273.ラタトクスの心
「ラタ様、クス様。世界樹初の浄化、我々がお二方のお手伝いをさせて頂きます」
ラタが覚えている最も古い記憶。それは世界樹を初めて浄化した時の事だった。
その時は武装した森人族の一団が彼らの前に現れて、浄化の手伝いをすると言ってくれた。五十にも上った彼らは第六階層の手前で皆力尽きてしまったが、それでも彼らの事を心強く思っていた事を、ラタは今でもはっきりと覚えていた。
世界樹が持つ浄化システムの管理番として作り出されたラタ。しかしその役割はニーズヘッグらをおびき寄せる生餌という、希望など全くないものだった。
世界樹を恨みに思っても無理は無かったのだろう。
しかしこの時ラタはまだ、自分に課せられた役割を嫌だとは思っていなかった。
世界を守るため必要な役目なのだと思っていた事もある。しかし一番二人に影響を与えていたのは、そんな責任感では無かった。
自分達の護衛として名乗り出てくれる森人族達。彼らは自分達が死ぬことを理解しながらも、二人の護衛をしてくれていた。
彼らのためになるのなら、自分の身を犠牲にしても良いかもしれない。
最奥を目指す道中、自分を守り散っていく彼らの姿を何度も目にして来て。
だからこそ彼は自分の役目をそう悪くないものだと、ずっとそんな風に考えていたのだ。
ラタはそうして長い間、その役目を果たし続けて来た。しかしその思いに綻びが生じ始めたのは、それからどれだけの月日が流れた頃だっただろうか。
「ラタ様、クス様。本日世界樹の浄化を行うという話ですが……止めて頂く事はできませぬか」
浄化する事を決めたある日の事だ。やってきたのは護衛ではなく、一団を引き連れた長老らしき森人族だった。
「え? いや……。なんで?」
「どうしてですます?」
ラタは分からなかった。神獣が内部に飽和すれば、世界樹自体が痛んでしまう。そんな状態を放置すれば世界樹への傷が蓄積し、いずれ枯れてしまうだろう。
そんな事は考えるまでも無い事だ。だと言うのに、目の前の森人族達はラタの返答に難色を示すように、眉間に深いシワを作っていた。
「神獣様はユグドラシル様によって作られた、神の力を授かった生物。つまりそれは、神により作られし我ら森人族と同種の生命と言えます。そんな彼らをまるで物のように打ち捨てる行為は、皆の理解が得られぬのです。彼らの撃退については、どうか我らにご一任頂きたい」
森人族達はそんな事を言って、浄化に難色を示したのだ。
浄化を行わなければ世界樹は枯れてしまう。それが明らかだと言うのに、森人族はその態度を崩さなかった。
その後、森人族は神獣が尊いものだとかそんな事を言っていたが、理解できないラタ達が共感できるはずもなく。
結局話は平行線で終わり、浄化は行われる事となる。
だがこれを皮切りに、森人族は浄化に対してより批判的となり、護衛を出すことも渋るようになっていく。
最後には口を出す以外に何もしようとしなくなり、ラタとクスはたったの一人で世界樹の最奥へと向かうようになったのであった。
ラタとクスには戦う力が全くない。しかし最奥に住まう神獣、ニーズヘッグやフレスヴェルグを引き連れて第三階層へ向かうという役割上、その足は非常に速かった。
だから独りでも三階層から最奥へ辿り着く事ができて。森人族が協力せずとも、浄化システムは正常に稼働し続けていた。
しかし、今から千年以上前。ある理由から世界樹は枯れ、この世界から姿を消す事となる。
その理由とは、彼らの――ラタトクスの、心の摩耗だった。
最奥にたどり着いた後、ラタはニーズヘッグを引き連れて第三階層へと向かう。
しかし足が早いと言っても相手は最強の神獣である。小さいラタでは追いつかれる事も多く、そのたびに重傷を負う事になったのだ。
腕を噛み千切られ、ブレスで尻尾を消し飛ばされ、跳ねたマグマで体を焼き、頭の半分を吹き飛ばされた事もあった。
時には足を失って、四つん這いになり必死で逃げた事もあった。
ラタは簡単には死ぬことができない。そう世界樹に作られたのだ。
体の至る所から霧が噴き出し、いつも激痛に悲鳴を上げた。
この時のため、ラタトクスは楽しさのみ感じられるように作られている。しかしラタも精霊モドキとは言え心がある生き物だ。
後ろから凄まじい早さで迫り来る死に、流石にこの時ばかりは恐怖が勝った。
恐怖や痛みとたった独りで戦いながら、ラタは転がるように目的の場所へ走る。だがそうして第三階層へ辿り着いても、彼が目にするのは希望などではなかった。
同じく体のあちこちを切り刻まれ、笑顔で、しかし泣きそうになりながら走って来るクスの姿。
そして自分はそんなクスを見ながら、何もできないままニーズヘッグに噛み砕かれ命を終えるのだ。
森人族が協力してくれた頃は、そんな自分達の最後にも、彼らを助ける事に繋がるからと納得して浄化に挑んでいた。
しかし彼らが批判的になってからと言うもの、その思いは変わっていく。
なぜ自分とクスだけが、こんなに苦しい思いをしなければならないのだろう。
自分達の命を投げ出していると言うのに、誰も助けれくれず、感謝もされない。
それどころか厳しい視線を向けられ、陰口も言われる始末だ。一体自分達は何のためにこんな思いをしていると言うのか。
自分達は一体何なのだ、と。
そんな思いが足を引っ張り、浄化を一度失敗すると、二度、三度とそれが続いた。
結局浄化が正しく機能しなくなった世界樹は、そのまま枯れ、この世から消え去る結果となった。
世界樹に住むラタとクスも、そのまま世界樹と行く末を共にした。しかし二人はこれに安心すら覚えていた。
もうあんな思いはしなくて良いと。やっとこれで休めると、そう思いながら二人は消えた。
だがそれからどれだけの時が経ったのか、再び二人は生まれる事になる。当然彼らの役目は変わらず世界樹の浄化だった。
しかしラタとクスはもう疲れ切っていた。元々二人は命を捨ててまで世界樹を浄化する理由など持っていなかったのだ。
もうあんな思いはしたくない。それならまた世界樹と共に消えた方がましだ。
そうして彼らは浄化を行わず、静かに時を過ごす事とした。
幸いにして三百年の間、世界樹には誰も立ち入らなく済んだ。このままあと数十年も経てば、世界樹は再び枯れるだろう。
二人はほっとしながらも、拭えぬ不安を抱えつつ時を過ごしていく。その時が訪れる事をただひたすらに願っていた。
だがそんな願いは破られて、見慣れぬ人間達が世界樹にやって来る。
浄化に協力すると言う彼らを前に、二人は逃げられないと悟り、再び最奥を目指す事とした。
この協力者もきっと皆死んでしまうのだ。しかし命を捨てる覚悟を決めた彼らのために、これを最後の浄化としよう。
ラタ達はそう考えながら、彼らと共に最奥へ向かったのだ。
その時二人は思ってもいなかった。
そんな考えは最良とも言える結果によって、裏切られると言う事を。
「行っちゃいましたですね」
「うん」
皆が消えて行った洞を見つめて、二人はぽつりとそう溢す。
先ほどまで騒がしかった光景が嘘のように、周囲は静まり返っていた。
荒野の中、二人はただ立ち尽くしている。そんな彼らの頭の中には今、一体何が浮かんでいるのだろう。
それは誰も分からない。だが唯一、二人にだけは、お互いの考える事が手に取るように分かっていた。
ラタとクスは二人で一人の存在だ。お互いの事は離れていても手に取るように分かる。
これはラタトクスが管理番である故の能力だが、だからこそ、今お互いの胸にどんな感情が宿っているのかも、はっきりと理解ができていた。
「ラタ」
「ん? 何? クス」
呼びかけにラタは顔を向ける。
そこにあったのは、クスの優し気な笑みだった。
「仲間って、言ってましたね」
「……うん」
ラタはずっと思っていた。ニーズヘッグと言う想像を絶する脅威に、彼らは間違いなく恐怖していた。
だのに彼らは逃げることも無く、共にニーズヘッグに立ち向かってくれた。
どうして助けてくれるんだろうと思っていた。
彼らは森人族のように、浄化に協力するために作られた人間ではない。かと言って昔の森人族のように、協力する事を誇りに思っている様子もない。
彼らには世界樹を救うため命を懸ける理由などないはずなのに。
どうして恐怖に押しつぶされそうになりながらも、必死に戦っているのだろう。
そんな思いがぐるぐると回るも、しかし最後に辿り着いた答えはラタもクスも同じものだった。
「仲間なんて言われたの、初めてだ」
ラタは少し前に聞いた声を、再び思い出していた。
「僕の――僕達のために怒ってくれた人なんて、初めてだ」
今まで誰も、自分達に気を向けてなどくれなかった。
浄化をして当たり前だろうと、考えてすらくれなかった。
永遠に続く死と絶望に、すり潰された二人の心。
でも彼らはそんな自分達のために必死に戦い、励まし、そして最後には笑いかけてくれた。
そんな彼らの温かさがラタとクスには熱すぎて。
知らず溢れた涙が、ぽろりと目から零れ落ちた。
「クス。あのさ」
「はい」
「僕。……もうちょっと、頑張ってみようかな」
自分を仲間と言ってくれた人達は、きっと次の浄化には来ないだろう。
来られないだろうと、分かっていた。
きっと彼らもそう思っていたはずだ。けれど彼らは口には出さず、必ず来ると言ってくれた。
その気持ちが嬉しかった。
何千年も生きて来た彼らにとって、今までのどんなものよりも。
「クスもそう思っていたのです。世界樹が枯れてしまったら、皆の生きるこの地も枯れてしまいますですから」
「うん。そうだね。皆のために、もう少しだけ」
二人は揃って口を開く。
「だって僕ら、仲間だからね」
「だって私達は、仲間なのですから」
くすくすと笑みを漏らしながら、彼らは淡く光り出す。そしてぱっと光が弾けると、彼らの姿はもう第三階層のどこにも無かった。
何もなかったかのように静まり返ったその場所で。
しかし確かにいた二人の子供は、消える直前まで嬉しそうに笑っていた。