230.王都にて 水の勇者ナレシュ
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何度案内されても見慣れることは無い。故郷では感じた事のない寒さに息を吐きながら、その浅黒い肌を持つ青年は、目抜き通りをゆっくり歩いていた。
灰色の石畳に整然と並ぶ家屋は目にも鮮やかで、白い肌の人々がローブも着ずに賑わう街を歩く姿は、平和を謳歌しているようだ。
故郷と比べた時、同じなのは空の青さと日の光くらいか。
青年はフードの中から空を仰ぎ見る。そこにはいつも目にした太陽が、想像と変わらず輝いていた。
「特別珍しいものも無いかと思いますが、勇者殿には随分とお気に召したようですね」
目を細める青年に、彼の護衛である神殿騎士の内、一人が声を掛けて来くる。
「ああ、私には珍しいものばかりだからな。見ているだけでも楽しいよ。この通りだけとっても、目を見張るものばかりだ。国が違えば文化も変わるとは言うが、こうまで異なる事はそう無いだろう。貴重な経験だ、存分に堪能したいと思う」
「そうですか。それでしたら、お呼びしたこちらにも僥倖な事です。時間のある時にでも声を掛けて頂ければ、またご一緒しましょう」
「ああ、お願いする」
「是非に」
鎧を鳴らして軽く頭を下げたその神殿騎士を、青年はまじまじと見つめる。
その立ち振る舞いは非常に毅然としている。その姿に、青年はふと故郷の兵士達を思い出していた。
青年がこの国に呼ばれて以来、この神殿騎士は彼のお付きとして、ずっと護衛をしてくれている。世話役も兼ねているらしく、彼は甲斐甲斐しく青年の世話を務めてもいた。
まだ半月程度の付き合いだが、そんな姿を見ていた青年は、彼が故郷の兵らに勝るとも劣らない、忠実で清廉な男であると理解していた。
だが実力の方についてはどうだろうか。
想像しつつ、青年は神殿騎士の腰へと視線を移した。
そこに輝く剣――神剣ガルストレ。これを振るう彼、ネイサンの実力は、水の勇者として呼ばれた自分をも遥かに凌駕していた。
彼は神殿騎士の中でも最上位の四人に送られる称号――四天剣と呼ばれる騎士の、その頂点に立つ実力者だ。
何度か手合わせをしているが、この男に本気を出させた事は一度も無い。
英雄譚にも謳われる伝説の勇者として召喚され、浮かれていた自分。それを容赦なく粉砕してくれたこの男の実力は、その身をもって知っていた。
「――どうされました? ナレシュ様」
いつの間にか考え込んでいたようだ。ネイサンに呼ばれ、青年――ナレシュ・ラジェス・ウル=ガウタムは、はっと顔を上げた。
自分を不思議そうに覗き込む空色の瞳には、邪気を欠片も感じない。僅かな不満を覚えていたナレシュはばつの悪さを感じ、つい視線を逸らしてしまった。
「いや。……君は教会の筆頭騎士なのだろう? 皆、もう王都から各地へ散って行ったと言うのに、君は未だに私につきっきりだ。私になど構っていて良いのかと思ってな」
あの凶悪な顔面の枢機卿、ルートヴィッテから聞かされた内容によれば、この地に現れた一人の異端者によって、この国は大きな災禍に見舞われるらしい。
ナレシュはそれを食い止めるため水の勇者として呼ばれる事になり、それを見届けた神殿騎士達は興奮冷めやらぬ様子で各地へ散り、異端者の捜索を始めている。
だと言うのに、その先頭に立つべき人物は未だ自分にかかりきりの状態だ。
「そちらも暇ではないのだろう? ネイサン」
「ナレシュ様」
自分に構う余裕があるのかと、ナレシュは常々抱いていた疑問をぶつけてみる。するとネイサンは表情を引き締め、真剣な眼差しを向けてきた。
「貴方様は我らが主、フォーヴァン様により遣わされた尊きお方なのです。なぜ蔑ろになどできましょう。我らは信じております。きっと貴方様が、我らの未来を切り開いて下さると」
その瞳は真っすぐに彼を捉えている。こんなにも期待に満ちた視線を浴びせられた記憶は、ナレシュには一度だって無い。
真正面から受け止められず、ナレシュは顔を背けて俯いた。
ナレシュの祖国はこの大陸とは別の大陸にある、広い国土を有する大国である。
名はロマネ帝国。皇帝ラダナート十二世が治める、長い歴史を持つ国だ。
その国は広い砂の海――マルデンガンド砂漠の中に存在する。人々は点在するオアシスの周囲に都市を築き、容赦なく肌を焼く日光や酷い渇きと戦いながら、毎日を暮らす事を余儀なくされていた。
そんな国の王宮で、ナレシュは産声を上げた。
父親の名はラダナート・スラィ・ルード=ガウタム。
そう、ナレシュはラダナート十二世の実子として、この世に生を受けたのである。
皇帝の息子として誕生した彼の生活は、誰もが羨むものであっただろう。しかしそれは端から見た時の話。
ナレシュ自身にとってその環境は、ただただ辛いものとしか映らなかった。
理由は二つある。
一つは、彼が第八子であった事。ここまで来ると、もう継承権などあって無いようなものだ。
帝国の気風は実力主義であるが、それでも生まれた順と言うのは王家にとって非常に重い。
彼の立場は羽のように軽く、誰からも期待を寄せられることは無かった。
もう一つは、その実力主義であるという点だった。
ナレシュの得意とする魔法。それが水魔法であった事が、彼の立場をなお悪くした。水の精霊の働きが小さい砂漠の地では、彼の魔法は全くの効果を発揮しなかったのだ。
結果付いた呼び名が、”枯れ井戸ナレシュ”。
砂漠で大きな効果を発揮する火魔法を有する者こそ王家に相応しい。そんな認識がある帝国では、彼はまるでいないも同然の扱いだった。
何者にも期待されず、王家の人間として形だけの敬意を示されて来たナレシュ。
だからこそ、今初めて向けられる期待に満ちたその視線を、真っ向から受け止める事ができなかった。
気恥ずかしさからではない。期待を寄せられたところで、それに応えられない自分があまりにも惨めに思えてならなかったからだ。
「……私の実力など、君の足元にも及ばん。勇者などと言っても結局、英雄譚に語られるような力は無かった。私などよりも、同じ神剣を持つ君らが対処した方が良いのではないのか」
卑屈な気持ちが胸に生まれ、そんな言葉が口から出る。
誰も自分に期待をしていない。そんな中で彼はそれでもと、王家に連なる人間になるべく己を磨いて来た。
だが結局周囲の目は変わらず、彼を見下し続けていた。
王家の人間として、恥ずべき姿を誰かに見せてはならない。ナレシュはそう矜持を掲げて生きて来た。
しかしその皮を剥けば現れるのは、人間不信を抱えた卑屈な青年の姿だった。
「そんな事はありませんよ」
だが目の前の男は、彼の卑屈さを迷いなく両断する。
「貴方様の実力が及ばないのは武器に慣れていない故。それに神剣が力を与えないと言うのも不可解です。もしかしたら、転移の際に何かあったのやもしれません」
ナレシュの国で主に使われているのは、反りの強い曲刀――タルワールと呼ばれる、斬撃に適した武器である。
しかし水の神剣”水女神の涙”は、突きに適したレイピアであった。
扱いの違う武器ならば、本来の実力が出せない事は明白である。
神剣がナレシュに勇者としての力を与えていない、という点もあり、彼が水の勇者本来の実力を発揮できていない事を、ネイサンは当然の事と捉えていた。
「思う通りに運ばない事態ばかりでしょう。だと言うのに、ナレシュ様が一日も欠かさず厳しい訓練を行っている事を、私はよく知っております。このように気候も風土も異なる慣れない地で……。そのお姿を見て、どうして疑いを持つ事が出来ましょう」
そう言いネイサンはにこりと笑みを浮かべた。
「不肖ネイサン。ナレシュ様が本来の実力を発揮されるまで、お付き合いさせて頂きます。すみませんが私は頑固者でして。どうかお覚悟を」
思わぬ台詞にナレシュは目を瞬かせる。
しかし目の前の笑顔にやられてしまい、思わずぷっと吹き出してしまった。
「すまなかった。こちらこそよろしく頼む、ネイサン」
「はっ」
かしゃりと鎧を鳴らし、軽く敬礼するネイサン。それを見るナレシュの顔にも、穏やかな表情が浮かんでいた。
そんな時の事だった。突然周囲の空気がざわりと揺れ、往来していた人々が通りの中央を開け始めたのだ。
馬車でも通るのだろうと予想し、二人も倣って端へ寄る。想像は正しく、通りの向こうから一両の馬車が姿を現し、ゆっくりとこちらへ向かって来た。
それは白塗りの美しい馬車だった。その場の人々がその姿に見惚れる中、ネイサンだけはこれに小さく反応を示した。
「あれは……」
彼の溢した声に、ナレシュは何かと視線を向ける。だがそうこうしている内に、その馬車はどんどんと近づいてくる。
馬車は徐々に速度を緩めていく。そしてついには彼らの前で停止してしまった。
何事かと訝しむナレシュの目の前で馬車の扉が開き、中から一人の男がタラップを踏んで降りてくる。
その男は白い司教服をまとい、荘厳な雰囲気を醸し出している。教会関係者である事が、この国に疎いナレシュにも一目で分かった。
男は二人の前まで歩いてくると、彼らの顔に順繰りに目を向ける。そして最後ににっこりと微笑みを見せた。
「お久しぶりですね、ネイサン。四天剣に名を連ねる貴方の顔が見えましたので、何事かあったかと馬車を止めたのですが。どうやら本日は任務ではないようですね。安心致しました」
「はっ」
敬礼するネイサンに一つ頷くと、その男は今度はナレシュの方に視線を向けた。
顔は慈愛に満ちた笑みを浮かべている。しかしその目にどこか不気味さを感じて、ナレシュの顔には知らず警戒の色が浮かんでいた。
そんなナレシュの表情に何を思うのか、シルヴィオは顔を彼に向けたまま、視線をネイサンへちらりと向ける。
紹介しろと言うのだろう。出来ればしたくなかったがと、ネイサンは観念して口を開いた。
「ナレシュ様。こちらの方はリーデリオン公爵家のご当主にして、我ら聖皇教会の枢機卿も務めておられます、シルヴィオ・ジルド・リーデリオン閣下にございます」
「枢機卿……。ルートヴィッテ殿と同じ」
ネイサンの口調はどうしてか妙に平坦で、ナレシュはそれが気にかかった。
とは言え今聞く事ではあるまいと、それについては一旦胸に留める。
「そうですね。彼とは立場が少々異なりますが、その認識で問題ございませんよ。水の勇者殿」
これに言葉を返したのはシルヴィオだった。彼は優し気な表情でナレシュに向き直る。
「伝説の勇者殿を遣わされるとは、やはりフォーヴァン様は我らを見守っていて下さるのですね。なんと慈悲深い事でしょうか……ありがとうございます、主よ。深く感謝致します」
そして小さく十字を切った。
いつの間にか通りのざわめきは消えていた。突然現れた美しい馬車から教会の高位神官が現れ、往来の中で祈りを捧げ始めたのだ。
状況が状況である。人々は皆口を閉ざし、シルヴィオの姿に視線が釘付けであった。
「勇者殿。この国は、魔族との痛ましい戦いを乗り越えたとは言え、未だに憂いが残っております。どうか我らを――この国に生きる無辜の民を守るため、そのお力をお貸し下さい」
彼の声は穏やかながらよく通った。だが、それは自分へ向けた言葉のはずが、ナレシュにはどうしてかそれが、誰かに言い聞かせるようなものに聞こえていた。
「……ああ。微力を尽くすつもりだ」
彼はただそれだけを返す。だが相手は満足そうに頷いていた。
「ありがたく存じます。何かあれば遠慮なく申し付け下さい。では護衛の方、引き続き頼みましたよ、ネイサン」
そう言って、シルヴィオはその場を去って行った。残された二人も衆目に晒される事になり、その場をすぐに立ち去らざるを得なかった。
「申しわけありません、ナレシュ様」
足を進めながらネイサンが小さく口にする。
「貴方様を政治的な諍いに巻き込むつもりはありませんでした。が、結果そうなってしまったのは私の落ち度です。シルヴィオ様は本来、まだこの時間は王城に留まっているはずだったのですが……どうやら、してやられた様です」
「やはり、先程のあの男には何か目的があったのだな」
「それが――」
ナレシュの追及にネイサンは小声で答え始める。
「今、魔族との戦争によってこの国の上層部は揺れております。具体的には申せませんが、いわゆる権力闘争というものです。我ら教会は基本的に権力とは無関係を貫いており、世俗と縁を切っております。ご存じの通り、私も自身の全てを捨て、神兵としての責務のみを果たしております」
ナレシュは神殿騎士というものについて、以前ネイサンから話を聞いていた。
神殿騎士は、基本的に望めば誰であろうとなる事ができる。しかしそのためには世俗との縁を切り、己――所有物や家族のみならず、名前や立場と言ったもの全て――を捨てなければならなかった。
故に彼のネイサンという名は親から貰ったものではない。ネイサンとは神より賜りし名。つまり洗礼名である。
他の神殿騎士や神官についても同様に、皆洗礼名のみを名乗る事を許されている。
だが、例外と言うものはどんなものにもある。この王国内で絶大な支持を得ている聖皇教会の中であっても。
「しかし先ほどのシルヴィオ様のように、神官の立場であっても世俗との縁を切っていない者もいるのです」
「それは、身分社会故か」
ナレシュの言葉にネイサンは首肯する。
いかに民に受け入れられようと、国を牛耳る貴族に受け入れられなければ、最悪邪教として排除される可能性も捨てきれない。
それ故シルヴィオのように、貴族社会にも顔が効く神官という者が必要とされたのだ。
なおこれはシルヴィオら世俗に残る者達の独断ではなく、三百年前から続く教会の意向である。その意向により、三大公に名を連ねるリーデリオン公爵家、およびそれに近い貴族らは皆、教会存続のため貴族社会に残ったままとなっていた。
「教会は今回の権力闘争により、権威を低下させておりました。そのためそう言った者達は、教会の権威を回復するため、ある計画を立てておりました」
「ある計画?」
「聖女様を祭り上げ、各地を慰問し、民草の信心を集めようと言うものです」
ネイサンは神殿騎士のトップという立場にある男だ。だからこそ、ルートヴィッテからナレシュの護衛役を任された際、その理由を詳細まで聞いていた。
「しかし聖女様が失踪され、計画は頓挫する事に。関係者は今必死になって聖女様を捜索しております。我ら神殿騎士も駆り出されておりますが、それは今問題ではございません」
だと言うのにその務めをまっとうする事ができなかった。
ネイサンの顔には苦渋のしわが深く刻まれていた。
「問題は――貴方様です。ナレシュ様」
「……そうか。担ぐ人間を変えればいいと、そう言うわけだな」
聖女はいなくなったが、代わりに伝説の勇者が現れた。戦後の不安を消すために主神フォーヴァンが遣わしたと宣伝すれば、効果は抜群にあるだろう。
ナレシュも王家の人間だ。その思惑はすぐに理解できた。恐らく宣伝だけで終わらないだろう事も。
「ナレシュ様はもともとこの国とは無関係な方。お力を借りるだけでも心苦しいと言うのに、政治的ないざこざにまで巻き込むなどあってはならない事です。それを防ぐため私は御身を護衛しておりました。が、それも果たせず……。申しわけございません」
ただ、目の前の男がこうまで謝罪するのはどうにも違う気がして、
「君が気にするような事は無い」
そう言って彼はフードの奥から笑みを覗かせた。
「私はこの国を救うために呼ばれたのだろう? なら民草を守る事もまた私の使命なのだ。先程もあの男に言った通り、私は微力を尽くすつもりだ。ただし――」
その笑みは柔らかな表情だったが、一転、にわかに鋭さを増す。
「ロマネ帝国の王族を玩具にしようと言うのなら、その代償は高くつくぞ。不用意に触れようとするならば、その首を斬り落としてくれよう」
思わぬ台詞に足を止めたネイサン。対してナレシュは気にも留めず、一人で前へ歩いていく。
「――と、父上ならば言うだろうな」
それは果たして冗談だったのだろうか。
「どうした、君は私の護衛なのだろう。精々私を守ってくれ。今までのように」
しばらくして振り返り、ネイサンの名をナレシュは呼んだ。
見えた柔らかな表情に安堵した彼は、珍しく慌てて駆け出した。
「行くぞ、ネイサン」
「はっ!」
二人は並んで歩いていく。
その距離は先ほどまでよりも、僅かに近くなっていた。
「ようやく王国に湧いた蛆が消えてくれましたね」
一方、彼らから遠ざかる馬車の中で、一人の男が穏やかな笑みを浮かべていた。
「蛆に産み付けられた卵が残っておりますが、そこはリーデリオンが手を打つと致しましょうか。主も安定を望んでいらっしゃるでしょうからね」
司教服を着るその男は張り付いたような笑みを浮かべ、ゆっくりと走る馬車の中独り言を呟く。
「しかし殿下のあの成長ぶりは、正直目を見張りました。この国もまだまだ安泰……喜ばしい事です」
その笑顔は彼のいつもの表情で――
「残るはあの、殿下に集る小蠅が一匹。きちんと潰して来て下さいよ……フフ」
しかし次の瞬間にんまりと歪んだその表情には、彼の心の内側が、確かにはっきりと浮かんでいた。