269.第三階層への帰還
俺達が数日駆けて進んできた道のりを、アンヴァルはあっと言う間に駆け抜けた。
凄まじいスピードで景色が後ろへ流れていく。あまりにも早すぎてぶれて見える程だった。
「む――! おいラタ、見えて来たぞ! 三階層の入り口だ!」
だがそんな世界で前に見えたものに気付き、俺は声を上げた。
後ろからは涎を撒き散らしながら一心不乱に追るニーズヘッグの姿がある。
奴は飛びかかっていくフレイムドレイクやヴルケノバットの群れになど目もくれず、走る勢いそのままに蹴散らして、ただひたすらに俺達を追って来る。
だが目的地はもうそこだ。ぽっかりと口を開けた木の洞が、俺達へとぐんぐんと近づいていた。
「おっちゃん、そのまま突っ込んで!」
「よっしゃ! 突っ込むぞアンヴァル!」
「ヒヒヒヒーンッ!!」
言う事が分かるのか、アンヴァルは大きく嘶いた。アンヴァルはぐんと頭を下げると、一直線に向かって行く。
木の洞が急速に迫ってきて、俺達はそのまま暗闇の中へと突っ込んだ。
俺達は暗い闇の中を高速で突っ切っていく。歩いてなら数分はかかった道のり。だが目の前に小さな光が見えたと思ったら、その時もう俺達は第三階層へと飛び出した後だった。
「すげぇぞ! マジで戻ってきやがったっ!」
見覚えのある光景に、俺はアンヴァルの首をばしばし叩きながら大声を上げる。
叩かれるアンヴァルもどこか得意げに、ブルルと鳴き声を漏らしていた。
俺達の目的はニーズヘッグをこの第三階層へと連れてくる事だ。ならこれで役目はもう終わりだろうか。
そう思うも、後ろから巨大な衝撃音が鳴り響く。振り返れば、俺達を追って来たニーズヘッグが木の洞を吹き飛ばし、この階層へ飛び出してきた所だった。
「グァオ”オ”オ”アアアアーーッ!!」
第三階層にニーズヘッグの咆哮が轟く。アンヴァルの速さは素晴らしく、ここまで奴に何もさせなかった。
だからかニーズヘッグから感じる憤怒は七階層で感じた時よりも、更に激しさを増していた。
「ラタ! これで終わりか!?」
「まだっ! まだだよ! フレスヴェルグがまだ来てないっ!」
焦りから背中のラタへ大声を投げる。しかし返ってきたのは望む答えとは違っていた。
この階層でニーズヘッグとフレスヴェルグを戦わせることが、世界樹の浄化に繋がると言う。言われてみれば確かに、この周囲には俺達とニーズヘッグ以外の姿が何も無かった。
アンヴァルに乗れた事で、向こうの様子に耳を傾ける余裕はできていた。だからスティア達がこちらに向かっている事は知っていた。
しかしあちらから聞こえてくるのは、叫び声や攻撃を受けているらしい何かが破壊されるような音。そしてフレスヴェルグと思われる甲高い鳴き声ばかりであり、状況が推察できるような情報は何一つ無かった。
「おいおい、このままこの階層でも奴と追いかけっこしろってか!? 冗談じゃねぇぞ!」
つい文句が口からついて出る。だが向こうの状況が相当切羽詰まっているだろう事は俺も察していた。
ニーズヘッグの強さは想像を絶していた。だがそのニーズヘッグと互角の相手が彼女達と戦っているフレスヴェルグなのだ。
これは連絡を取り合うなど無理か。そう思うも、
「ううん! 大丈夫だよ!」
とラタが大きな声を上げた。
「ああ!?」
「もうすぐこっちに来る! ほら見て、上から――!」
彼は右上の方向を指し示す。何かとその先を追えば、上空から何かが凄まじいスピードで飛んでくるのが遠くに見えた。
《いやっはぁぁぁあーっ! 戻ってきたーっ!》
《貴方様ーっ! ご無事ですかぁぁぁっ!》
「ホシ! スティア!」
それは、黄金に輝く巨大な鳥だった。
そいつはぐんぐんと姿を大きくし、こちらへ真っすぐ向かって来る。その背に乗っているはずの彼女達の声が俺の耳にはっきりと聞こえた。
楽しそうに叫ぶホシと、必死に呼びかけるスティア。どうやら向こうも無事な様子で、それには一先ず安堵した。
だがその後ろに見えたもう一つの巨大な影が見えた時、そんな気持ちは瞬く間に吹き飛んでしまった。
「キュオォォォォオーッ!!」
甲高い咆哮が俺の耳朶を叩く。空気をビリビリと震わせるその鳴き声は、ニーズヘッグの咆哮と同じようなプレッシャーを感じさせた。
「あれが、フレスヴェルグか――っ!」
遠すぎて大きさが今一分からない――なんて思っている間に、スティア達を追って、奴はどんどんこちらに近づいてくる。
その姿は焦げ茶の大鷲であり、ニーズヘッグと比較するとそれほど特別なものには見えない。しかし――
《――っ! 攻撃が来ますわ! 避けて下さいましっ!!》
スティアから警戒の声が飛ぶと同時に、奴から白い稲妻がほとばしった。
まるで柱のような巨大な雷霆は、雷鳴と共に襲い掛かる。だが向こうのでかい鳥――ヴィゾフニルとか言ったか――は旋回し、上手く稲妻を避けて見せた。
しかし彼らは俺達へと真っすぐに向かっていたのだ。当然その雷霆はその先にいる俺達の方へ降って来るわけで――
「うおおおおおーっ!?」
ガーンと激しい衝撃音が鳴り響く。あまりの轟音に耳の奥がズキリと痛む。
辛うじてアンヴァルが避けたものの、俺達の真後ろに落ちた稲妻は、激しく土砂を噴き上げた。
あれは”雷帝の鉄槌”か! 俺はスティアや部下のククウルが使っている所しか見たことが無いが、あんな規模の稲妻は初めて見た!
どうやら二―ズヘッグとは違い、向こうは魔法を使って来るらしいな。クソ、驚かせやがるじゃねぇかよ!
俺は後ろがどうなったのかチラリと見る。すると、ぶすぶすと立ち上がる黒煙を迂回して、ニーズヘッグが左後方から走って来るのが見えた。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
ニーズヘッグは牙を剥きだし俺達をひたすら追撃して来る。先程の雷撃など気に止めた様子もなく、フレスヴェルグの事も見向きもしていなかった。
これに俺は首を捻る。ここに連れてくればニーズヘッグとフレスヴェルグが勝手に争うと思っていたのに、そんな様子が全く見られないのだ。
少なくともニーズヘッグは、確実に俺達だけを敵視している。目の前に魔法をぶっ放されたと言うのに、その相手は完全に無視だった。
一体どうした事だと思っていると、しかしそこにまたスティアの警戒が飛んだ。
《また来ますわ! 注意して下さいましーっ!》
見上げると、空を埋め尽くす程の風の刃が襲い掛かってきた。
ああもう、気を休める暇もねぇじゃねぇか!
「風の精霊シルフよ、我が呼び声に応じ、暴威なる者から我が身を護り賜えっ! ”風の障壁”!!」
俺は”風の障壁”を即座に展開する。あれ程の量だと避けるのは不可能に思えるが、しかし”疾風の刃”の魔法なら、これで問題なく防げるはずだ。
俺は一瞬気を緩めるが、
《貴方様、避けて下さいまし! ”風の障壁”ではっ!》
「――っ! アンヴァル避けてくれ!」
そんな声が耳に飛び込んできて、考えるよりも早くアンヴァルへ声を掛けていた。
「ヒヒヒヒーン!!」
アンヴァルは左右にステップを踏みながら風の刃を辛うじてかわす。すれすれを飛んだ風の刃が、俺のローブをあちこち切り裂いた。
奴の魔法は信じられない事に、俺の”風の障壁”を易々と切り裂き襲い掛かって来る。まるで戦斧の大雨だ。
次々降り注ぐ攻撃は、激しく土砂を撒き散らす。だがアンヴァルはそれを駆け抜けて、魔法の攻撃範囲から飛び出した。
「チィ――! 何なんだこの威力はっ! ”風の障壁”をブッ壊す”疾風の刃”なんて見た事も聞いた事もねぇぞっ!」
《フレスヴェルグの魔法は人の域を超えております! 防がず避けて下さいまし!》
俺は激しく舌打ちするが、そう言えばニーズヘッグの攻撃もまともに防ぐ事なんてできていなかったか。
情報の共有が大事な事はたった今理解したばかりだ。俺は怒鳴るようにスティア達へ声を飛ばした。
「ニーズヘッグの攻撃もだ! 魔法も精技も全く歯が立たなかった! 絶対に受けようとするんじゃねぇぞ!」
《承知しましたわ!》
言いつつ俺は振り返る。後ろではニーズヘッグが尻尾をしならせ、風の刃を叩き落としていた。
奴は防ぎつつも走るのを止めていない。しかし、明らかにその速度は落ちていた。
(……? どういう事だ?)
俺はそれを見て違和感を覚えた。今までニーズヘッグは他の怪物からの攻撃をまともに防いだことは無かったはず。
辛うじてあるのはスルトの一撃を首で弾いた事くらいか。しかしスルトの攻撃を何度も食らったにもかかわらず、ニーズヘッグは全く負傷を負っていなかった。
他の怪物からの攻撃もだ。繰り出されるままに受け、目障りなら叩き潰す。そんな行動を取ってきた奴だったのに、今奴は明らかに防御行動を取っていたのだ。
そう言えば、奴は先ほどの”雷帝の鉄槌”もわざわざ迂回していた。流石に同格の相手からの攻撃は、奴も食らえば無傷で済まないという事だろうか。
これは早い所この二体を争わせ、さっさとトンズラしたいところだが。
《おいヴィゾフニル! 一旦あの馬を追うのを止めろ! 向こうが巻き添え食ってるだろうが!》
《承知しました!》
その時、マリアが発したいら立たしそうな声が耳に届いた。するとすぐにヴィゾフニルは旋回し、俺達から離れて行く。
フレスヴェルグもそれを追い、俺達から遠ざかって行く。これに俺は息を吐く。
これでひとまず二体の攻撃を受け続ける状況は改善された。これは良かった。
だが、目的の達成という観点から考えれば、これはむしろ悪化したと言っても良かった。本来近づけるべき二体を遠ざける事になってしまったのだから。
「くそっ、こいつら全然戦わねぇじゃねぇかっ! どうやったらニーズヘッグとフレスヴェルグは戦うんだよっ!」
この二体が戦わない事には俺達の追いかけっこは終わらないのだ。思わず張り上げた声に、皆の声も返って来る。
《フレスヴェルグもずっと追いかけて来てるよ! もうアタシ達で戦っちゃう?》
《あ、あんな奴を相手に戦えるはずが無いだろうっ!?》
ホシの非現実的な提案を、ティナが悲鳴のような声を上げて否定する。そりゃそうだ。倒せる相手ならこんなに焦る必要もねぇんだよ。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
「キュオォォォォオーッ!!」
強大な二体の神獣が揃って咆哮を上げる。しかし上げられる相手は俺達の望む形になっていない。
どうしたら二体は戦うんだ。そんな事を考えていると、何かぞわりとしたものを感じ、俺は後ろを振り返る。
二―ズヘッグが足を止め、翼を大きく広げていた。
「――ヤバイっ! ブレスだ!」
今まで俺達を追いかける事だけに注力していたニーズヘッグが、ここに来て最大攻撃の構えを取る。
俺が声を上げるが早いか、奴はその口をガバリと開いた。
「グァオ”オ”オ”アアアアーーッ!!」
「ヒ、ヒヒーンッ!」
耳をつんざく咆哮と共に、口から激しい閃光が噴き出す。アンヴァルはたっと飛び上がりそれをギリギリでかわすが、アンヴァルの胸にぶわりと焦りが浮かんだのを俺ははっきり感じ取っていた。
ニーズヘッグは第七階層を出てからどんどんと強さを増しているようだ。今のブレスも最初見た時より範囲がかなり広がっていた。
このままただ腕を拱いているのは不味い。再び俺達を追いかけ始めた奴を見て、俺はどうしたものかと眉間にしわを寄せた。
「あはは。やっぱり……駄目なんだよ、これじゃあ」
すると、俺の背中から小さな声が上がった。
ラタだった。
「ここで僕らがあいつらの餌になって初めて、浄化が進むんだ。僕らがあいつらに殺されなきゃ、浄化は始まらないんだ……っ!」
俺の背中に抱き着く腕に力がこもる。声はどこか楽し気だったが、しかし微かに震えているのが俺には分かった。
《ラタ。やっぱりクス達が》
「うん。やらなきゃね」
向こうからはクスの声も聞こえてくる。その会話はごくごく短いものだったが、しかしだからこそ、彼らの決意のようなものがはっきりと伝わってきた。
二人が何を決意したのか。そんなものは考えずとも分かっていた。
《待てっ! まだそうと決まったわけじゃない! 早まるなクス、ラタ!》
反射的に声を上げたのはティナだ。彼女の気持ちは分かる。いや、それは皆も同じだったはずだ。
だからこそ、こんな凶悪な怪物を相手にここまで引き返してきたわけだしな。言うまでも無い事だった。
《でも、他に方法が――》
「いや、俺もそう思うぜ。決めつけるのはまだ早ぇ」
落胆したような声を出すクスに、俺は言葉をかぶせる。
「他に方法があるかないか。試してみようじゃあねぇか。こっちにゃ心強い協力者がいるんだ。なぁ?」
俺が首を叩くと、アンヴァルはブルルと鼻を鳴らす。なんで協力してくれるのか正直分からないが、感情からは嬉しそうなものが感じられる。
嫌々やっているわけじゃないのだから、いきなり振り落とされる、なんて事を心配する必要も無いだろう。
《試すっつっても当てはあんのか? エイク》
そんな事をしていると、向こうからマリアが口を挟んでくる。
「ああ。ちと気になった事がいくつかあってな」
《ほう。なんだよそりゃ》
「それなんだがな。ラタ、クス」
ニーズヘッグは俺達を必死になって追いかけてくる。だがこれは果たして”俺達”を追いかけているんだろうか。
「お前、言ってたよな? あいつの狙いが俺達じゃなく、お前達ラタトクスなんだって」
後ろでラタがびくりと震えたのが分かった。
俺は前に顔を向けたまま話を続ける。
「ラタとクスだけがあいつらの狙いだってんなら、試してみたい事がある。ぱっと思いついたもんだがな。お前達二人にはちと厳しい作戦になるが……どうだ。やってみる気はねぇか」
下手を打てば、ラタとクスの身に危険が及ぶ事になる。だが今俺は、この方法以外にどうにかなりそうな手が考えられなかった。
《……何をするつもりなのです?》
小さな声で返事をするクス。警戒か、それとも絶望か。
遠く離れた彼女の感情を、俺の≪感覚共有≫は拾えない。
「大丈夫だ。ここまで来てよ、お前らを死なせる気なんざさらさらねぇ」
だから俺は大丈夫だと、まずクスに口にする。
「おっちゃん。何をするつもりなの?」
次に口を開いたのはラタ。意外にも彼の胸の内には、今までのように諦めのような感情は無かった。
「ああ。策も糞もねぇんだけどよ。あいつらお互いを全く見向きもしねぇで追いかけて来やがるだろ? だから無理やりにでも付き合わせてやろうと思ってな」
「無理やり付き合わせる?」
敵の攻撃を意に介してもいなかったニーズヘッグ。だが流石にフレスヴェルグの攻撃をまともに受けりゃ、無視なんざできねぇだろう。
それはフレスヴェルグにとっても同じ事。ならお互いの攻撃を受けさせりゃ、標的が変わるんじゃあないのか。
「そうだ。そのためにだな――」
少し口にしたくない作戦だが、しかし俺に考えつくのはこれくらいしかない。
俺はラタにチラリと振り向き、そう口を開いたのだ。
「悪いがお前ら、囮になってみちゃくれねぇか?」