264.最恐の怪物
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
「うおおおおおおーーッ!」
邪竜ニーズヘッグと炎の巨人スルト。二つの巨体から発せられた咆哮は、開放感のある第七階層をビリビリと震わせる。
「食らいやがれクソ蛇野郎ーっ!」
スルトは炎の大剣を両手で握り、ニーズヘッグへ振り下ろす。その一撃はニーズヘッグの眉間を激しく打ち据えたばかりか、そのまま奴の頭部を地面に激しく叩きつけた。
足場の溶岩がバキバキと砕け飛ぶ。だがそれだけで終わらず、スルトの剣は激しい炎を噴き上げた。
「ギャオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
ニーズヘッグの頭部はたちまち獄炎に包まれる。漆黒のドラゴンはたまらず悲鳴を上げた。
「おおっ! スルトの野郎、やるじゃねぇか!」
逃げながら後ろの様子を見ていた俺は、ヒュゥと口笛を吹きつつ足を緩ませる。
「な、何という戦いだ――素晴らしい」
「何泣いてんだオーリ、こんな時に……」
その声を聞いた仲間達も、やはり気になるのか俺同様に速度を落とし始めた。
「おっさん……」
ラタも不安そうな声を漏らしながら後ろを振り返る。ラタに目をやった俺は、その背に負われた魔剣を見て、彼に預けたままだった事を思い出した。
「あの様子なら、もしかしたら勝っちまうんじゃねぇか?」
俺は彼に声を掛けながら、背中の魔剣を外しにかかる。ラタはその間スルトをじっと見つめ、俺の言葉には反応を返さなかった。
「うおりゃああああっ!」
「グオ”オ”オ”オオオッ!!」
スルトはニーズヘッグの首を脇に固めながら、更に赤々と燃え始める。彼の体から噴き上げる炎は火力をどんどんと増し、スルトの倍以上の高さまで伸びていた。
その火炎はニーズヘッグの全身にも燃え移り、奴を全身火だるまにする。
「今だっ! 野郎共、かかれぇーっ!」
「ヴオ”ォォォォオオーーッ!」
だが驚きはそれだけでは終わらなかった。スルトの呼びかけにマグマの中から現れたのは、十匹以上のラーヴァドラゴンだった。
ラーヴァドラゴンはニーズヘッグを抑えるスルトごと、押しつぶすようにそのまま飛びかかって行く。
更にマグマも大波のように持ち上がり、その場一帯に降り注ぐ。スルトとニーズヘッグはあっという間にマグマとラーヴァドラゴンに飲まれてしまった。
何なんだこの光景はよ。まるで世界の終わりじゃねぇか。
見上げる程の巨大生物達が全力でぶつかり合う戦いに、俺達はもう走る事も忘れて見入っていた。
ここに来る前に、俺達はラタから、あのスルトが第七階層にいる意味を聞いていた。なんとアイツはニーズヘッグを相手取るため、この場を守り続けているのだそうだ。
とは言えスルトは所詮足止めであり、ニーズヘッグを倒せた事など今まで一度もないらしい。スルト自身はその事を悔しく思っており、毎回ああしてニーズヘッグを全力で迎え撃っているとの事だった。
だが、と俺は目の前の光景を見て思う。
ニーズヘッグを完全に抑え込んでいるスルトとラーヴァドラゴン。多数に無勢と言う事もあり、戦局は完全にスルトに軍配が上がっていた。
「グ、グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
全身を炎とマグマに飲まれた上、ラーヴァドラゴンに押しつぶされ、腕や足に噛みつかれ、動きを完全に封じられたニーズヘッグ。
身動き取れない状況に、奴は天に向かって咆哮を上げていた。
「がっはっはっは! この勝負、俺の勝ちだな! どうだ! 抜けられるもんなら抜けてみろやニーズヘッグッ!!」
対するスルトも大きく咆える。炎の大剣を大きく振り上げ、力任せにニーズヘッグへ叩きつける。
その衝撃は階層全体に広がり、遠く離れた俺達の臓腑すら震わせる。
何て攻撃だよ。こんなもん人間が何かできる範疇を完全に超えてんだろ。
さしものアレスやガザも言葉が無いようだ。俺達は皆固唾を飲みながら、その様子に見入っていた。
「……駄目だよ。やっぱり」
「え?」
そんな時、ラタがぽつりと呟いた声が、なぜだか俺にはよく聞こえてしまった。
「うおりゃあああっ!」
スルトが再び大剣を振り上げる。両手で握られた剣は激しい炎を噴き上げ、まるで竜巻のように渦を巻く。
「食らいっ、やがれぇぇぇぇえっ!!」
スルトの今までで一番の攻撃。その振り下ろしはニーズヘッグの眉間へと吸い込まれていった。
大剣はニーズヘッグの頭部を叩き潰す勢いで打ち据え、逆巻く炎は猛り狂い、奴の顔面を激しく焼いた。
あれほど恐ろしいと思っていたニーズヘッグ。だが目の前で繰り広げられる一方的な戦いに、俺はそんな感情をすっかり失ってしまっていた。
だが、俺は忘れていたのだ。
このニーズヘッグという生物が、どんな目的で世界樹に飼われていたのかと言う事を。
それは気のせいだったのだろうか。
猛る炎に飲まれる奴の瞳が一瞬だけ。
その炎よりも赤く輝いたように、俺には見えた。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
ニーズヘッグが咆えた瞬間、一匹のラーヴァドラゴンの体がはじけ飛んだ。
突然の出来事に理解が及ばない。だがその一匹が宙を舞い、マグマへ落ちて行った次の瞬間。
その左右にいたラーヴァドラゴンも上半身が粉々に消し飛んだのが目に映った。
『ヴオ”ォォォォオオーーッ!』
マグマから増援のラーヴァドラゴン達が次々と現れ、ニーズヘッグへ躍りかかる。だがこれを、ニーズヘッグは長い尻尾で軽々と弾き飛ばす。
マグマへ叩き落とされ、または溶岩に叩きつけられるラーヴァドラゴン達。更にもう一匹襲い掛かって行くも、ニーズヘッグの牙がその喉笛に噛みついて、軽々と首を噛み切ってしまった。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
「がっはっはっは! そうじゃなくちゃ面白くねぇ!」
瞬く間に十に近いラーヴァドラゴンを蹴散らした相手。だがスルトは、そんな敵の前でも楽しそうに笑う。
「もう一丁、食らいやがれやぁーッ!!」
そして再び炎を噴く大剣を振り上げ。
その眉間目がけて振り下ろしたのだ。
だが次の瞬間吹き飛んだのは、スルトの巨大な右腕だった。
ニーズヘッグの前腕が、スルトの大剣を打ち払ったのだ。
だがたったその一撃で、スルトの腕は付け根からはじけ飛んだ。
状況に付いて行けず思考が止まる。だが目の前の戦いはどんどんと激しさを増していく。
「まだ、まだだぁぁっ!!」
スルトが咆え、残る左で再び剣を振り降ろす。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
だがニーズヘッグは長い首でこれを軽々と弾くと、スルトの胴体に大口を開けて噛み付いた。
「う、うおぉぉぉぉぉーっ!?」
並大抵の攻撃では傷一つ付かなそうなスルトの体。だがまるで粘土のように、ニーズヘッグの牙はそれを噛み砕く。
右脇腹を失い、ぐらりとよろめいたスルト。だがそこにニーズヘッグの尻尾が襲い掛かり――
「あ……」
スルトの上半身がバキバキと音を立て、下半身から崩れ落ちた。
ずん、と音を立て足場に転がったスルト。上半身が落ちた後、少し遅れて、立っていた下半身も前に倒れた。
まるで理解が追い付かない。だが、これだけは分かった。
ニーズヘッグの双眸が、俺達に向けられている事を。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
第七階層を突き抜けて、咆哮が俺達に叩きつけられる。
逃げなければやられる。そうと分かっていると言うのに、俺の足はなぜか動いてくれなかった。
無様に棒立ちになる俺達へ、ニーズヘッグが走り出す。もうあいつの目には、次の相手しか映っていなかったんだろう。
だがこれが功を奏した。いや、奏してしまったのだ。
「ま、待てやこらぁーっ!」
駆け出したニーズヘッグの後ろ足を掴んだのは、やられたと思っていたスルトだった。
彼は上半身だけの状態でニーズヘッグに掴みかかり、その進行を止めたのだ。
「まだ勝負は終わってねぇぞ! もう一番勝負しろニーズヘッグ!」
スルトはそんなことを喚きながら、ニーズヘッグの後ろ脚にしがみつく。ラーヴァドラゴン達も援護するように、再びマグマの中から飛び出した。
だがニーズヘッグは気にした様子もない。長い尻尾を激しく振って、ラーヴァドラゴン達を打ち据える。
そして首をしならせ後ろを向いて、そこにいるスルトを睨みつけた。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
「ぐっ! がっ! ぐおぉぉっ!」
ばしんばしんとスルトに尻尾を叩きつける。鞭なんて可愛い物じゃない。まるで戦斧でも叩き下ろすような音が休みなく周囲に鳴り響く。
スルトも必死にしがみつくが、何もできず苦悶の声を漏らすだけだ。彼の闘争心には感心するが、しかしその姿はあまりにも痛々しく俺の目に映った。
「ラ、ラタ坊! 聞こえるかぁっ!」
不意に、スルトがそんな事を叫んだ。
「さっさと逃げろ! こんなところでボサっと突っ立ってるんじゃねぇ! 俺がこいつを止めてる間に――うおっ!?」
そんな彼の体にニーズヘッグの尻尾がぐるぐると巻き付く。必死にしがみつくスルトだったが、引きはがそうとするニーズヘッグに抗いきれず、ついにその手を放してしまった。
「ぐおおおおおっ!!」
ニーズヘッグは尻尾をぶんぶんと振り回し、スルトを何度も地面に叩きつける。
ぶつかる度に激しい音が鳴り響き、そこにスルトの苦悶の声も小さく混じった。
「ぐっ……! きょ、兄弟っ!」
そんな絶体絶命の状態だと言うのに、スルトはなぜか俺を呼んだ。
「頼んだぞ、兄弟ッ! ラタ坊を――」
ぶんとスルトを上に投げ飛ばし、ニーズヘッグは大口を開ける。
背中の四枚羽がバッと大きく開く。
奴の怒りで瞬間、俺の目の前が真っ赤に染まった。
「守っ――」
突然放たれた激しい閃光に、俺達は思わず目を閉じた。
何か岩盤のような物が爆散した音が前方から聞こえてくる。
俺が目を開けた時にはもう、スルトの姿は欠片すら残っていなかった。
何か粉のような細かい物が、ニーズヘッグの上空からパラパラと降っているように見える。
まさか。まさか、あれが。
信じられないものを目にして、俺はその光景に釘付けになってしまう。頭も停止し上手く動いてくれない。
完全に固まってしまった頭と体。そんな俺達へ目の前の怪物ニーグヘッグは、憎悪のこもった深紅の双眸を真っすぐに向けていた。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
自分を縛る現実と恐怖。振り切る事はできなかった。
周りの皆もまるで案山子のように、身じろぎ一つできずそこにいた。
ニーズヘッグが走り始めるも、それを黙って見ているだけ。
ラタが何か叫んでいるが、俺の頭には全く入ってこなかった。
だが。
――頼んだぞ、兄弟ッ!
そんな俺の頭の中に、割り込んできた者がいた。
「……おい、逃げるぞお前ら」
――ラタ坊を、守ってくれッ!
俺を動かしたのは、スルトが俺へ託した、最後の悲痛な叫びだった。
「た、大将」
「ぼけっとしてんじゃねぇ! 早くしろーッ!!」
硬直していた面々に、俺は悲鳴のような声を上げる。
これにはっと金縛りから解けた仲間達。動きに精彩はないものの、しかし撤退するべく後ろを向き、緩慢ながらも走り始める。
『ヴオ”ォォォォオオーーッ!』
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
後ろではスルトの仇を討つように、多くのラーヴァドラゴンがニーズヘッグへ飛びかかっている。
これに足を止められ、ニーズヘッグはいら立たしそうに咆哮を上げていた。
スルトは倒れた。だがまだアイツの意思は消えちゃいない。
ラーヴァドラゴン達の援護を横目で見ながら、俺達は自由に動かない体を引きずるように走る。
この間にいくらかでも奴との距離を離さなければ、スルトの奴に顔向けできなかった。
後ろからは激しい咆哮と、断末魔のような叫びや何かが打ち付けられるような音が絶え間なく聞こえてくる。
奴の怒りは今俺達よりもラーヴァドラゴン達に向けられている。
この状態が続けばまだ大丈夫だ。俺達を追いかけてくるまで時間がある。何せ相手はあのラーヴァドラゴンの群れなのだ。すぐに倒し尽くされるはずがない。
俺はそう自分へ言い聞かせながら、ただただ必死に足と腕を動かしていた。
「グァオ”オ”オ”オオオオーーッ!!」
だが次の瞬間、奴の怒りが弾けたように膨らんだのを俺は感じた。
反射的に振り返れば、奴は真っすぐにこちらを見据えている。
飛びかかるラーヴァドラゴン達にはどうしてか目もくれず。
奴はその四枚羽を、再び大きく広げていたのだ。
「まずいニーズヘッグのブレスだ! 皆逃げてッ!」
ラタが叫ぶ。逃げろと言ってもここはマグマに囲まれた一本道だ。
皆をシャドウに入れて飛ぶか。そう思うも束の間、俺の隣を黒い影が走る。
バドだった。
「グァア”ア”ア”アアアアーーッ!!」
再びニーズヘッグの口から激しい閃光が走った。
だがそれよりも早くバドからオーラが立ち上り、俺達を青い膜が覆い尽くす。
盾技、”大精霊の守護結界”。物理的な攻撃でないなら、これを破る術はない。
最大の盾技が俺達を守る。その防御能力は絶大で、凄まじい閃光が通り過ぎて行っても、俺達の体には何の負傷も無かった。
あの余裕のない場面で上級精技を繰り出すとは。流石……流石、バドだ。
俺は目の前にある、頼りになる男の背中を見る。バドは盾を構えたまま、堂々とその場に立っていた。
そしてそのまま膝を突き、受け身も取らずに倒れてしまう。
ガシャンと。彼の全身鎧が重い音を立てた。