266.第三階層へひた走れ
第七階層を駆け抜けて、第六階層も遮二無二走る。
そんな俺達の後ろには邪竜ニーズヘッグが迫っていた。
ここは以前飛び石の足場でかなり走りにくい階層だった。しかし今はマグマが少し引いていて、足場が広くなっていた。
なぜかは不明だが、とは言え走りやすければもう理由なんて何でも良かった。
もはや隊列なんて気にしていられず、地を揺らし走る奴に追いつかれまいと、皆がただ走る事にのみ己の全てを注いでいる。
行き道はあんなにも注意して進んだマグマの海だが、今の俺達には周囲を警戒している余裕など微塵も無い。奴は俺達に比べてあまりにも早かったのだ。
追いかけっこなんて可愛いもんじゃない。全力で走ろうと俺達は何度も追いつかれ、執拗に奴の攻撃を受け続けていた。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
「うおぉぉぉーっ!?」
今もまたニーズヘッグは、俺達へ仕掛けようと前腕を振り上げていた。狙いは一番後ろを走っていたオーリ。
涎を撒き散らしながら目の前に迫ったニーズヘッグの姿に、振り返ったオーリは恐怖の叫びを上げた。
ニーズヘッグの巨大な腕がオーリ目がけて振り下ろされる。しかし間一髪そこにバドが滑り込み、オーラをまとう壁盾で真正面から受け止めた。
しっかりと精技を使っていたバド。だのに彼はあまりにもあっけなく吹き飛ばされてしまう。
あの超重量のバドがあんな速さでブッ飛ばされるなんて、今まで俺は一度だって見たことがなかった。
マグマの上をカッ飛んでいくバドに、俺は急ぎ足元へ魔力を送る。
速度を増したシャドウはバドへぐんと伸びて行き、そのまま彼を影の中へ引っ張り込んだ。
ニーズヘッグの一撃は、俺達には到底受けられたものじゃなかった。あんなもんをまともに受けたら一瞬で潰れたトマトになっちまう。
俺達にできる事は精技と体捌きを使い、威力を殺して吹き飛ぶことだけ。それだけだった。
だがそれでいい。奴が攻撃に足を止めれば、それだけ奴との距離が開く。吹き飛んだ仲間はシャドウが回収してくれる。
そうして俺達はここまで、何とか奴を引っ張ってきた。今も一瞬の攻防で、俺達の間には二百メートルほどの距離ができていた。
それはニーズヘッグにとってはたった十数秒程度の距離である。しかしこれが俺達が生き延びるための、生存戦術となっていた。
『グオォォォォオオーッ!!』
必死に走る俺達の前方に大きな複数の影が見える。
それはレッドドラゴンの群れだった。
「ヴオ”ォォォォオオーーッ!」
さらにはラーヴァドラゴンも横合いから姿を見せる。
行き道であれば絶対に避けたであろう怪物達との邂逅。しかし俺達はそんなものには目もくれず、ただひたすらに前へと走った。
目をくれている余裕が無いというのは実際そうだ。
「皆気にしないで走るんだ! あいつらの狙いは僕達じゃない!」
「分かってる!」
だが、その必要がそもそも無いという事が、俺達が警戒せず走れる大きな理由となっていた。
『グオォォォォオオーッ!!』
「ヴオ”ォォォォオオーーッ!」
現れたレッドドラゴンの群れは俺達になど目もくれず、上空を通り過ぎニーズヘッグへ飛びかかっていく。ラーヴァドラゴン達も俺達を無視し、ニーズヘッグへ躍りかかって行った。
すでに浄化システムは発動した。この世界樹内の怪物全てが今、ニーズヘッグのみを敵と認識しているのだ。
敵の敵は味方とでも言ったらいいのか。俺達を存分に苦しめてくれた怪物達も、今は心強い足止め役となっていた。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
ニーズヘッグは前腕を一閃し、レッドドラゴンを薙ぎ払う。その鋭利な爪はまるで布のようにドラゴンの体を引き裂き、次々に黒い霧に変えていく。
奴にとってはあのドラゴンもただの羽虫同然か。しかしそれでも確実に、怪物達の猛攻は奴の行き足を鈍らせていた。
レッドドラゴンの絶叫、ラーヴァドラゴンの咆哮、そしてニーズヘッグの猛り狂った叫びが洞窟内に轟き、肌に刺すような痛みすら覚えさせる。
だが俺達はそんな戦いには目もくれず、ただ前へ前へと必死で走った。
「くっ……! 全身の毛が逆立ってやがる! くそッ!」
こんな状況だというのにガザがそんな事を言う。流石に戦いたいとは言わないようだが、しかしその口調には悔しさがありありと滲んでいた。
「ガザ様、そんな事言ってる状況じゃないでしょう!」
「俺なんて尻尾の先まで膨らんじまってらぁッ! もう笑うしかねぇッ!」
オーリとデュポもまるで叫ぶように口にする。
魔族ではないが、俺も先ほどからずっと全身が総毛立っているような気分で、その気持ちが嫌すぎる程分かる。思わず盛大な舌打ちが出てしまった。
「もっとドラゴン共がわんさと出てくれりゃ楽なんだがな!!」
「フ、同感だ! だが怪物が襲って来る事を心待ちにするとは、どうにも妙な気分になる!」
俺の悪態にアレスが笑う。恐怖もここまでくると笑いしか出ない。
「後ろ……! しばらくもってくれればっ、良いんですけど、ね……!」
隣を走るステフが息を切らしつつそうと返すが、しかしその返答は悲しいかな、人の言葉では返ってこなかった。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
これがその願いへの答えだと言うように、ニーズヘッグの咆哮が俺達の耳朶を激しく叩いたのだ。
「また来るよ、皆っ!」
ラタの緊迫した声に足を止め、俺達は一斉に振り返る。そこには四枚の翼を大きく広げ、俺達を真っすぐに睨みつけるニーズヘッグの姿があった。
「バド、ガザ、ステフ! 頼む!」
「任せろ!」
「はい!」
例のブレスが来る。
即座に盾を構えたバドのもとへ、ガザも地面を蹴り飛ばし駆ける。
そしてステフもにゅうと伸びたシャドウの手から、羊皮紙をばっと受け取った。
「”青き甲の守護者”ッ!」
すぐさまステフが口にする。バドの”大精霊の守護結界”も同時に展開し、俺達の周囲を水と精技、二つの膜が覆い尽くした。
「グァオ”オ”オ”アアアアーーッ!!」
刹那。ニーズヘッグの顎が開き、激しい閃光が俺達を飲み込んだ。
「ガァアアアアーッ!!」
白い世界でガザも咆える。目を焼くような光が視界を一瞬で奪い尽くした。
その閃光は俺達を突き抜けて後方へと飛び、洞窟を形作る岩盤に突き刺さり派手な爆音を轟かせる。
爆散し、崩落していく岩盤。その音に俺は、
「バド、無事か!?」
と先ほど倒れた仲間を呼んだ。
このブレスを食らうのは六回目だ。最初以降は無傷で防げているものの、最初の光景が鮮烈すぎて食らう度に不安がむくりと胸に浮かぶ。
しかしバドはくるりと振り返り、しっかりと頷く。これに俺はほっと息を吐いた。
精技と魔法の合わせ技はブレスを確実に防いでいる。もしあのブレスを防ぐことが不可能であれば、もっと絶望的な状況だったはずだ。
いや、もしかしたら既に、魔窟の土になっていた可能性もあった。
だからこそ奴のブレスを防ぐ手段がある事は、肉体的にだけでなく、精神的にも非常に大きい意味を持っていた。
俺達がこうして比較的理性的でいられる事にも繋がっているはずだ。
だからこの成果は良い事づくめで、俺達に大きな余裕をもたらしている。
と言えれば良かったが、そこに問題が何もないわけでは無かった。
精技は上級、魔法は中級。どちらも消費が重く、普通ならそう気軽に何度も使える手ではないのだ。
事実、振り向いたバドの横顔には滝のような汗が流れていた。
そればかりか、口元にはうっすらと血の赤も滲んでいる。きっと歯を噛み砕いてしまったのだ。
上級精技はこう短期間に連続して使用するものじゃない。というか本来、一日に二度も三度も使うような技ではなかった。
一度使うだけでも相当の生命力を消費する必殺の奥技。それをバドとアレスは交互に放っているのだ。
これは彼らの実力が並大抵ではないからこそできるごり押しでしかなかった。
疲労や魔力の消費は生命の秘薬や魔力の霊薬で回復できる。しかしそれが尽きれば後は消し炭になるだけだ。
俺達が今できるのは、道具と精根が尽き果てるまで奴から身を守り、第三階層を目指す事、それのみ。
俺は迷わずシャドウへ手を入れ、五等級の生命の秘薬をバドへ放り投げた。
「すぐ使えバド! そんなもん後でいくらでも買えるからな!」
バドは乱暴に封を切り、グビリと一口で飲み干す。そんな俺達の姿に、ニーズヘッグはいら立たしそうに足を踏み鳴らした。
「グルルル……!!」
ギラギラと狂気に満ちた赤い瞳。奴は何度も襲い来るラーヴァドラゴン達を余さず尻尾で弾き飛ばすと、再び大きくその四枚羽を広げる。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
「な、まさか二連続か!? まずい頼むアレスッ!」
バドの回復のためまごついたからだろうか。再びブレスの体勢に入った奴に、俺はアレスの名を呼んだ。
「分かった――!」
アレスも斧槍を構えオーラを放ち始める。
「ステフは”暴圧の息吹”だっ! 水の精霊ウンディーネよ!!」
「分かりましたっ!」
次いで俺もアレスに続く。
ステフも何の疑問も挟まず、すぐに精技の準備に入った。
「”青き甲の守護者”ッ!」
「”大精霊の守護結界”ッ!!」
「グァオ”オ”オ”アアアアーーッ!!」
俺とアレスの声が轟き、そして再び閃光が俺達を襲う。
「ウオォォォォーッ!!」
ステフの叫びがすぐ隣から聞こえる。この三枚の防御が展開できれば、今回も無傷で切り抜けられるはずだ。
再びどこかの岩盤が爆散し崩落する音がする。それを合図に素早く確認するが、やはり俺達の中で倒れている者はいなかった。クソ、冷や冷やさせやがって!
「またブレスを吐かれてもまずい。すぐに行こう!」
ガザが焦ったように俺達を促す。ニーズヘッグはまた無傷の俺達に激高し、地面を揺らしてこちらに迫って来ていた。
ガザの言う事に否やもなく、俺達は大急ぎで地面を蹴る。だがただ一人、アレスの様子だけがどこかおかしい事に、俺はすぐに気づいてしまった。
「はっ、はっ……。ぐ、ぐぅ……っ」
「アレス!?」
アレスは走り出したものの、よろよろと速度を落とし、片膝を突いてしまう。
全く予想していなかった事態に、俺は思わず駆け寄る。しかしこれが過ちだと理解したのは遅きに失した。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
暗くなった視界に顔を上げると、そこには巨竜が仁王立つ。ニーズヘッグの前腕はすでに、俺達に向かって振り上げられていた。
「くっ――う、おおおおおーッ!」
アレスは俺を右腕で突き飛ばし、斧槍を杖代わりに立ち上がる。
彼の体からはオーラが既に立ち上っている。
いつもなら頼もしい程に輝いているその光。
だがどうしてか俺の目には今、その輝きが弱々しく映ってしまった。
「大将! アレス殿!」
「うわあああっ!」
皆の悲鳴のような声が聞こえた。
俺は反射的に懐に手を突っ込む。だが、それで俺に一体何ができただろう。
目の前の相手が腕を振り下ろす様が、俺には妙に遅く見えていた。
ゆっくりと巨大な爪がアレスに迫る。彼も精技で防ごうとしているが、しかし膝は折れ、完全に立ち上がれていなかった。
「アレスーッ!!」
彼に迫る未来が分かるようで、思わず叫ぶ。
しかしそんな事で奴の狂爪は止まらなかった。
奴の鋭い四本爪が、易々とアレスの体を引き裂く。
そんな光景を俺は目に映していて。
だがその光景は突如吹き荒れた突風によって、俺の視界から消え失せた。
――何が起こったのか、俺には何も分からなかった。
思いもしなかった突風に思考が止まっていた。
だがその風が止まった時、アレスは何事も無かったようにそこに立っていた。
しかも迫っていたニーズヘッグの姿も消えている。
先程見た光景は空目だったのか……?
そんな事を一瞬思うも、何か大きなものがすぐ後ろに立つ気配を感じ、俺は弾かれた様に振り返る。
そこで初めて分かったのだ。
その突風の正体が何者だったのかを。
白い毛並みに銀の鬣を持つそれ。
風の精霊馬アンヴァル。
世界樹に入る前敵対したはずのそいつが、そこに静かに立っていた。