238.失われていた歴史
誰かが髪の毛を優しく撫ぜている。
頭の後ろには柔らかい感触。
鼻をくすぐる花の香りが、俺の意識をゆっくりと覚醒させていく。
「……んん?」
心地良いまどろみを何とか押し返し、重い瞼を上げていく。
ぼんやりと映った俺の視界。そこに誰かの顔が映っていて、誰だろうなどと、俺は呆けた頭でそれを見つめていた。
俺を撫ぜる手つきは緩やかで、非常に優しい。
安心感を覚えながら、頭と視界は徐々に鮮明になって行く。
そしてはっきりと焦点が合った時、
「――うおっ!? な、何だっ!?」
俺は驚きに声を上げて、がばと上体を起こしていた。
俺の眼前にあったのは、緑の肌をした不思議な女の顔だった。
頭には抱える程の大きな白い花が咲き、何枚もの大きな葉っぱが、まるで髪の毛のように頭から腰まで垂れ下がっている。
人族で言えば、年の頃は妙齢。そこから覗く整った顔は、柔らかな笑みを浮かべていた。
身に着けている物はドレスのような形だが、しかしそれも大きな葉っぱのような物で作られている。
全く見た事がない風貌だ。一体どういう種族なんだろう。というか、そもそも人間なんだろうか。
「~~~~?」
呆気にとられる俺の前で、そいつは小さく口を開く。だがそこから発せられたのは、まるで草笛のような高い音色。何を言っているのかは分からなかった。
「こ、ここは一体、何だ……?」
俺はぐるりと周囲を見渡す。そこは一面の緑。だが先ほどまでとは打って変わって、光の差し込む美しい庭園だった。
上空から差し込む陽光が、彩り豊かな大輪の花を美しく照らし出す。この庭園には水を引いているらしく、水路までも整備されていた。
ただ煉瓦や石のような物は何もない。全て土や植物で作られた、天然の庭園だ。
壁や天井すら、何かの蔦や枝のようなものが絡まって作られた物だった。
天井は中央がくり抜かれたような形状で、日光を取り込めるようになっている。
どうもここは何かの施設らしい。で、俺はそんな施設の真ん中に寝かされ、この女に膝枕をされている状況だ。
なぜそんな事になっているのか、全く理解が追い付かない。しかし状況からして、どうやら看病されていた様子だ。
「よく分からんが、どうも厄介になってたみたいだな。悪い、助かった」
俺は一応頭を下げる。するとそいつは俺の手を取り、両手で包み込んだ。
顔に浮かべたのは花が咲くような笑みだ。どうやら喜んでいるようだが、一体なぜだろうか。全く状況が掴めなかった。
ただ目の前のこいつからは敵意を全く感じない。味方と思うには早すぎるが、しかし敵と思うにはあまりにも友好的だった。
「なぁ。俺の仲間が他にもいたと思うんだが、何か知らないか?」
言葉が通じるかどうか分からないが、聞かないわけにもいかないだろう。俺は身振り手振りで彼女へと質問をする。
すると彼女は俺の手を引き、ゆっくりと立ち上がった。
彼女は俺の手を引いて、こっちへ来いと案内を始める。彼女の内からは依然として、楽しそうな、嬉しそうな、そんな感情が溢れてくる。
俺はそれに強い戸惑いを覚えずにはいられなかった。
俺は自分の生い立ちや見た目の都合もあって、こうして初対面から好意をぶつけられた事が殆ど無い。
加えて俺には、相手の感情をまず読むという癖もあった。
相手が自分をどう感じたのか知った上で、警戒の度合いを決定する。そうして俺は今まで生きて来た。
なのに目の前のこいつは俺へ、強い好意という感情のみを、叩きつけるように向けてくる。
そんな相手は俺にとってどうにもやりづらく、どう反応すれば良いかよく分からなかった。
戸惑いながらも手を引かれ、俺は庭園を後にする。そこを出るとまず目に入ったのは、いくつもある大きな、植物のような何かだった。
俺は後ろを振り返り、自分がいた施設の様子を見る。その壁は人の太もも程もある植物の蔦が、びっしりと固く絡まって作られていた。
上を見れば短く枝が伸び、葉が生い茂っている。周囲の大きな植物のような何かと同じ見た目だ。つまり、あれらも何かの施設なんだろう。
そう思いながらまた前を向く。
施設の見てくれは寸胴の木のようだ。それらの姿は、茎が異様に太い、巨大なブロッコリーのようにも見えた。
次に目が行ったのは、左右にそびえる緑の壁だ。二つの壁はおよそ五、六百メートル程離れて立っており、所々に様々な花を咲かせながら、空まで遠く伸びている。
そのまま上を見上げれば、青い筋が一本伸びている。太陽が輝いていなければ、あれが空の色だとはすぐに理解できなかっただろう。
つまりだ。あの緑の壁は、俺達が下りて来た崖なのだ。俺が今いる場所は、紛れもなく崖下なのだ。
「何なんだ、ここは一体。あの暗闇からどうしてこんな場所に? というか、どうやって俺はこんな場所に来たんだ?」
独り言を呟きながら、女に誘われるまま付いて行く。しばらく歩いたその先には、殊更大きなブロッコリー施設があった。
俺達はそこへ入っていく。するとその中はやはり庭園のようになっていたが、しかし明確に異なる点もあった。
その施設を奥に行ったその先。そこは玉座らしきものが置かれた、謁見の間のようなスペースがあったのだ。
「あ! えーちゃんだ!」
その場には皆の姿もあった。俺を見つけたホシが指を差して明るい声を上げる。
「貴方様っ!」
「ぐへっ!?」
次に飛んできたのはスティアだった。突っ込んできた彼女を受け止め損ね、俺はカエルが潰れたような声を漏らしてしまった。
「貴方様、どこかお怪我などは!? 申しわけありません、わたくしが未熟なばかりにっ!」
「いや、別に何もねぇよ。大丈夫だ。皆も無事だったか?」
様子はどうだと見回せば、皆は特に何事もなくその場に立っていた。一先ず安心し息を吐く。
ならば次の問題だ。俺はあわあわと慌てるスティアの両肩を掴む。
「この状況は一体全体どういう事だ? もうわけが分からなくてな。説明してくれ。こいつらは一体何なんだ? 俺達はどうしてこんな場所にいるんだ?」
俺の隣で微笑んでいる緑の女。光の差し込む緑あふれる場所。
先ほど俺達は暗闇の中明かりを手に進んでいたはずなのに、いつの間にかこんな場所に迷い込んでしまっている。
状況が分からない事ほど気持ちの悪いものは無い。誰でもいいからさっさと答えて欲しかった。
「落ち着け、人族の男よ」
そんな時だ。やけに幼い声が聞こえて、俺は目を瞬かせた。
一体どこから。そう思い前を見れば、玉座に座る一人の少女が、楽しそうにこちらを見ている姿が目に入った。
「あれは――?」
俺がその姿を見ていると、緑の女が俺の手を引き、皆の元へ連れて行く。それを見咎めたスティアが反対の手を握ってくるが、今はそんな事はどうでも良かった。
玉座に座る小さな少女。彼女は楽しそうに笑みを顔に浮かべている。
だが、明らかに普通の人間では無いと俺にも分かった。
大きな玉座にちょこんと座る少女。彼女の明るい緑の髪は非常に長く、玉座を流れ落ち床にまで零れている。
人間なら、どんなに伸ばそうとそこまで伸びることは無い。それだけでも違和感を感じると言うのに、その顔は声に反して、老人のような深いしわが刻まれていたのだ。
彼女はその場に集まった俺達をぐるりと見回すと、にやりと目を細めた。その笑顔からも、子供らしさは全く感じられなかった。
「どうなってんだこいつは?」
「さぁな。ま、話を聞いてみようぜ」
近くにいたマリアに小声で話しかける。だがマリアは楽しそうな笑みを浮かべながらも、肩をすくめて俺に返した。
その仕草は何か知っているようにも見える。だが確かに、今は目の前の人物から聞くのが一番だろう。
俺達の視線が全て向くと、それを待っていたように、玉座の少女はおもむろに口を開いた。
「さて、この場所に客人が来るのは久方ぶりじゃ。まずはようこそ、と言っておこう」
彼女はそう前置きを置いて、この状況について話を始めた。
「ここはゲラニオ山の崖下にある、我、世界樹ユグドラシルの里じゃ。本来、結界によって守られているため、内に入らなければ存在すら認知されん場所なんじゃが、昨晩里の外れにお主達が倒れておるのを見つけてな。見捨てるのもどうかと思い、保護させてもらった。ああ礼などいらぬ。こちらが勝手にやった事じゃ、気にせんで良いぞ」
少女は当然のようにすらすらと言うが、すぐに理解できる内容ではない。
話に俺達は戸惑うが、しかし少女はどこか楽しそうに目を細めた。
「お主達がなぜこんな場所まで来たか知らぬが、まあ安心せい。ここにはお主らに危害を加えるような者は一人もおらん。ゆるりとしていかれよ」
望むなら住んでも良いぞ。そう言ってくすりと笑う少女だったが、俺は情報量が多すぎて、それどころではなかった。
「世界樹!? ここに世界樹があるのかっ!?」
最初に声を上げたのはティナだった。確かにこの少女は言っていた。ここが世界樹、ユグドラシルの里である、と。
「今も目の前にあるじゃろうが。ほれ、我じゃよ、我」
これに少女は愉快そうに笑う。そして自分を指差した。
「無論本体ではないがの。我はユグドラシルの分体よ。本体は樹木じゃからな、当然動けん。じゃからこうして分体を置いておくのじゃ」
「えーちゃんえーちゃん。分体って何?」
「話の流れからすると、もう一人俺がいる! みたいな感じじゃねぇかと思うが……」
「二重人格って奴?」
「それだ!」
「違ぇよ」
俺とホシがこそこそとやっていると、マリアが口を挟んでくる。
「簡単に言うとだな。分体ってのは本体が遠隔操作してる人形みたいなもんだ」
「そこまで軽いもんじゃないが……。まあ認識としてはそれでも問題なかろ」
なるほど分体ってそう言う事か。マリアにしては分かりやすい説明で助かった。
木が意思を持っているとか分体とか、初めて聞く話に頭は混乱しているが、一応何とか飲み込めそうだ。
俺とホシが「はぇ~」と感嘆していると、次にスティアが口を開いた。
「あの、先ほど結界と言いました? 結界とは一体? わたくし、あの崖下を歩いている際に、何か不思議な魔力を感じましたの。ただ害するような意思は感じられず、警戒しつつそのまま進んだのですが、気が付けばここに」
「うむ、それも教えよう」
確かに結界なんて聞いた事がない。スティアが放った疑問に対し、少女は鷹揚に頷いた。
「結界とは、簡単に言えば一定の領域に特定の効果をもたらす魔法の事じゃな。神の力と魔術を組み合わせたものよ」
「か、神の力!? そ、それはまさか――!」
「結界は我が維持しておる。まあこれを成したのは我ではないがの」
珍しく仰天するスティア。俺としては「ふーん」くらいの感想だが、魔法に堪能な彼女の事だ。この意味が正確に理解できているんだろうな。
「この地一帯には、外界からの立ち入りを禁じ、かつ外界から認知されない結界が張られておる。ああ、他にも、結界の外へ出た際に記憶を奪う効果もあるぞ」
「き、記憶を奪うだあ!?」
「な――! それは困るっ!」
だが今度の台詞は聞き流すことなどできず、俺は反射的に声を上げた。これにティナの声も重なる。
そうだよ、そりゃ困る。外に出たらパッパラパーじゃ、一生出られないって事じゃねぇか!
激しく動揺する俺達に気付いたのだろう。少女はゆるりと笑みを見せる。
「ああ、記憶と言ってもこの結界内で見知った事のみじゃ。我の事を外の者に広められては困るからの。その対策じゃよ」
先程この少女――いや、もうユグドラシルと言おう。ユグドラシルは、ここに客人が来るのが久しぶりだと言っていた。
だがここの事を知る者は、少なくとも俺の周囲には一人もいなかった。それはつまり、この結界の効果によって、記憶を消されてしまったからなのだろう。
流石に覚えていなければ、広める事もできないからな。
全ての記憶を奪われるわけでは無いと知り、俺は安堵の息を吐く。しかしティナの方は、それを聞いてもがっくりと肩を落としていた。
この世界樹の事を世に広めたかったんだろうか? もしかして、帝国にでも持ち帰りたかった、とか。
だが世界樹の情報なんて持ち帰っても、誰の得にもならん気がする。聞いて得するのはたぶん、世界樹に執着しているエルフぐらいじゃなかろうか。
そう考えると、もしかしたらティナにもエルフの知り合いがいるのかもしれないな。
まあ結界がある以上どうにもならないわけだが。
「しかし結界など、わたくしは聞いた事もありませんわ……」
「まああまりねぇ話だよな。でも結界くらい俺にだって作れるぜ。ここまで複雑で大掛かりなのは流石にすぐには無理だがな」
「はぁ……。それ、本当ですの?」
「何だよその目は。失礼な奴だな、本当だよ!」
マリアがなぜか張り合うが、スティアに半信半疑の目を向けられ憤慨していた。
普段の態度が災いしたんだろう。たまには反省してくれ、トラブルメーカー。
「ねぇ、どんな結界が作れるの?」
「あー? そうだなぁ……。俺を崇め奉る奴だけ入れる結界とかか?」
ホシに目を向けられて、マリアはおかしな事を口走る。そんな結界何の意味があるんだ。少なくとも今ここではクソ程も役に立たない。もう黙っててくれ。
「しかしそんな様々な効果のある結界を作り上げるなんて、凄い方ですわね……。一体どんな方だったんでしょうか……」
「ほう。知りたいか?」
感心したように吐息を漏らすスティア。これにユグドラシルはなぜか嬉しそうな声を上げ、身を乗り出した。
「あれはもう、どれくらい前か……。我は人間の年月には疎いからの、詳細は分からんが……」
こほんと咳払いをして、ユグドラシルは説明を続ける。
「我がまだ人の姿もとれない種子だった頃の話じゃ。かつて魔族と人族の大きな戦争があってな」
だがその内容は、俺達にとって驚愕するには十分過ぎるものだった。
「その戦争で英雄とまで呼ばれた人間がおったのじゃ。その者の名はネロス。天眼の軍師などと呼ばれたその者は、我を人族の魔の手から救い出し、この地に植えて下さったのじゃ。ネロスは我が父も同然。それはもう素晴らしい男だったのじゃ」
三百年前、聖魔戦争において大きな戦果をあげた英傑。
そして戦後、すぐに姿を消したと言う人物。
その情報が思いがけなく出てきた事に、俺達は皆口をポカンと開いていた。