233.答えぬ背中
「おい、こっちで本当にあってんだろうな?」
「あー、多分なー」
獣道すらない山の中、生い茂る草を踏み分けながら俺達は緩い坂を登っていく。
後ろへ顔を向け声を上げると、呑気にあくびをしながらマリアはいい加減な返事をした。
「大丈夫かよおい……。これで無駄足なんて事になったら流石に怒るぞ俺は」
「何かの痕跡もありませんし。本当に大丈夫なんでしょうか」
先頭を歩くスティアも心配そうに振り返る。マリアは何かあると言っていたが、しかしそれらしきものが何もない。
ここで嘘だと言われても信じられる程には、木と草しかない光景が眼前一杯に広がっている。スティアが訝しむのも無理もない。
山に入ってからもう一時間程になる。マリアはこのまま真っすぐ進めと言って、それ以降は先ほどのような調子だった。
目的が何かも分からない俺達はそれに従う以外になく、ただ真っすぐに進んでいる。しかしどう見てもここはただの山。
人が入らない場所のため、警戒を怠ってはいない。しかしそれがアホらしく思える程、平和な行軍が続いていた。
「えーちゃん、あそこにティクス草が生えてるよ」
「おー、本当だな」
きょろきょろしながら歩くホシ。時たまこんな風に声を上げて、その場所をぴっと指さしてくる。
目を向けると確かに、解毒薬の原料になる草がいくつか生えていた。
とは言え特に採るでもなく、俺達はそのまま素通りする。今は別に必要なわけでもないからな。
声を上げるホシもそれを理解しており、指を差した後はすぐにそこから視線を外し、別の場所をきょろきょろと見ている。
ただ、俺はその草からしばらく目が離せなかった。
「……ん? どうしたバド」
そんな俺が気になったんだろう。バドがちょんちょんと肩を突いて来た。
彼はティクス草を指差し、次いで自分を指差した。採ってこようかとでも言っているんだろうか。
「ああ、いや。いいんだ。気にしなくていい」
「どうかされました?」
俺はバドにひらひらと手を振って返す。バドはこくりと頷いたが、気になったのか今度はスティアが声を掛けてきた。
「いや、この山、色々とあるなと思ってな。人が入った形跡は無いが、でも小銭稼ぎにはいい場所じゃないか? 町からもそんなに遠くないし」
このゲラニオ山は、人が入らない場所だとスティアは言っていた。彼女の言う通り人が踏み入った形跡は無く、それが事実なんだろうと言う事は理解できた。
だが、薬の原料になる薬草や魔物はそこそこ見られるように思う。少なくとも見習い冒険者や狩人などにとっては悪くない狩場だと思えたのだ。
「そう言われると、そうですわねぇ……。うーん?」
俺の言わんとした事が分かったらしく、スティアも不思議そうに首を傾げる。
こんな良さそうな場所を放置している理由が分からない。そんな考えが表情から透けて見えた。
「あ! ホーンラビットだ!」
そうこうしていると、またホシが声を上げる。指さす方向を見れば、茶色のホーンラビットが後ろ足で立ち上がり、こちらを見る姿がそこにあった。
俺達の視線が向いたことを見てか、相手はすぐにどこかへ走り去る。
どこにでもいるな、あの兎。そう思っている間に、その小さな姿はすぐに見えなくなった。
「あまり危険な魔物もいないようですし、ねぇ……」
スティアもそれを見送りながら言う。ここに来るまでに、先程のようなホーンラビットやビッグホーン――ニメートルほどの鹿の魔物だ――などの、温厚な魔物の姿を俺達はちらほらと見かけていた。
こちらを見るだけで仕掛けてくる魔物は今のところいない。とは言え警戒を緩める理由にもならない。
「まあ、ちょっと気になっただけだ。引き続き警戒頼むわ」
「ええ。任せて下さいまし」
スティアもそれを分かっており、俺の返事にふっと軽い笑みを見せた。
今の隊列はスティアが先頭、俺達三人がそのすぐ後に続いている。その後ろにマリアとアレス。ティナとステフは最後尾だ。
殿をよく知らない人間に任せると言うのは、俺としては少し心配もあった。だが相手は仮にもランクBの冒険者。加えて今はマリアとアレスもいるのだ。
多少の事では危険も無いだろうと、そこは気にしないことにした。
一番後ろの二人組が今何を思うのかは全く想像もつかない。だがマリアに何か話しかけているようで、その声は度々耳に届いていた。
今もまた話しかけているらしく、声だけがかすかに聞こえてくる。
「マリア様、この山に一体何があると言うのです? そろそろ教えて頂きたいのですが……」
「んー? まあ、行って見りゃ分かる」
「は、はぁ」
やはり向こうも目的が知りたいらしく、困ったような声を出していた。まあ当然と言えば当然だ。俺だってそれを知りたいものだ。
だがマリアの方は言う気が無いらしく、適当にはぐらかせて会話を終わらせている。ティナもこうなると話題が無いらしく、ぱたりと会話が終わってしまう。
連れのステフも喋りはしないが、困ったような感情を胸に抱いていた。
俺はステフが言葉を発した所を一度でも見たことが無い。今もずっとだんまりで、ただ一番後ろに続いていて、どうにも彼と言う人間がよく分からなかった。
「何だかなぁ」
「ん? えーちゃん、どうかした?」
ぽつりと溢すと、ホシが丸い目をきょろりと向けて来た。
「いや、あのステフって奴、ずっと喋らないだろ? 何か理由があるのかってな」
「んー? そうだった?」
疑問を口にすると、ホシはこてりと小首を傾げる。ステフが喋らない事すら気付いていなかったらしい。
まあ興味のない事にはとんと無頓着な奴だ。こんなもんだろうと、頭を軽くぽんぽんと叩く。
くすぐったそうに笑うホシ。そうしていると、先頭のスティアが顔だけをこちらに向けて口を開いた。
「貴方様。あの方、恐らく奴隷ですわよ」
「――は?」
スティアの口調は特に何ということは無い、普段通りのものだった。ただ事実を事実として言っただけの、そんな様子が目の前にあった。
「チラリと見えましたが、両手の甲に同じ焼き印がありましたから。奴隷なら普通、主人の許しが無ければ喋ることは無い、と……。あ、貴方様? どうか、されましたか……?」
だがそんな口調もすぐに困惑に変わった。
スティアは俺へ伺うような目を向ける。対して俺は何も返さず後ろを振り返り、最後尾のステフへと視線を向けた。
そこにはマリアとアレスの姿がある。ステフはその後ろにいて、顔を見ることはできなかった。
「……何だよエイク。んな顔しやがって」
珍しくマリアが眉をひそめて声を掛けてくる。俺がそちらに視線を向けると、その顔は困惑顔に変わった。
隣のアレスも僅かに、どうしたのかと言うような表情をしている。こいつがこんな表情をするのは珍しい。俺はそんな顔をしていただろうか。
「何でもねぇよ」
俺は一言返し、また前を向く。
俺の目に映ったのは、三対六つの伺うような瞳だった。
------------------
ティナは帝国にいた人間らしい。この王国には制度が無いため奴隷と言う人間はいないが、しかし南の帝国では普通に存在する。
彼女が奴隷を連れていても、何ら不思議ではない事だった。
だが帝国にいる奴隷が皆帝国の人間かと言えば、そんなことは無い。
俺達山賊団が住んでいた領、オーレンドルフ領は非常に貧しい土地だった。そのため自分の子供を売ったり、他人の子供をさらって売ったりと、そんな行為も横行していた。
そんな子供らの行きつく先がどこかと言えば、決まっている。王国で売る事ができないのだから、南へ行くしかないわけだ。
つまりもしかしたらあのステフという青年も、幼少期にオーレンドルフ領にいたのかもしれない。
いや、彼が元々帝国の人間だという可能性の方が高いのだが。
「あら? この周辺、どこかおかしいですわね」
ステフが奴隷だと聞いて以降、そんなことを考えつつ皆の背に続いていた俺。
だがスティアの何か気付いたような言葉に、はっと意識を引き戻した。
「どうしたの? すーちゃん」
「見て下さい。この辺り、何者かに踏み荒らされた形跡がありますわ。それも多くの」
膝を突き、何かの様子を見ているスティア。そこにホシとバドが集まって、腰をかがめて同じように何かを見ていた。
俺も三人の背中に近づき見下ろす。するとスティアの言うように、その周辺一帯だけ、草が何かに踏みつけられ折れ曲がっている状態になっていた。
「獣、じゃあないな? これは」
「ええ、恐らくは。この倒れ方を見るに……」
俺が聞くと、スティアは僅かに言い淀む。
何だろう。何か不味い魔物か何かだろうか。
「おー、どうしたお前ら。何かあったのか?」
後ろからマリア達四人も歩いてくる。それに俺達が振り返った時、スティアは静かに立ち上がり、こちらを向いた。
「恐らく……ゴブリンではないかと」
ゴブリン。そう聞いて、皆の視線がスティアへ集中した。
一番に声を出したのはティナだった。
「ゴブリン? ……どうしてそう思うのだ」
「見て下さい、この草の折れ方。何者かに踏まれたような折れ方ですが、人間とは違います。もっと体重の軽い者の痕跡ですわ。そう、子供のような」
スティアがちらりとホシを見る。釣られて皆がホシを見たため、ホシは何? と言った様子で口を尖らせた。
だが普通に考えて、子供がこんな山にいるわけがない。ホシは例外中の例外だ。なんてったって、魔物も裸足で逃げ出す二十超歳児だからな。
「魔物って可能性は無いのか?」
今度は俺が聞くが、スティアはこれにも首を振った。
「それも違うかと。この一帯、草が踏み荒らされているでしょう? 魔物も動物も、こんな風に規則性がない荒らし方は普通しませんわ。獣道ってありますでしょう? 大体が一定の場所を通るため、ああいった物ができるのですが――」
スティアは後ろを振り返る。確かに、広い範囲が乱雑に踏み荒らされている。
これはもはや道ではないな。スティアの言いたい事は分かった。
「で?」
「で? とは?」
次に声を上げたのはマリアだ。だがそれもたったの一言。
問いの意味が分からず、スティアは僅かに首を傾げた。
「それが仮にゴブリンだとして、俺達が足を止める意味はあるのか?」
腕を組み、仁王立ちをして、鼻からフンと息を吐く。その太々しい態度に、俺達は言葉が出せなかった。
ティナとステフも同様だ。何を言っているんだこの聖女は、といった表情をしている。無理もない。
だがそれがマリアという奴なんだ。慣れろ。俺達も唖然としているけど、どうにかして慣れるんだ。
一度皆と顔を見合わせて、代表として俺が突っ込む。
「いやお前。んなこと言ったらよ、斥候の意味がねぇじゃねぇか。情報共有は基本中の基本だろうが。お前、そんな事も分からねぇのか? 頭大丈夫か?」
「失礼な事言うんじゃねぇよ! 俺は大聖女だぞ!? 頭も大聖女なんだよ!」
頭大聖女って何だよ。もう意味分からんぞ。
皆が皆、呆れたようにマリアを見る。それに耐えかねたのだろう。ついにマリアは大きな舌打ちをした。
「こんなところでチマチマやってたら、日が暮れるぞって言ってんだよ。チッ、もういい。オラ行くぞアレス!」
「はっ」
マリアは肩を怒らせて、さっさと前に進み始めてしまった。
別に進むの止めようぜとか、そんな事は言ってないのになぁ。何をカリカリしてんのか分からんぜ。
「聖女様! お待ち下さい!」
ずんずんと進んで行くマリアに、ティナ達二人が慌てて付いて行く。それに俺達はまた顔を見合わせた。
よく分からんが、このままさようならと言うことは流石に無い。これでも一応腐れ縁だ。
俺達も渋々彼らを追う。
「何をあんなに焦っているんでしょう?」
だがその途中、スティアがぽつりと呟いたこの言葉が、俺はどうにも引っ掛かってしまった。
マリアが焦る? 何て似つかわしくない言葉だろう。
あいつはいつも余裕綽々で、何でも自分の思うようになると思っている、唯我独尊野郎である。
焦るなんて事が一体今まで、奴の人生にあったんだろうか。そう疑問に思える程には、奴の性格は太々しかった。
もしあいつが焦るなんて事があったなら。
そう考えた時、俺は不意に空恐ろしいものを感じた。
あの魔族との戦争の最中でも、終始楽しげだったマリア。そんなあいつが焦ると言うのはすなわち、それ以上の危機が迫っていると考えて良い。
最初はまた始まったかと、ただ嫌々ながら付いて行く事にした。だがもしスティアの言う事が正しければ、そんな状況ではないのかもしれない。
こんな辺鄙な山にそんな危機があるとも思えない。だが、人間が立ち入らない山なのだ。
実際どうなのかは誰も知らない。神のみぞ知ると言ったところだった。
俺は前に目を向ける。そこにはアイツの小さな背中があった。
肩を怒らせ先を急ぐマリアの姿。それを見ていると、確かに焦っているようにも見えてくる。
なぜかは分からないが、俺が自動で発動している感情の≪感覚共有≫が、あいつには完全に弾かれている。
だから焦っているのか、単純にイライラしているのか、普段なら分かる相手の感情が、マリア相手だと俺には何も分からなかった。
そんな事情も相まって、俺の嫌な想像はどんどんと膨らんでいく。
俺が見つめるアイツの背中。だがその背中はどうしても、その感情を教えてはくれなかった。
で、だ。
「あら、囲まれていますわね」
山を警戒もなくどんどんと進んで行ったマリア。気づいた時には既に、周囲を取り囲まれている状態だった。
「おい馬鹿、お前突っ込んで行ってんじゃねぇよ!」
「仕方ねぇだろ知らなかったんだから」
「知らないで済むかっ!」
三十は下らない気配が俺達を取り巻いている。
草木の隙間から覗くのは深緑色の肌。小柄な体躯に黄色い双眸。
スティアの言う事はどうやら間違っていなかったらしい。
「くっ……! 不覚……!」
ティナは腰の剣を抜きながら、小さく後悔を吐き出した。だが今更そんな事を呟こうと、状況は決して変わってはくれなかった。