262.怒りて臥す者
「うおっ!? なんじゃこりゃ!?」
「さ、寒いぃ……っ!」
第七階層の奥にあった洞窟。その入り口でスルトと別れた俺達は、中に足を踏み入れ十分程中を進むことになった。
すると出口が見えたため外へ出たのだが、そこは白で埋め尽くされた一面の銀世界であった。
洞窟に入る前から一転、空から雪が深々と降っている。どうなってんだ世界樹って奴は。季節感とかまるっと無視しやがってよぉ。
気を利かせてシャドウがローブを出してくる。それを急いで着ていると、ラタが困ったような笑顔を見せた。
「何もない時に暴れられちゃ、世界樹が壊れちゃうからね。ニーズヘッグの動きを鈍らせるために、ここでは気温を下げているんだよ」
下げるにも程があるだろと文句を言いたいが、理由があるなら仕方がない。
雪が音も無く降る中を、俺達はラタに続いて真っすぐに進んだ。
歩く度にぎゅっぎゅっと雪が鳴る。吐く息も妙に白く、まるで煙を吐いているようだった。
寒いからか、はたまた珍しい光景からか、誰も何も話さない。雪を鳴らしながら、俺達は一列になって静かに歩く。
そのまましばらく歩いていると、前方の足場が急にぷつりと切れている。どうやらこの先は崖のようだ。
ニーズヘッグの姿はどこにも無い。ラタは真っすぐに崖端に近づくと、その場でぴたりと足を止めてくるりと振り返った。
「見て、あそこを」
彼は指を下へ向けながら俺達を呼ぶ。俺達はラタの隣へ足を進め、促されるままにその方向を見下ろす。
そして見えたものに、ぞわりと全身を粟立たせた。
「な、なんだありゃあ……」
何キロ先かという遠く。そしてずっと下の方に、一つの大きな木があった。
それは世界樹と比べれば小さいが、しかし巨木と言うにはあまりにも大きすぎる樹木だった。
その根元には、巨木に寄り添うように大きな泉も広がっている。深い青のその泉はこの寒さにも凍っておらず、水である事が遠目にもはっきりと分かる。
それはどこか神秘的なものを感じる、とても不思議な泉だった。
そして。そんな巨木と泉のそばに、殊更目を引く異物があった。
その異物は不気味な程に、この白銀の世界の中で異彩を放っている。
泉の中にまで伸びている巨木の太い根。背に四枚の大きな翼を持つそいつは、長い尻尾を揺らめかせながら一心不乱にその大樹の根を齧っている。
白い世界に似つかわしくない黒の塊。日の光すら拒むような漆黒が、己の存在を主張しているかのようにそこに存在していたのだ。
その大きさはレッドドラゴンを軽く超えている。その二、三倍はあるだろう質量が、俺達の眼下に姿を現していた。
「見えた? あれがニーズヘッグ。これから僕達がおびき寄せる相手だよ」
「あれを……?」
「うん」
どうやら俺はまだ分かっていなかったらしい。
この世界を救おうと言う世界樹が枯れる原因になった怪物達。それを一掃するための存在が、如何に桁外れなのかと言う事を。
「さて……どうする? エイク殿」
こんな状況でも動じないアレス。だが俺は、その問いに答える事ができなかった。
俺は遠くにいる奴をよく見るため、その姿に注意を向けた。だがその時いつもの癖で、相手の感情にも注意を向けていたのだ。
ニーズヘッグから俺達のいる場所まで相当離れている。感情の共有をかけているならともかく、普通なら相手の感情など感じられるはずもない距離だった。
だが思わぬ事に、奴から放たれる感情が俺にははっきりと伝わったのだ。
≪感覚共有≫が俺へ伝えたもの。
それは、怒り。
奴の内に渦巻く、ぐつぐつと煮えたぎるような憤怒。一筋の光も差さない闇の中に、赤々と脈打つ紅蓮の炎。
見ていると頭がおかしくなりそうだった。くらくらする頭を片手で押さえ、俺はよろよろと後ずさった。
「エイク殿?」
アレスが聞いてくるも答えられず、背中を向けて更に数歩離れる。
すると、それに気づいたラタがこちらに近づいて来た。
「おっちゃん、どうかした?」
「……いや。あいつから馬鹿みたいに強い怒りを感じてな。見ていると……うっ、頭が……おかしくなりそうだ」
「ん? どういう事?」
「ああ……言ってなかったか。俺は……相手の感情が分かるんだよ」
あいつを見た瞬間、俺は目の前が真っ赤に染まった。全てのものを今すぐに破壊しつくしたいと心から願ってしまった。
こんな感覚は初めてだ。いや……きっとこれ程の怒りは、人間が生きている間に感じる事は絶対にない。
そう断言できるほど、奴の怒りは凄まじいものだった。
おかしくなりかけた頭だが、この寒さが効いたのか、すぐに熱が引いていく。この寒さがニーズヘッグに必要だと言うのは、肉体的な影響だけでは無いのかもしれないな。
俺が片手を額に当てて頭を振っていると、
「怒りて臥す者」
そうラタがぽつりと溢した。
「え?」
「ニーズヘッグの異名だよ」
話が聞こえたらしく皆が振り返る。
「あいつはね、この雪の世界から出られないんだ。出るには許可を得ないといけない。けど、得られるはずがない。あいつの役目は世界樹の浄化をする事、それだけなんだから」
「許可って、世界樹の許可か?」
「そう。世界樹と……そして、僕達管理番の許可だよ」
ニーズヘッグは生まれてよりずっと、この白銀の世界に閉じ込められてきた。
この世界はニーズヘッグの強大な力を封じるための場所で、奴はその冷気で体の自由を縛られてきた。
生まれてよりずっと自由を奪われてきたニーズヘッグは、それ故に世界樹に対して激しい怒りを募らせている。
あの大樹は世界樹の一部。その根をひたすら齧っているのも、世界樹に対しての怒りから来る行動なのだそうだ。
「でもあんなに齧らせて、世界樹は大丈夫なんですか? 枯れたりとか……」
「世界樹は神の力を使って育つからね。あいつが齧れば齧るほど、世界樹は神の力を消費できる。あの程度の損傷だったらすぐ復元できるから、良い事しか無いんだよ」
ステフは眉を八の字にするが、心配無用とラタが返す。
「なんだか……哀れだな。あいつ」
静かに雪が降る中、ガザの口にした言葉がいやによく通って聞こえた。
生まれてからずっとこんな場所に押し込められて、せめて怒りをぶつけようとしても相手に利がある事ばかり。
奴が怒り狂うのも、何だか当然のような気がしてくる。
俺達が皆押し黙る中、ラタだけが少し悲し気に笑っていた。
「そうでもないよ。あいつは……こんな時があれば、怒りを発散する事ができるんだから」
「ラタ?」
その表情の意味が分からず、俺は彼の名を呼ぶ。
しかしラタはふるふると顔を横に振っただけだった。
「さっきも言ったけど、あいつは僕達管理番の許可があればこの世界を出ることができるんだ。だから当然、僕がここにいることが分かれば、あいつは僕を狙って追いかけて来る」
八つ当たりみたいなもんだろうか。そう聞くと、ラタは「そうかもね」と笑った。
どうしてだろう。ここに来てからずっと、ラタは楽しいと言う感情以外に、もう一つ別の感情を抱いているようだった。
いや、実を言えば第三階層で会った時やここに来るまでにも、俺はラタやクスから、僅かに感じた事があったのだ。
だがなぜここに来てまでもそんなものを感じているのか、俺はよく分からないままだった。
「追いかけて来たあいつを引き連れて、僕は第三階層まで帰るんだ。クスが待っているはずの、あの場所に」
”諦め”。
ラタが抱いているのはそんな感情だった。
あいつを引き連れて帰れば役目は終わりなんじゃないのか。何を諦める必要があると言うのだろう。
ここに来るまでの話から、ラタは今まで一人でここで来ていたようだ。だが今ラタは一人ではない。俺達がいる。
今までよりも状況はずっと良いはずなのに、ラタの胸の内には楽しさと微かな諦めが絶えず渦巻き続けていた。
「皆、ありがとう」
ラタはその感情をおくびにも出さず、俺達を見回してニッと笑う。
「ここからは僕の仕事だ。一人でやるから、皆はどこかに隠れていて」
「――え?」
そんな言葉に、俺達はすぐに返事をする事ができなかった。
------------------
降り積もった雪を小さな足で踏みしめながら、ラタは一人、ニーズヘッグのもとへと、緩やかな坂を下って歩いて行く。
降り続けている綿雪は、ラタの頭や大きな尻尾にうっすら白く積もっている。
しかしラタはそれを払いもせず、黙って前へと歩いて行く。
白一色の世界を小さな体で懸命に進むラタ。その姿は今にも雪に埋もれてしまいそうに見えた。
「うぐぐぐぐ……。進めない……」
と言うか、埋もれてた。
「何やってんだ、ほれ」
「ぅぐうぅ……違うんだよぉ……。思ったより雪が積もっててぇ」
襟首をつかんで引き戻すと、ラタは苦笑いをしつつ不満げな声を出していた。
この世界樹は浄化を長い間行ってこなかった。長期間誰も立ち入らなかった事で、ラタが想像するより積もっていたのかもしれないな。
ラタは体に付いた雪をぱっぱと払った後、口を尖らせて俺達を見る。
「というかおっちゃん達、何で付いて来るんだよぉ。僕、さっき隠れてろって言っただろ?」
「何でも何も、お前一人に任せて行けるかよ。なぁ?」
「ここまで来た意味がないからな」
後ろを振り返れば皆が頷く。アレスも腕を組んで肯定した。
これにラタは腕を組んだが、しかし反論も特にして来ない。きっと彼の頭の中では今、色々な考えが巡っているんだろう。
ラタが突然一人でやると言い出した原因は明白だ。あの木の下にいた怪物、ニーズヘッグ。あれとやり合えと言われたら、このパーティでも全滅を免れない。
スティア達と合流したとしても結果は怪しい。ラタはそれを心配して、今更あんな事を言い出したのだろう。
だが俺達はあれと戦うために来たわけじゃない。ラタの言う事によれば、あれを第三階層まで連れて行けば良いだけなのだ。
確かにニーズヘッグは恐ろしい。未だに鳥肌が立っている程だ。
とは言え引き連れて逃げるだけなら何とかなると思うのだ。
こちらには高い防御力を持つバドやアレスがいる。シャドウもいるし、打てる手は多い。
第三階層からここまで中々面倒ではあったが、それでも皆で抜けて来た。それはまぐれでも幸運でも無く、実力あっての結果なのだ。
もっと言えばスルトとの約束もある。俺としてはこの世界樹の浄化作業をここで投げ出す気は全くない。
そしてそれは他の皆もそうだった。
「確かにアレはおっかねぇけど、まあ逃げるだけなら何とかなるっしょ」
「あんな神獣をこの目にして、逃げるなど考えられん! 死んだ方がましだ!」
デュポがニシシと笑うと、オーリも鼻からフンと息を出す。
「そうだね。僕も、何ができるか分からないけど……。でも、君をここに置いたまま逃げたなんて言ったら、ティナ様にまた怒られちゃうよ」
ステフもラタへ優し気に笑う。皆の顔を見回して、ラタは少し考えた後、困ったような笑顔を見せた。
「分かったよ。でもそこまで言うなら、後で後悔しないでよ。あいつの相手、本当に大変なんだからさ」
ラタの生意気な台詞に皆の顔にも笑顔が浮かぶ。
だよな。こんな状況をガキ一人に任せて、大人は尻尾巻いて逃げましたなんてあり得んだろ。
「おいラタ。あいつから逃げる算段を立てるぞ。知ってることを教えてくれ」
「やれやれ。しょうがないなぁ」
俺はラタの頭に乗った雪を払いながら言う。彼は俺を見上げた後、おどけるように肩をすくめた。