幕間.似て非なるもの
ヴァイスマン領の中央より北に位置する場所に、一つの大きな町があった。
その町の名はローマイン。人口一万弱の、王国内でもかなり大きな規模を誇る町だった。
この町には目立った産業はあまりない。しかし賑わいにおいては中々に目を瞠る町でもあった。
その理由はたったの一つ。南に広がる大草原、ヴァイスマン領が誇るルトビアーシュ平原の存在であった。
この王国内で資源の宝庫と言えば、誰もがゼーベルク山脈の麓に広がる森だと答えるだろう。
王国を横断するように広がるその森はあまりにも広大であり、国外ですら知る者も多い。民なら赤子ですら知っている、と言っても過言ではない程には、この国の常識となっていた。
だがしかし。知名度は劣るがルトビアーシュ平原もまた、多くの資源を入手できる場所として有名であった。
この平原には魔物だけでなく、大型の動物も生息しているという、独特の生態系が作られている。それらの毛皮や牙は蒐集品としての価値が高く、貴族が買い求める事も少なくなかった。
加えてルトビアーシュ平原は危険性から見れば、ゼーベルク山脈麓の森よりも安全な場所であった。
そんな場所故に駆け出しの冒険者達や出稼ぎの狩人達がローマインに集まり、それを目当てに商人達が集まる。こうして人の集まる流れができた町は、瞬く間に大きくなっていったのだ。
魔族との戦争でルトビアーシュ平原が戦場となった事で、町に集まる人の姿は今、明らかに少なくなっている。
しかしヴァイスマン伯爵が部下に調査を命じたところ、平原の生態系には大きな影響はないようだとの報告が上がっていた。
加えて、領内にある町村の被害も比較的軽微なものだった。魔族達はこの領でも略奪や虐殺を行っていたが、物資の調達を重視していたらしく、抵抗せず差し出せば人々を無暗に襲わなかったようなのだ。
更に、抵抗の激しい場所はすぐに略奪を諦めたという報告もあって、物的および人的被害は最小限だったと言っても良い。
であれば国内が安定すれば領内も落ち着き、ローマインにも再び人が戻るだろう。
ヴァイスマン領を統治する彼、ホルスト・イグナーツ・ヴァイスマンは、そう推察をしていた。
領内の安定に、騎士や兵士達を総動員している。彼の三人の息子達も、それぞれの強みを生かして領のため力を尽くしている。
悩みのタネだった素行の悪かった三男などは、孤児院を作りたいと申し出た上自分で資金繰りをし、精力的に動いている程だ。
戦争は何一つ王国に益をもたらさなかった。賠償金も得られず、政治的に優位に立ったわけでもなく、国土が拡大したわけでもなければ資源が増えたわけでもない。
ただ国が荒れ、国力が低下し、物資も金も不足し、皆が疲弊しただけだった。
良い事を何も運んで来なかった戦争。しかしヴァイスマン伯爵家にはたったの一つだけ、小さな喜びを運んできた。
それが父としての不甲斐なさを露呈する事になろうとも、ホルストは確かに三男イザークの成長に、これ以上ない嬉しさを覚えたのだ。
この領の将来はきっと安泰だ。そう安堵しつつ彼は荒れた領を立て直すため、執務に毎日を励んでいた。
しかしそんな時、予想だにしなかった報せが彼の耳に飛び込んできた。その報せはまさかの人物からで、それがまたホルストを驚かせたのであった。
ローマイン中央に立つ城の一室で、ホルストは執務机に座り、一通の羊皮紙に目を落としている。
何度見返そうと同じ内容にため息が出る。彼は手紙を机の上に置くと、悩まし気な表情で目を閉じた。
「父上。……父上?」
「はっ? な、何だ?」
しばらくそうしていたところ、突然声を掛けられて彼はバッと顔を上げる。視線を上げた先には困った顔をした長男――ルーカス・フィリップ・ヴァイスマンが立っており、ホルストは驚きに目を見開いた。
「すみません。ノックをしてもお返事が無かったのですが、急ぎの要件がありまして。それで覗いてみれば何やら唸っておいででしたので、つい」
「ああ、そうか……。全く気が付かなかったよ」
情けない父の姿に、息子が心配そうな顔を向けてくる。ホルストは笑うしかなかった。
「その羊皮紙が何か?」
「いや、うん。これはエンリケス子爵からだよ。どうやら今回の不祥事を、私に擁護してもらいたいそうだ」
「……父上。私にも見せて頂けますか?」
怒りを滲ませる声を上げたルーカスに、ホルストは手招きして羊皮紙を差し出す。
足早に近寄り受け取ったルーカスは、それに素早く目を通した後、眉を吊り上げて大きな声を上げた。
「恥知らずな! イザークを襲った上、それをこちらに擁護して貰いたいなど! 素直にクンツェンドルフにでもすり寄れば良いものを!」
イザークが開く孤児院を襲った相手が、その身内に擁護を嘆願している。あまりにも手前勝手な内容に、ルーカスの顔は怒りで赤く染まった。
「まあ、そうだな。これは流石に無視しても良いだろう」
「良いだろう、じゃありません! そうして然るべきです、父上! 直ちにエンリケス家を代官から降ろし、別の者を派遣しましょう! いえ、して下さい!」
「う、うむ。そうだな、分かった……」
息子の怒りに押される父親。しかしこれはヴァイスマン家ではいつもの事だ。
渋々と言った様子で頷くホルストに、ルーカスは僅かにいら立ちを滲ませながら、大きな独り言を口から溢した。
「全く、エイク殿の手紙が来てからと言うもの、悪い話ばかり。たまには良い話が聞きたいものだ……っ!」
つい出てしまった一言だった。しかしホルストはこれを聞き咎める。
「ルーカス、エイク殿のせいではないだろう。あまりそう悪し様に言うものじゃない。彼はヴァイスマン家を助けてくれたのだからね」
「……っ。分かって、おります」
眉尻を下げるホルスト。これにルーカスはばつの悪そうな声を返した。
もう半月以上も前の事だ。彼らの手元に、思ってもいない人物からの手紙が届いた。それはまさかの悪名高き第三師団長からの手紙であり、二人は仰天したものだった。
驚きつつ内容を確認した二人。しかしそこに記された内容に、ルーカスは眉間に深いしわを寄せる。
そしてこう言ったのだ。この内容が本当だとは限らないと。
彼の言う事も最もだった。手紙の内容はかなり暈したもので、とある町の問題をフリッツという青年が解決したとしか書かれていなかったからだ。
もちろんルーカスは、受け取ったこの手紙が黄鳩便で送られてきた物だという事情を十分理解していた。だからこそヴァイスマン家の醜聞に当たるこの内容を、相手が暈したのだともすぐに察していた。
だがそのために、信憑性に欠けてしまう事も事実だった。
この内容で事実と断定するにはあまりにも情報が足りな過ぎる。ルーカスの反応は何らおかしいものでは無く、至極当然のものであったろう。
しかしホルストには確信があった。あの彼がこんな嘘などつくはずが無いと。
「エイク殿はそんな無駄な事はしない方だ。きっと彼はグレッシェルにいたのだ。そしてフリッツ殿の力になってくれたんだろう」
息子に対して首を横に振る父親に、ルーカスはまたかと呆れたものだ。
父はあまりにも人が良すぎる。あの元山賊と知られる第三師団長の事も、全面的に信頼している様子なのだ。
だが相手は様々な噂がある男だ。確かに、三男イザークを真っ当な人間にしてくれた事には感謝する。
しかしそれだけで、ルーカスは父ほどに、あの男を信じる気にはなれなかった。
エイクからの報を受け、ヴァイスマン家は即座に早馬を飛ばす。だがそれより数日後、グレッシェル家からの早馬が届き、彼らは事情を知る事となった。
当主代理の使者と名乗った、ヘルマンという男から渡された手紙。そこにはエイクから知らされた事情の詳細が綴られていたのだ。
なお、その使者と言うには大分粗野な男をルーカスは訝しんだが、しかし彼に同行していた騎士ロドルフ――グレッシェルの町で団長を任せている男だ――も問題ないと口添えし、領主のホルストもこれを受け取った。
そうして今は当主代理のフリッツを、当主として認めるよう手続きを行っている最中である。こうしてグレッシェルの一件は幕を引いた。
「ですが……最近の我が家は良くない事ばかり立て続けに起こっております。何者かの陰謀でもあるのではないかと疑いたくなる程に」
「陰謀……。クンツェンドルフか」
だが今度は別件のいらぬ騒動だ。
グレッシェルは父にとって特別な意味を持っていた。心労はかなりのもののはず。
父をもういらぬ騒動で煩わせたくない。ルーカスが苛立ってしまうのも父を思うが故であり、父を尊敬する息子としては、抱いて無理のない感情であった。
元々グレッシェルの問題については、ホルストも把握していた事だった。
何も手を打たなかったわけではない。様々な要因があり、今回の騒動を招く事になってしまったのだ。
まだホルストが成人前の話だ。ヴァイスマン家の当主が急逝し、突然彼が家を継がねばならない事態となった。
当然引継ぎも何もなく、領の事も政治の事も、ホルストは何も分からないまま当主の座に座る事となってしまった。
当主を支える者達は大勢いる。しかし船頭無くして船は進まない。
予想外の事態に伯爵家は大きく揺れる事となる。だがこの事態にいち早く動き、ホルストを手厚く支えてくれた貴族がいた。
それがグレッシェル子爵家だったのだ。
当時の当主エッカルト・グレッシェルは、自らローマインに赴き、領主として必要な知識、考え方、そして心構えを、惜しみなく彼へ指南した。
エッカルトはヴァイスマン領でも名高い、善政に辣腕を振るう貴族であり、人の良いホルストとの相性は抜群だった。
ホルストは彼の志を正確に受け継ぎ、彼同様に民を思う善良な領主となる。そして彼の篤実な精神に心を打たれ、家臣でしかないエッカルトを尊敬し、何かあれば報いたいと、深く思っていた。
だがその思いは果たせぬまま、エッカルトは領に戻った後に急逝する。本人への恩返しは叶わなかったのだ。
失意の中、エッカルトの葬儀に出席したホルスト。そこで彼はエッカルトの息子、ゲオルクと出会う。
彼は思った。きっと父を亡くしたゲオルクもまた、以前の自分同様に困る事もあるはずだ。
なら今度は自分の番。エッカルトから教わった事を教え、自分が彼を支えよう、と。
そうして彼とゲオルクの交流が始まる。最初の内は不穏な話などは無く、年一回程度のやり取りが二人の間で続いた。
不穏な話が入るようになったのは、それから数年後の事だ。町の民や妻に迎えた男爵家の女性を、ゲオルクが度々暴行しているようだと、騎士から報告が上がってきたのだ。
これにホルストは悩んだものの、ゲオルクへ真実を問う手紙を出した。返ってきた物は誤解だという内容で、彼はほっと胸をなで下ろした。
しかし年を追うごとに、騎士達からのそう言った類の連絡が増えて行く事態となる。その度にホルストはゲオルクへ手紙を送ったが、最初の内はあった返信も徐々に少なく無くなっていった。
そして騎士達からの報告も、ある時を境にぱたりと無くなってしまったのだ。
領主からの連絡に返事すら出さないというのはあり得ない。グレッシェルで何かあるのだとホルストは考え始める。しかしその度に、彼の脳裏に大恩あるエッカルト子爵の姿がちらついた。
相手はあのエッカルト殿の息子なのだ。絶対に考え直してくれるはず。
そう思うホルストは手紙を認めるだけに留めるが、しかしゲオルクがその思いに応えてくれることは無く。それどころかその更に数年後、もっと悪い事態が起きてしまう事となる。
まさかの三大公の一、クンツェンドルフからの、手出し無用との横槍だった。
領内の治政は国王より領主に一任されている。いかに公爵家とはいえ口を挟む余地はない。
だがそれは正攻法での話。
貴族らが通う学院への入学禁止。王宮魔術師団への入隊拒否。
権力に物を言わせてのやり様などいくらでもあった。
仮に領内の部下らにそんな事をされたら、それは領主への不満となり、領内の治安に影響を及ぼしかねない。
さらに彼には魔法に卓越した腕を持つ次男もいた。
ホルストはただ指をくわえ、見て見ぬふりをし続ける事を余儀なくされる。結果彼は何もできぬまま、結末をこんな形で知る事になってしまった。
もっとやり様があったのではないか。彼は自分の不甲斐なさに顔を覆いたい気持ちで一杯だった。
「どうあれ責めは領主である私にも及ぶだろう。いや……もとより責任は私にあるのだ。何もできなかった私に」
「父上……」
領内で起きた不祥事なら、領主が責任を問われるのは当然の事。だが今回はそれが立て続けに起こったのだ。領主の才覚を疑われても当然の事態だった。
いかにそこに権力者の影がちらついていたとしても。
「お前達も常々言っていただろう。私は甘すぎると。時には厳しくなければいけないと。……私には向いてなど無かったのだ。三十年以上領主をやってきて、私自身そう思う。情けない事だがな」
「そんな事は! 父上を慕う家臣も多いではないですかっ。皆の気持ちに寄り添い政治を行っておられる父上を、私は心から尊敬しております……!」
ルーカスの言うように、確かにホルストは部下からの信頼篤い男だった。しかし同時に、彼は優しすぎる男でもあった。
「近いうちに、お前に家督を譲ろうと思う。何、もしかしたらこのような事態がまた起きるかもしれん。私が全て持って行く。安心しなさい」
この優しさは善き人間には温かさと映り、悪しき人間には甘さと映った。
その甘さを突かれた事が、今回の事態の原因だ。そうホルストは確信していた。
「早いか遅いかの違いでしかないと思い、頼まれてくれないか、ルーカス。何、引継ぎもある。今すぐという話ではない」
「父上……」
父の意思が固い事を感じ取り、ルーカスは歯噛みしながら首を縦に振った。
これに返されたのは安堵の笑み。しかし悲しさも感じるそれに、長男は父の無念を感じ取り、すとんと肩を落とした。