幕間.微笑みの意味は
ここはヴァイスマン領の南東に広がる領、ディストラー。帝国との国境に沿うように東西に伸びる、辺境伯が治める場所である。
辺境伯と言うと田舎貴族と思う者もいるかもしれないが、実際は全く異なる。
辺境伯は国境近くの領を治め、国境の向こうに存在する脅威から国を守る国防の要だ。それゆえ万を超える軍隊を持つ事を許容され――伯爵以上の貴族は数千の私兵団止まりだ――辺境伯の裁量でそれを動かす権限も与えられている。
位としては侯爵と伯爵の間に位置する辺境伯。しかし軍事的には、ともすれば侯爵家よりも大きな権限を持っていると言ってもよい。
つまりディストラー辺境伯は帝国との国境を守護する、王国が誇る大貴族の一人であるのだ。
そんな理由から他の領と比較して、ディストラー領内の町には衛兵の姿が多く見られる。
辺境を守る兵である彼らは、日々緊張感を持ち国境を守っている。それ故、顔つきや体つき、そして立ち振る舞いは非常に精悍であった。
そんな彼らが守るこの領の治安は格段に良いのだろう。この領に疎い者ならそう思う所だろうが、だが違う。
残念ながら、実際はその想像と現実はかなりの隔たりがあるものだった。
このディストラー辺境伯は、大盗賊団”汚れ狼”が根を張る、非常に治安の悪い場所として有名だった。
町中に入り込んだ盗賊団は、甘い言葉で人々を攫い、騙し、殺し、全てを奪った。
そんな盗賊達へ衛兵達は目を光らせるが、盗賊達も馬鹿ではなく、簡単に尻尾を捕まえさせなかった。
衛兵達と盗賊達との戦いは、この領で長い間繰り広げられてきた。これに辺境伯も頭を悩ませてはいたが、しかし情勢に不安がある帝国にも目を光らせなくてはならない。
大規模に戦力を動かせばそこを突かれる恐れもあり、不用意な行動は罷りならず、大体的な行動は制限せざるを得なかったのだ。
そんな事情から盗賊団の本拠地を掴む事ができず、ディストラーは領内に盗賊達をのさばらせる結果となってしまった。
そんな状況が一変したのは、つい最近の事。オーレンドルフ領主からの、一通の書状だった。
その内容は一言で言って、目には目を、歯には歯を。オーレンドルフ領に根を張る盗賊団、天秤山賊団と協力し、”汚れ狼”を殲滅しようというものであった。
手紙には、天秤山賊団が”汚れ狼”の本拠地に関する情報を知っているため、彼らを利用しようと記載がなされていた。これをディストラー辺境伯は訝しんだが、しかし、天秤山賊団の現頭目が第三師団の長であると言う事実が、最終的に彼の背中を押した。
天秤山賊団とディストラー辺境伯の挟撃により、長年ディストラーでのさばってきた”汚れ狼”はついに殲滅された。残党も領から散ったらしく、領内で度々発生していた事件も、それ以降一回も起きていない。
すこぶる治安の悪かったディストラー領。だが今は以前とは比較にならない程に、領内には平穏が訪れていたのだった。
「はー、本当に平和なもんですねー。前来た時とは大違いですよ、結構結構」
特に声量を押さえる事なく、独り言を溢しながら一人の女性が歩いている。
大きな背嚢を背負い、 長いピンクブロンドを後頭部で一まとめにした、小柄な女性。彼女がキョロキョロと周囲を伺うたびに、後ろのポニーテールがゆらゆらと揺れる。彼女の足取りは弾むように軽く、顔には笑顔。端から見ると実に楽し気だ。
しかし見る者が見ればすぐに分かっただろう。彼女の足音が、全くしていないという事に。
彼女の名前はローズ。ルーデイルでエイクらに接触した、情報屋として活動する女性である。
スティアからの依頼、”断罪の剣”に関する調査を受けたローズ。彼女は今それを調べるため、こうしてディストラー辺境伯領にまで足を運んでいたのであった。
以前、彼女はこの領に別件で来た事があった。
その時には不幸にも、一人でうろつく彼女を狙った盗賊団に襲われ、散々な目に遭う事になった。なので彼女にとってこの領はあまり良い思い出が無い場所だった。
しかし今はそんな不穏な空気は全く感じない。敏感な嗅覚でそれを感じ取った彼女は、今回は厄介な目とは縁が無いだろうと、機嫌が普段より上向きであった。
「しっかし、随分と面倒な事になっているようですねー、おじさんは。私もここまでとは、ちょっと思いませんでしたよー」
ただ、それに一瞬の陰りが見える。依頼の調査を一旦終えた彼女は、”断罪の剣”についての情報をスティアに伝えるべく、またヴァイスマン領へ引き返そうとしていたのだが。
この内容が想像以上に物騒なものであり、つい標的のエイクに対して同情の念を抱いてしまっていた。
「暗殺者集団、”断罪の剣”。その内四人が王国入りしている、と。一人二人ならともかくこれは。流石の師団長様にも無理がありますかねー」
この大陸のあちこちで暗躍している”断罪の剣”。その噂は調査依頼を受ける前から、情報屋であるローズの耳には入っていた。
その内容はどれもきな臭い話ばかりである。中には前聖王呪殺も彼らの仕業だったのではないか、と言うものもあった。
聞こえてくるのはいずれも物騒な噂しかない。ただそんな多くの噂から、ローズはこの依頼の調査を受ける以前より、一つの事実を導き出していた。
(ちょっと急いだほうがいいかもしれませんね。恐らく相手の実力はSランク相当……。あの四人の実力でも、相手も四人では、退けるのはかなり難しい様に思います)
しかも敵は暗殺に長けた集団だ。正直に真正面からぶつかると言う事は無いだろう。
依頼人が先に殺されては情報屋の名折れだと、ローズは足早に町を抜けていく。
そんな時、正面から騎士の一団が歩いてくるのが彼女の目に映った。
邪魔にならないよう右端に寄る。そんな彼女の横を一団はわき目も降らず通り過ぎていく――かと思いきや。
「そこのお嬢さん。少し話を聞きたいのだが、良いだろうか」
「はい?」
三人の神殿騎士は、何を見咎めたのか、ローズの方を向いて足を止めたのだ。
「この辺りで、金髪で可憐な、美しい少女を見なかっただろうか。一目見ればすぐに分かる程に、それはもう美しい方なのだが。もし見かけていたら教えて欲しいのだが……」
この商売をしていると危険な橋を渡る事もある。なのでローズは内心身構えていたのだが、その言葉を聞いてすぐに警戒を解いた。
ただ探し人について教えて欲しかっただけらしい。ローズは愛想笑いを顔に浮かべ、首を横に振った。
「金髪の美少女ですかー。残念ですけど、見た覚えはありませんねー」
「そうか……大柄な男はどうだろう? 二メートル程の大男で、巨大なハルバード――槍と斧が一つになったような武器を持っている者なのだが」
神殿騎士は困ったように言う。確かに巨大なハルバードを持った大男など、一度見たら忘れようがないだろう。
だが当然ローズはこれにも首を横に振る。神殿騎士達は頷いた後ローズに礼を言い、足早にその場を立ち去って行った。
ローズはその背中を見送りながら思う。
(なるほど、聖女様の捜索ですか。神殿騎士を撒いて、はてさて一体どこへ行ったんでしょうね?)
金髪の美少女に、斧槍の大男。これが聖女と護衛の戦士の二人だと、情報屋のローズはすぐに見抜いた。
なら神殿騎士達の焦りようも頷ける。彼女はそう考えながらも、立ち去る神殿騎士達の呟きを職業柄聞き逃していなかった。
「異端者エイクも未だ見つからんとはな。見つかればすぐにでも剣の錆にしてくれると言うのに」
「そちらは我らの担当ではない。まずは聖女様だ。もしあの方に何かあったりでもしたら大事だぞ」
「分かっている」
小声で交わした言葉だが、ローズの耳には届いていた。彼女は何食わぬ顔で彼らへ背を向け反対方向へ歩き出す。
(いよいよ時間が無くなってきたようですね。やれやれ、私も急ぎますか。おじさん達のために、ね)
彼女の口元がゆるりと弧を描く。突然浮かんだ微笑は一体、何を意味するのだろう。
その理由は彼女自身以外には、誰にも分らないままだった。