221.農場での激戦
雲一つない青空、肌を撫ぜる風、そして地平まで見えそうな広大な草原。そこには沢山の牛達が草を食み、実に長閑な光景が広がっている。
今はもう冬間近。朝方の今は肌寒く、ローブ無しでは辛い季節になってきている。だがそんな中俺達はどうしてか、額に玉のような汗を作り、ローブも脱ぎ、悪戦苦闘している真っ最中だった。
「ブモォォォォッ!」
「おいバドそっちに行ったぞ! 捕まえろ捕まえろ!」
「貴方様ー! バドー! 頑張って下さいましー!」
空に輝く太陽が緑の海原を青々と照らす。そんな穏やかな場所に、腰まで伸びるシルバーブロンドを輝かせた美女からの声援が響いていた。
口元に手を当て、スティアが右手をブンブンと降ってくる。大抵の男であれば、奮起するだろうその光景。
だが俺とバドは今、それどころでは全くなかった。
「くっ――! お前らさっきから邪魔なんだよ! さっさとどきやがれっ、そこの一号二号三号! ぼさっと草食ってる場合じゃねぇぞ! 牛舎に戻ってろ!」
「モー」
「ゥモー」
「モーモー」
ビッと牛舎を指差すが、牛達は聞きゃしねぇ。全く動かずに草をむしゃむしゃと食み続けている。
試しに尻を押してみるが、連中蹴り飛ばそうとしてきやがる。俺は慌てて後ろに飛び退った。
「もーもー!」
「ホシ! お前は遊んでねぇでこっち手伝え!」
「うもー!」
牛の背中にちょこんと乗って、真似をして鳴いている少女、ホシ。
俺がいら立ち紛れに声を飛ばすと、ホシはそれにまた一つ鳴いて返し、牛の背からぴょんと降りる。そして赤い髪を弾ませてこちらに駆けて来た。
「だー! くそっ、こいつら言う事聞きゃしねぇ! おいバド! まだ捕まらねぇか!?」
俺は先ほどバドが走って行った方向へ顔を向ける。だがその先には、真顔ながらしょんぼりした空気をまとう、一人の巨大なマッスルが立っていた。
どうやら取り逃がしてしまったらしい。
「えーちゃん、見て見て! あそこにツノモグラがいっぱいいるよ!」
「ああ? あー……うん」
「あはははは! わーい!」
消沈する男二人をよそに、地面から顔を出すツノモグラ達へホシが駆けて行く。俺とバドはその笑い声に、ため息を吐くしかなかったのだった。
今俺達がいるのは三つの領の境にある、とある農場であった。
三つの領とは、俺達が横断してきたヴァイスマン領と、その東のマイツェン領。そしてその二つの領の南に広がるディストラー領である。
今この場所はマイツェン領に入ってすぐの場所にある。つまりマイツェン領の南西端にあると言うわけだ。
で、どうして農場なんて場所にいて、そこで何をしているのかと言うと。
簡単に言えば仕事だ。この農場主に頼まれて、冒険者としての依頼を果たそうとしている最中だったのだ。
この農場では春から秋にかけての暖かい間、牛を草原に放牧している。だが冬が近くなり寒くなってきたため、そろそろ牛舎に入れようと考えていたそうだ。
しかし冒険者ギルドに依頼をしても、誰も来てくれない。そうして困っていた時、たまたまこの近くを俺達が歩いており、それが農場主の目に止まった、というわけだ。
別に急ぐ理由も無し、俺達は農場主の依頼を二つ返事で受けた。だがまさかこんなにも重労働だとは思っていなかった。
分かっていたらこんな依頼、絶対に受けなかったろう。あの時安請け合いをしてしまった自分を、今は殴り倒したい気分でいっぱいだった。
「あー、まだ捕まらんか。あいつ逃げ足だけは早くてなぁ」
肩を落とす俺達に一人の男が近づいてくる。こいつはトピ。この農場の主であり、俺達にこんな依頼を「簡単だから!」と言って受けさせた悪魔だ。チクショウめ。
「毎年冒険者に頼んでるんだが、あいつ、いっつも暴れちまってなぁ。この間なんか恥ずかしがって冒険者に怪我までさせちまって」
あいつ、と言うのはこの牛達の群れのボスだ。さっきから俺達も捕まえようとしているんだが、なかなか逃げ足が速くて一筋縄ではいかなかった。
だがトピの言うように、恥ずかしがり屋というわけでは絶対にないと断じて言える。
「あのグレイトブルが恥ずかしがり屋だと? 冗談も休み休み言えっ!」
俺はのほほんと言うトピに唾を飛ばした。
どこの農家でも同じだが、草原に動物を放牧する以上、魔物や盗賊に対しての被害はどうしてもある。だが農家も農家で、ただ指を咥えて見ているというわけでは無かった。
農家の者達がとった方法は単純明快だ。動物達の群れを守る用心棒を立てれば良い。
つまり、群れのボスに強い奴を据えればいいんじゃないかと、そういうわけである。
当然この農場にもその強いボスというのがいる。それがグレイトブル。気性が荒いと有名な、大型の牛の魔物だった。
この辺りに生息するのは、強くても精々がランクE程度の魔物だ。だから俺も、群れのボスもその程度だろうと思っていた。
だと言うのに蓋を開ければ、ここにいたのはとんでもない猛獣だったのだ。
もう退役しているが、俺はもともと王国軍第三師団の師団長である。仲間のスティア、ホシ、バドの三人も、それぞれその師団の大隊長だった者達だ。
名ばかり師団長の俺とは違い、三人は軍でも指折りの精鋭だった。だから大抵の魔物なら捕まえるのも難しくないと思っていたというのに。
ムッキムキで鼻息の荒いグレイトブルとご対面だ。奴のランクはC。過剰戦力もいい所である。
詐欺だと依頼主を怒鳴りつけても許されようというものだ。
グレイトブルを生け捕りにするなんてどんな苦行だよ。しかも農場の所有する魔物だから傷つけるわけにもいかない。
今もバドが駆けまわって捕えようとしているが、相手もこちらの力を理解してか、威嚇しながら警戒してあちこち逃げ回っている。
しかも群れの牛達がさりげなく進路に立ち塞がって邪魔をしてくるため、ただ追う事すら難解を極めた。
おかげで先ほどから筋肉男が筋肉牛を追いかけて草原を右往左往している状況だ。全くどんな光景だよ。長閑さの欠片もねぇ。
先に邪魔な牛達を牛舎に戻そうと試みるも、ボスが言う事を聞かずに逃げ回っているためか、群れの牛達もこっちの言う事を聞きゃしない。おかけで先ほどから何も作業が進んでいなかった。
「流石に警戒心が高いですわねぇ。こちらに全然近寄ってきませんわ」
スティアが頬に片手を当て、感心したように漏らす。スティアにはあのグレイトブルを捕まえるために、睡眠の魔法を使ってもらう手はずになっていた。
しかしそもそもが走り回っている上、完全にスティアを避けてやがるため、魔法を放つタイミングが全くないのだ。こうなるとさしものスティアもお手上げのようだ。
今はバドに、スティアのいる方へ奴を追い込んで貰おうと試している。だが効果は今のところ皆無であった。
「ブモォォォォッ!」
「にゃははは! にゃははは!」
どうしたもんかと頭を悩ませる俺の目の前を、グレイトブルが猛然と通り過ぎて行く。そのすぐ後ろをホシが笑いながら走り、最後にバドが必死に追いかけて行った。
進展しない状況に、ホシはもうお遊びモードだ。いや、進展しようがしまいが関係ないだろうけども。
「まあ夕方までに牛舎に入れられればいいから。引き続き頼んだよ」
軽くそう言ってトピは去っていく。だが夕方までにこの調子で何とかなるだろうかと、俺は草原に視線を戻した。
「ブモォォォォッ!」
「にゃははは! にゃははは!」
「モー」
「ゥモー」
草原に響く低いグレイトブルの鳴き声と、甲高い子供の笑い声。多くの牛達もそれを尻目に思い思いに鳴いている。
脱力し、項垂れつつどうしたもんかと鼻でため息を吐く。すると俺の影が何だとでも言うようにゆらりと揺れた。
俺の影に住み着いた仲間、魔物のシャドウ。彼には物や人を影の中に収納する力がある。
それに頼れば牛を牛舎に運ぶなんてのは簡単だろう。しかしそんな事をすればトピには確実にばれる。更に言えばここは隠れる事のできない草原で、誰が見ているとも分からなかった。
シャドウの能力が特異なものである以上、それを無暗に使うような真似は極力避けたい。こんな牛を牛舎に運ぶ、なんてしょうもない話なら尚更だった。
《エイク殿、俺達も手伝うか?》
がりがりと頭をかいていると、突然何者かの声が頭に響く。どうやら手古摺っていると思い声を掛けてきたようだ。
「いや、流石にここじゃあな。ま、作業自体は単純なんだ。気楽にやるさ。あのまま走り回っていたら、あのグレイトブルも疲れてくるだろうしな」
《分かった。だがもし手が必要ならいつでも言ってくれ》
これはシャドウに匿われている魔族、ガザの声だ。彼らとは俺の魔法≪感覚共有≫で、いつでも会話ができる状態にしてあった。
他にも影の中にはオーリ、コルツ、デュポ、そしてロナと、四人の魔族もいるが、代表して話しかけて来たガザが口を噤むと、頭に響いた声はぱたりと消えた。
魔族の力は人族のそれを遥かに超える。だから彼らの力を借りれば簡単に済むかもしれない。
しかし魔族は先の戦争で俺達人族と戦ったばかりの怨敵であり、人族が彼らに持つ感情は非常に悪い。誰かに見られでもしたら一大事だ。
こんな作業にリスクを負う必要など欠片も無いのだ。気持ちだけ受け取っておく事にするのが正解だろう。
「さぁて、どうすっかねぇ」
影から視線を上げると、俺を見ているスティアと目が合った。彼女もどうしたものかと珍しく弱り顔である。
敵を情け容赦なく切り捨てる彼女も、牛相手では形無しらしい。最強かよ牛。
「ブモォォォォッ!」
「にゃははは! にゃははは!」
皆が頭を悩ませる中、呑気な声がやけに耳に響く。その声はどうしてか、俺のやる気を的確に削いだ。
だからだろう。
「仲良くなった!」
「ブモォォッ!」
「何ぃぃッ!?」
ホシが昼前にグレイトブルの背中に乗って、奴を目の前に連れて来た時。俺は理解不能な事態に仰天し、思わず変な声を上げてしまったのだった。
グレイトブルって人間に慣れるのかよ。って、そう言えばコイツただの魔物じゃなく、人間の農場に放たれてる魔物だったわ。
「おー、やっと捕まったかね。ご苦労さんだ」
大人しくなったグレイトブルを見て、トピも呑気に寄ってくる。彼が体をばしばし叩くと、グレイトブルも気持ちよさそうに目を細めていた。
「グレイトブルって、かなり気性の荒い魔物のはずなんですけれど……」
信じられないものを見たように、スティアがぽつりとつぶやく。だが目の前にあるのは、ホシを背中に乗せて体を叩かれている筋肉質な牛の姿だ。
「俺も……そう思ってたよ」
例外と言うのはどこにでもあるらしい。でもそんな事実は、できればこんな苦労をする前に知りたかった。
思わずバドに目を向ける。ここ数時間走り続けだった彼は、気が抜けたのかその場にドシンと尻を突いた。