236.黒の中に咲く
ぱっくりと口を開いた崖が、突如として俺達の行く手を阻んだ。
崖向こうとの幅は二十メートルくらいか。深さはどうかと覗き込んで見るが、そこには地面が映っておらず、真っ黒な闇が俺の視界を遮っていた。
崖はあまりにも切り立っている。それを見た俺は、まるで山を両断しようと、巨大な刀が振り下ろされた跡のようだと思ってしまった。
「ひょえ~っ。高い!」
両手両膝を地面に突き、ホシも崖底を覗き込む。
「おい落ちるなよ」
「わーっ! おーい!」
「聞いちゃいねぇ」
非常に楽しそうである。当然声は返ってこない。
バドも足を踏み出して、崖の底をひょいと覗き込む。だが俺はその背に慌てて声を掛けた。
「おいバド。お前重いんだから、あんまり崖端に行くなよ。崩れたら事だぞ」
バドの重さは大人何人分かというものだ。踏み外すと言う事はないだろうが、流石に崖が崩れたらどうにもならない。
気付いたらしいバドは慌てて崖から離れる。手はホシの襟首を掴んでおり、笑顔のホシがぶらぶらと揺れていた。
「か、かなり深いようだな……。お、落ちたら命は無い、だろう……っ」
ティナが覗き込み、引きつったような声を出す。その想像は間違いないが、さてここからどうするか。
斜面もそこそこ急になって来た。山頂まで後もう少しだと思うが、その前にこの崖を何とかしなければ。
「マリア様、どう致しましょう。向こうを調べるには、この崖を避ける以外なさそうですが……」
ティナが聞くも、マリアは崖を見てだんまりだ。眉間には少ししわが寄っている。
まあそうだろうな。左を見ても右を見ても、崖の切れ目は見当たらない。どこまで行けば避けられるのかって話だ。
最悪山を下りて回り込まなければならない可能性もある。あんな顔にもなろうと言うものだ。
だが俺達が打てる手は避ける一本だけじゃない。もう一つ、もっと簡単な方法があるのだ。
「それか崖を渡っちまうかだな。二つに一つだ」
「崖を渡る? 馬鹿な事を……。橋でも掛けるつもりか、貴様は」
俺が言えば、ティナが呆れたような目を向ける。だが呆れたのはこっちの方だ。俺は彼女へ肩をすくめて見せる。
「橋だぁ? 詰まらねぇ冗談言ってんじゃねぇぞ。んな事してたら日が暮れるだろうが。”飛翔の風翼”で飛べば済む話だろって言ってんだよ」
”飛翔の風翼”を使えばこんな崖などひとっ飛びだ。どこまで続いているか分からない崖の切れ目を探すより、よっぽど楽だろう。
避けるか渡るか二つに一つ。とは言え実質一択みたいなものだ。
魔力だって、ここまで使う状況が無かったため十分にある。ここで多少使おうと、困るような状況では全く無かった。
「”飛翔の風翼”だと? 中級魔法だろう。そんなもの、一体誰が使えると言うのだ」
俺の言う事が信じられないらしく、ティナがまた突っかかってくる。
「使えるが?」
「わたくしも使えますが」
「な、何だとっ!?」
だが俺とスティアが声を上げると、途端に目を丸くした。
そりゃ使えないもんを候補として挙げる馬鹿がどこにいるんだよ。そんな無意味な会話してどうすんだ。
「それじゃスティア、悪いがお前はマリア達にかけてやってくれ。俺はお前達にかけるから」
「承知しましたわ」
”飛翔の風翼”は対象を浮遊させる魔法だが、俺の場合効果が中途半端で、体重を軽くさせる効果しかない。
浮けると思っていると途中で落下するため、慣れているスティア達以外にかけるのは止めた方が無難だろう。崖を渡ろうとして落ちました、何て言ったら笑い話にもならないからな。
「よし、それじゃ――」
「おい、ちょっと待て。話を勝手に進めんな」
早速始めようか。そうしようとしたところ、横合いから待ったが入った。
目を向ければ、そこには不機嫌そうな顔をしたマリアが腕を組んで立っていた。
「何だよ。向こうを調べるんだろが?」
俺は指を崖の向こう側へ向ける。
だがこれに対して、マリアは首を横に振ったのだ。
「違うな。こっちだよ。な、アレス?」
「御意」
指を下へと向けたマリア。アレスもまたこくりと首を縦に振った。
おいおい……こっちってなぁ。まさかとは思うが。
「まさか、崖下に降りるのですか!?」
「だからそう言ってんだろうが」
俺の嫌な予感をティナが代弁してくれる。だがそう言う事程現実になるものだ。
マリアはずんずんと前へ進む。そして崖端に立つと、杖をぴっと足元に向けた。
「おら行くぞお前ら。ほにゃらかほいっ!」
すこぶる適当な詠唱をすると、マリアは更に足を踏み出す。
そこにはもう地面は無かった。
「なっ!? マリア様、危ないっ!」
ティナが大声を上げて右手を前へ伸ばす。だがティナとマリアの距離は、腕を伸ばした所で届く距離では無かった。
その手がマリアを掴むことは無く。
「ああ? 何だ?」
だが、思っていたような事態もまた、起きなかった。
振り返ったマリアは少し面倒臭そうな顔をして、だが平然とそこに立っていた。
彼女が立っているのは崖から数歩踏み出した場所で、当然足の下には何もない。
一人の少女が空中に立ち、こちらに少し振り返っている。そんな不思議な光景が、俺達の目の前には広がっていた。
「お、お前、それどうなってんだ?」
「は? 足元にシールドを張っただけだぞ。つーかいつまでそうやってんだ。おら、お前らも早く来いよ」
面倒くさそうに手招きするマリア。俺達が呆然としている間にアレスはもう歩き始めていて、気付けば奴の隣に当然のように立っていた。
「あはは! 面白そう!」
ホシがたたたと駆け出していく。崖から足を踏み出せば、ホシも落ちずに空中を進み出した。
全く、なんちゅう滅茶苦茶な魔法だよ。物理障壁をただの足場にするなんて、普通考えつかねぇぞ。
”飛翔の風翼”って魔法があるだけに余計にな。
「柔軟と言えばいいのか出鱈目と言えばいいのか……表現に困りますわね」
「だな。まぁ、らしいと言えばらしいが」
俺達の台詞にバドも頷く。破天荒なのは今に始まった事じゃない。
だが、と俺は目を向ける。そこには展開に置いてけぼりを食った、ティナとステフの二人がいた。
「こんなのは良くある事だからな。ほら、ぼさっとしてないで行くぞ。またどやされるぞ?」
「あ、ああ……」
困惑を滲ませた表情で立ち尽くしているティナ。俺が急かすも、彼女は信じられない様子で、曖昧に頷いただけだった。
その後、皆が崖の上で待機する中、ティナは崖から足を踏み出すことも躊躇し、へっぴり腰でまごつくと言う醜態を見せる事になる。
そんな彼女へマリアからの怒声が飛んだのは言うまでもない事だった。
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透明な足場を降ろし始めて十分ほどだろうか。やっと地面らしきものが見えてきて、俺はほっと息を吐いた。
降下を始めてからずっと、俺達は暗闇に向かって降り続けていた。それがどうにも闇に吸い込まれているように感じて、不気味に思えてならなかったのだ。
もう俺達の周囲は黒一色だ。すでに”灯火”を点けてはいるものの、周囲の闇はあまりにも深く、様子が分かるのは精々二、三メートルくらいでしかなかった。
”灯火”の光がここまで遮られるという事は俺にも経験がない。不気味に思えたのは、そんな状況も相まっての事だった。
「着いたぞ。おら、降りろ」
「あははは! あー、楽しかった!」
まあそれが楽しめた奴もいたようだが。
マリアに促され、ホシがぴょいと飛び降りる。その声色はずっと変わらず、非常に楽しげな音を出している。
「や、やっと着いた……」
一方ティナの方はへっぴり腰で、よろよろと足場から降りて行く。彼女はどうも高い所が苦手らしい。降りている際もずっとステフにしがみつき、へっぴり腰で足を震えさせている始末だった。
そんな主にステフも心配そうな目を向けていて、どっちが主人なんだかと呆れてしまう程だった。
皆が様々に降りて行く中、俺も崖下の地へと足をつける。そして”灯火”の炎を前にかざした。
「こりゃあ……」
そこは意外にも、草花が生い茂る場所だった。足元は緑で覆い尽くされており、土の茶が見える場所などどこにも無い。
バドもカンテラで周囲の様子を確認している。だがどこを照らしても、周囲一面植物で覆い尽くされていた。
「こんなにも緑があるなんて。……非常に違和感がありますわね」
スティアが誰ともなしに口にする。彼女の疑問はしごく当然だった。
光の無い場所に植物は育たない。だと言うのにここはあまりにも自然豊かだ。
樹木こそ無いが花もあちこちに咲いていて、まるで自然にできた庭園のようだった。
「何だか不気味だな」
「そう? 奇麗だよ?」
俺が小さく言うと、ホシがちょこちょこと傍に寄ってきた。言いたい事は分かるんだが、状況が状況だからな。
こんな場所に何も無いとは考えづらい。マリアの勘と言う奴が当たったかと、俺はその張本人に顔を向けた。
「は、やっぱりな。こっちから妙な感じがしやがる。俺の感覚に引っかかってたのは、どうやらこいつらしいな」
意味深な台詞を放つマリアに、アレスも小さく頷いた。
こいつらには何かが感じられるようだ。だが周囲を警戒したところで、俺には何も分からなかった。
「マリア様、一体何があると言うのですか? この地は不気味すぎます。何か嫌な予感がするのですが」
ティナも同様に思うのか、マリアへとそのまま疑問をぶつける。
「それを確かめに行こうってんだ。もう目と鼻の先だぜ? 百聞は一見に如かずってな。無駄口叩いてないで、行くぞ」
だがマリアはそれに答えず。俺達に向けて、行けとあごで指示をする。
結局何があるのかは、自分の目で確かめるしかないらしい。
「おいティナ。あんたら、カンテラ持ってるか?」
「あ、ああ。ステフ、出してくれ」
だが先を進もうにもここは暗すぎる。俺の”灯火”とバドのカンテラだけでは、周囲を照らすには不十分だ。
俺はステフが背嚢から取り出したカンテラに炎を灯し、彼に返す。これで前列、中列、後列すべてに明かりが灯ったわけだ。
「この暗さだ。警戒はするが、アンタらも気を付けてくれよ」
「そんな事は言われなくても承知している。お前達もヘマをしないよう、くれぐれも気をつける事だ」
カンテラで明るく照らし出されたティナの顔。それに向かって話しかけると、馬鹿にするなと返ってきた。だがなぁ。
「さっきまでへっぴり腰だった奴に言われてもなぁ……」
「そ、その事は忘れろっ!」
ぱっと頬に朱が入る。高慢な態度が見られる彼女だが、こうして見ると普通の娘だな。
俺がふっと笑うと更に顔が赤くなる。そしてティナは「フン!」と言い残してマリア達の方へ行ってしまった。
あらら、揶揄われてご機嫌斜めか。ステフに肩をすくめて見せると、彼は俺に目礼を返し、ティナの背中を追って行った。やれやれ。
「貴方様」
「ああ。スティア、先導頼む」
「ええ、任せて下さいまし。バド、わたくしにカンテラを」
バドからカンテラを受け取ったスティアが、皆の顔をぐるりと見回す。そしてくると身を翻すと、先頭をゆっくりと歩き始めた。
スティアのカンテラが闇をかき分けるように、ゆっくりと進んで行く。照らし出されるのは闇の中に咲く色取り取りの花々だ。
彩り鮮やかなそれは自然が豊かな証拠だろう。だが今この場所においては、人の目を楽しませる様な効果は皆無だった。
闇に浮き上がるように咲く美しい花達。それは逆に不穏なものの象徴のように、俺の目には映っていた。