なんだろうに。ユグドラシルはマリアが何者か、全く理解していないようだった。
と言うか今までも思っていたが、ユグドラシルの奴、俺達が世界樹の中にいた時の事をまるで把握していない様子なんだよな。
聴覚の≪感覚共有≫をかけていたから、俺達の会話もこいつにも伝わっているはずなのにだ。
そう言えば、彼女は途中から何も反応を返さなくなっていた。もしかしたらそれと何か関係があるのかもしれないな。
その間ずっと寝てた、なんて理由だったらぶっ飛ばすが。
「最初から言ってるだろ。俺様は大聖女。それ以外の何者でもねぇ。分かったか? 分かったなら今すぐ敬いやがれ」
「は、はぁ? お主が何を言っとるか、我はさっぱり分からんぞ……」
「ねえねえ。そんな事よりマリちん。あの二人、どこに行ったの?」
マリアがユグドラシルを鼻で笑う中、そう声を上げたのはホシだった。くりくりとした目を向けられたマリアは、意地の悪そうな笑みを見せた。
「勿論帝国のロンベルクさ。今頃あの二人、ビビッて腰でも抜かしてんじゃねぇか? 顔を見れないのが残念だぜ」
「ちょ、ちょっとお待ちなさい! 転移!? 転移ですって!?」
「ああ。ちと魔力を使うが、まああのくらいの距離ならわけねぇよ」
理解不能な状況にスティアが焦った声を出すも、当人はしれっとしたものだ。マリアの当然と言う態度に、俺達は呆気に取られてしまった。
転移なんてものは今まで聞いた事がない。
いや。全く無いかと言えば、一つだけ思い出すことがあった。
あれは魔族達を保護してすぐの事だった。ガザが言っていたのだ、魔王ディムヌスの力で、魔族達が王都近くのセントベル近郊へ転移されたのだと。
それと同じことをこいつはやったと言うのか。
と言う事はつまり――
「マリア……。お前、やっぱり魔王だったのか……」
「やっぱりって何だ!? 馬鹿言ってんじゃねぇ、聖女と真逆じゃねーか!」
だよね。まあこいつは一年ほど前、魔王の力――今思えばそれは結界だったのだろうが、それを討ち破りやがったのだ。
同等の力を持った存在と言う事なのだろうな。つまり魔王と言っても差し支えないと言う事であってだな――
「お前、また余計な事考えてやがるな?」
何も考えて無いです、はい。でもマリアが聖女だって事は疑ってます、はい。
絶対魔王みたいな何かだろ。性格が歪み切ってやがるもん。
舌打ちしようと俺のこの考えは変わらんぞ。お前の性格が真面になるまではな!
つまり永遠に変わらんてわけだ、残念だったな。
「ふん、まあいい。だがな、お前は俺に感謝する事になるぜ。マリア様ありがとうございますってな」
だが俺が魔王と疑う聖女は、そう言って余裕たっぷりに笑う。
「何だよ、感謝って」
「いいか? あいつらはこの結界から正規の手順で出たわけじゃねぇ。つまりだ。結界の効果も正しく発揮しねぇわけだ」
マリアは俺に近寄って、ひそひそと話しかけてくる。その表情は悪戯が成功した子供のようなものだった。
結界の効果が正しく発揮しない? それはつまり、そういう事だろうか。
マリアはチラリとどこかに視線を送る。それを追えば、そこにはまだマリアに訝しそうな目を送っているユグドラシルがいた。
その視線に、俺ははっきりと意味を理解した。
「なるほどな。目的を果たすために、あの二人にはここの事を覚えていてもらった方が都合が良いって事だな」
「まあ他にも理由はあったけどな。どうだ? 俺に感謝する気になっただろ?」
「多少はな」
「素直じゃねぇ奴は嫌われるぜ?」
「嫌われて結構だよ。もうお前とは関わり合いになりたくねぇ」
ケッと言う俺に、マリアはにひひと笑った。その笑顔はいつもの邪悪な笑みとは違い、本当に楽しそうな笑顔だった。
それに俺は毒気を抜かれてしまう。こうして楽しそうに笑ってりゃ、少なくとも魔王なんかには見えないのにな。もったいねぇ。
「助かったぜエイク。また何かあったら頼むぜ」
「もう勘弁してくれや……」
あまりにも少女のような笑顔を見せるマリア。そんな彼女に対して俺は文句を言うでもなく、ため息を返す事しかできなかった。
------------------
マンドレイクの畑を後にして、俺達はこの里の最端――つまり、里の出口付近に集まっていた。
俺達がこの里に来た時は、ここに皆が倒れていたそうだ。周囲の風景は里と同じく花が咲き乱れる美しいものだが、俺達が向かおうとする場所に目を向ければ、あまりにも不自然な暗黒がそこにはあった。
目の前にある草花が生い茂った緑の崖は、上空まで高くそびえている。だがその部分だけぱっくりと縦に裂けたように割れていて、その割れ目が暗闇で覆われていたのだ。
きっとこれが結界の境目なんだろう。思えば俺達がこの崖下へ降りてきた時も、異様に暗い空間があった。目の前の暗闇はきっと、そこへ続いているのだろう。
という事はつまり、ここへ足を踏み入れたら最後、俺達はここの事を忘れると言うわけだ。
記憶が消えるなんて妙な気分だ。出ないわけにもいかないが、どうにもしり込みしてしまう。
「なぁマリア。俺達も転移で外に飛ばすってわけにはいかねぇのか?」
「馬鹿言え、今日は力を使い過ぎだ。これ以上使ったら流石に俺様でも干上がっちまう。お前らは自分の足で帰りやがれ」
さけられないかと相談するも、マリアにすげなく返される。だが俺はその事よりも、力を使い過ぎたという台詞に驚いた。
まさかマリアの奴がそこまで無理をしているとは思わなかったのだ。こいつも一応役目を果たすために尽力していたって事か。
どんな時も人を食ったような態度を取る奴なのに。
……正直、ちょっと見直した。
「そこから出ればお主らはここの記憶を失う事になる。危険は無いから安心せい」
見送りにと付いて来たユグドラシルは、少し離れた場所に立っている。隣にはまだアルラウネもいた。
そう言えば他のアルラウネと違い、このアルラウネはずっと俺達のそばにいた。
自分勝手であまり良い印象のないユグドラシルと違って、彼女は最初から非常に好意的だった。
非常に真っすぐな好意に初めは戸惑ったものの、俺はその理由を、きっと世界樹を枯れさせたくないからだろうと、そう捉える事にしていた。
少しくらい打算が含まれていた方が、安心できたからだ。
だがそれはやはり、俺が安心したいという心理からくるこじつけだったようだ。
今彼女が浮かべる表情に、俺はそれを実感していた。
「~~~~……」
草笛のような高い声。だがその音色はどこか寂し気な感情を奏でていた。
両手を胸の前で組む彼女からも、深い寂しさが感じられる。本気で寂しがっているらしい。
視線は俺にだけ注がれていて、そして逸らされもしない。
その今にも泣きだしそうな顔を見ると、正直非常に気まずかった。
「ねえねえ! 早く行こうよ!」
「そうですわね。何だかんだ長くおりましたし」
ホシが俺のローブをぐいぐいと引っ張る。スティアも何を気にした様子もなく、さらりと口にした。まあこの里自体に思い入れなんてないからな。
むしろ嫌な思い出ばかりで、さっさと出て行きたい理由まであるくらいだ。
バドもこくりと首肯する。すでに魔族達はシャドウの中に入っていて、出ていく準備も万端だ。
俺はもう一度ユグドラシル達を見た。
「お前達にも世話に――」
と言いかけて、思った。世話したのはこっちだわ。
「なってねぇな。むしろ感謝しろこの野郎」
「な、なんじゃその言い草は! もうさっさと行けば良かろう! ふん!」
やれやれ。なんというか、感謝らしい感謝をされた覚えが無いな。
ぷいと顔をそむけたユグドラシルに、もう言葉をかけるのも馬鹿馬鹿しくなる。
「それじゃあ行くかー」
「おー!」
「全く、礼儀知らずが相手では精神が疲弊しますわね」
「な、なんじゃと!?」
元気に握り拳を上げるホシに、ユグドラシルをボロクソに言うスティア。
ユグドラシルが憤慨しているが、もうあいつのことは放っておこう。
俺は彼女達に背を向ける。そして目の前に佇む暗闇に向かって歩き出した。
ここに足を踏み入れれば記憶を失うわけだが、失っちまえば失った事も忘れるのだ。気味が悪いがポジティブに行こう。
「貴方様。それではまずはわたくしが」
そう言ってスティアが暗闇に消えていく。彼女を飲み込んだ暗闇は、そのまま静かにそこにあった。
俺は覚悟を決めて足を進め、大きな暗闇の前に立つ。
だが、そんな時だった。
「~~~~~!!」
後ろから大きな音色が聞こえ、俺は思わず振り向いた。それと同時に、何か緑の大きなものが俺の胸に飛び込んでくる。
何かと驚いていると、不意に唇に柔らかいものが触れる。だがすぐにどんと突き飛ばされ、俺の体は後ろへと流れた。
突然の事になんの反応もできなかった。伸ばした手が空を掴む。
俺の体は後ろの暗闇へと飲み込まれ、すぐに目の前が真っ暗に染まった。
俺が暗闇に飲まれる前に、最後に見たもの。
それは目に大粒の涙を湛えたアルラウネの姿だった。