幕間.現役復帰
「むぅ、今日は上手くいくと思ったのじゃが……中々上手く行かんな」
「あの、あれはかなり微細な加減が要求されますから。先生はその、解呪に特化されておりますし――」
「世辞はいらんわ。できんものはできん。それだけじゃ」
地下に作られた広い部屋で、二人の男が面と向かって話をしている。
一人は白髪交じりの中年の男、ヴァシリー・プリンチピーニ。小太りで上背の低い彼は、背中を丸めて椅子に座っている。
その向かいに座っているのは、かつて解呪の大家とも呼ばれていた老爺、バラージィ・リンゲールだ。彼はヴァシリーとは対照的に、いつも通りの厳めしい表情で、腕を組み背もたれに体を預けていた。
二人は顔を突き合わせながら先程までの事を話している。ヴァシリーが見せるのは困ったような顔だ。しかしそれに対してバラージイが見せるのは、悔しさと楽しさが交じり合った、複雑な表情だった。
運命神の導きによるものか、グレッシェル前代官の騒動によって、偶然引き合わされた二人。
彼らはあの後一旦住居へ帰ったものの、再びグレッシェルの町に戻り、今はヴァシリーが見つけたと言う治療法について研究に勤しんでいた。
「とは言えこれはお主の言う通り、儂にとっては針に糸を通すようなものじゃな。儂のやり方では改善するどころか、逆に悪化させる事にもなりかねん。お主、よく人間で試してみようと思ったな」
「ははは……もちろん最初は自分で試しましたよ。ですが幸い上手くいきまして。私は先生程腕が良くありませんでしたから、逆にそれが良かったのでしょう」
その治療法は、怪我や風邪で苦しむ人の苦痛や症状を、解呪と同じ要領で緩和、改善するというものだ。
これを知ったバラージィはその手法に大いに興味を示し、解呪と並行して治療法の研究にも乗り出していた。
しかし手法は同じものの、その治療法は解呪とは異なる方向に難しいものだった。
剣を作る場合で例えると、機能美第一の実戦用と、装飾美に重きを置く儀礼用では、打ち手に要求される技能が異なるようなものか。
どちらも繊細な力加減を求められる作業だが、力の使い方が異なる。
解呪の要領で治療を行おうとするとどうなるか。儀礼用を実戦用に変えてしまう事となり、望んだ結果が得られない。そればかりか、人体に悪影響を及ぼす結果になってしまったのだ。
長年解呪の腕を磨いてきたバラージィにとって、治療対象のマナを正常に戻すといえば、当然解呪の方法をとる。
ヴァシリーに説明され、治療方法のやり方は頭に入っている。しかし長年行い染みついたやり方を簡単に変えられようはずもなく、思うようにいかないバラージィは、毎日歯痒い思いをしながら過ごして――
「なんの。儂もすぐに習得し、追いついて見せよう。なあヴァシリー”先生”?」
は、いなかった。
ニヤリと不敵に笑うかつての師。これにヴァシリーは渋い顔をする。
「先生、それはもうお止め下さい。お戯れが過ぎます」
「何を言っとる、お前は儂に指南する立場じゃろうが。何も間違っておらん」
「私にとっても先生は先生なのですよ? 何だかむず痒いというか……正直気持ち悪いです」
「気持ち悪いか! ハッハッハ、お前も言うようになった! あの鼻たれが!」
二人が師弟関係にあったのは、もう四十年も前の事だ。当時のヴァシリーはまだ十六で、成人して間もない、少年と言ってもよい年だった。
その時の姿を思い出し、バラージィはからからと笑う。対してヴァシリーは複雑そうに眉を八の字にしていた。
いつの世も、昔を引き合いに出して揶揄う大人以上に厄介なものはない。
どうにも言えず黙るヴァシリー。バラージィは一人満足するまで笑い、そしてまた彼に目を向けた。
「さて、そろそろもう一人の門弟が来るのではないか? 頼んだぞ、先生よ」
「はぁ。私はあまり、そう言った性分では無いんですけどね」
「お主ももう良い年じゃろうが。本来ならもっと門弟を抱えていてもおかしくないのじゃぞ? 早く慣れろ」
ばつが悪そうに頭を掻くかつての弟子。そんな彼をバラージィがじっとりと眺めていると、部屋のドアがノックもなしに開かれた。
反射的に、ヴァシリーとバラージィの目がそちらに向く。彼らの目には、部屋に入ってくる二人の女性の姿が映った。
「ヴァシリー先生、お待たせしました」
そう言って彼のそばに足を進めたのは一人の女性。ヴァイスマン騎士団の一人、フェリシア・オーバリーだった。
普段は騎士として鎧や制服をきっちりと着ている彼女だが、非番の今日、着ているのは女性らしいゆったりとした衣服である。
姿だけ見れば可憐な女性だ。しかし、立ち振る舞いは完全に騎士のそれだった。
「遅くなり申し訳ありません」
「ああ、いえ。構いませんよ。そちらもお忙しいでしょうし」
彼女はヴァシリーの前に立つと、僅かに頭を下げる。そんな整然とした仕草にむず痒さを感じてしまい、ヴァシリーは苦笑しながら頬を掻いた。
弟子の情けない姿にやれやれと肩をすくめるバラージィ。だがそんな彼と同じように、しかし異なる意味でため息を吐いたのが、もう一人の老女だった。
「忙しいのはこっちだよ、全く。あんなバタバタが終わったと思ったら、今度は居候二人に駆け込み弟子が一人だ。短い余生を穏やかに終わらせてやろうって気が無いのかねぇ」
ぐちぐちと言い始めた老女に三人の視線が集まる。そんな彼らの視線をその身に集めた彼女、フレドリカ・オーバリーは、今度は見せつけるように深いため息を吐いた。
グレッシェル前代官を捕縛したあの事件を終えた後、フレドリカは一人自宅に戻っていた。
傭兵達とのいざこざから、彼女はエイク達四人を家に泊め、仕事の手伝いをさせていた。しかしその後、三人娘やバラージィなどが集まってきて、最終的に十人近い人間を長期間、自宅に泊める事になったのだ。
前代官の息子フリッツが呪いに倒れていた事もあって、その時は何も感じなかった。しかし長い間一人で静かに暮らしてきた彼女にとって、その賑やかな期間は、精神的な疲労を覚えるには十分過ぎた。
どっと押し寄せた疲労にほっと息をつき、少しゆっくりしようかと思っていた。だと言うのに、どうしてかまた人が集まってくる。
確かに彼らを受け入れたのは自分だ。しかし状況がなし崩し的だった事もあって、もやもやとしたものが胸に溜まってしまい、フレドリカは愚痴を言わずにはいられなかったのである。
「お、大叔母様」
「アンタもたまには食事くらい用意しな。全く、アンタもう二十二だろう。だってのに料理の一つもできないなんて情けない……。薬の作り方なんてより、料理を覚えた方が役に立つと思うけどねぇ」
最初に彼女の家を訪れたのはフェリシアだった。
彼女は突然フレドリカの前に現れ頼み込んだのだ。彼女の持つ、薬を作る知識を自分に授けて欲しいと。
フェリシアは言った。今まで騎士として精進する事が、この町のためになると思っていた。しかしそれだけではまだ足りない。もっと自分は人間としての経験を積まなければ、守りたいものも守れない。
まずはこのスラムの人々を助けるため、その叡智を学びたい。フェリシアはそう言って深々と頭を下げたのだ。
フレドリカにとって、この話は渡りに船だった。
彼女が習得した薬学の知識は、ただの知識ではない。大恩あるグレッシェル前々代官、そしてその奥様から教わった、大切な思い出だったのだ。
彼女が死ねば、これを伝える者はいなくなる。後継者が必要だと思いつつも、そんな伝手もなく、彼女は半ば諦めかけていたのだ。
お互いの思惑が上手く一致し、二人は師弟関係を築く。そうしてフェリシアは非番の日のみ彼女の家に赴き、薬の知識を学ぶ事になったのだ。
まあ、ここまでは良かった。
そのすぐ後、彼女の家を一人の男が訪れる。それがバラージィだった。
彼は馬車に積んだ大量の荷物と共に彼女の家を訪れ、置いて欲しいと頼み込んだのだ。
話を聞けば、家を引き払って来たらしい。
そこまで聞けば、流石の老婆も鬼ではない。帰れとも言えず、首を縦に振るしかなかった。
幸いにして彼女の家の地下は拡張され、部屋がいくらでも空いている。どこでも好きに使えと伝え、住むことを許しはした。
ただそのまた後に、バラージィを追ってヴァシリーも来るとは彼女も思っていなかった。そしてその三人が家事を何もしない、なんて事も、全く想像していなかった。
ヴァシリーが来た事で、フェリシアは彼にも頭を下げ、治療法の指南を受ける事となった。結果、彼女はもう殆ど住み込みの状態だ。
意図せず三人分の家事を行う羽目になった老婆。まさか隠居どころか現役ばりに働かなくてはいけなくなるとは、一体誰が思ったろう。
文句を言いたくなる気持ちも湧いて然るべき状況だった。
「ご、ご婦人。お嬢さんは忙しい合間を縫ってやっているんじゃ。大目に見たら――」
「ならアンタが代わりにやってくれるかい?」
「い、いや。う、うむ。分かった……。そう胸を張れるもんじゃないが……今日の晩飯は儂が作ろう」
バラージィが慌てて立ち上がるも、遅すぎると老婆は腰に両手を当てた。
「全く、言わなきゃ全然やらないんだから。アンタら、メイドでも欲しかったのかい? ならこんな引退したババアじゃなく、もっと若い子を雇うんだね」
「い、いや、違うぞ! 分かった! 全部儂がやる! じゃからそう怒らんでくれ! な!?」
イラつきを隠さない老婆に、老爺はみっともない程に慌て出す。必死に機嫌を取ろうとするバラージィ。これにフェリシアとヴァシリーは顔を見合わせた。
普段は厳めしい顔をして、面白くもなさそうな話し方をするバラージィ。しかし老婆に対してだけは、妙に凛々しい表情を見せていた。
これに気付かない程二人は鈍感ではない。
自分の師。自分の大叔母。二人はそれぞれの立場から、老爺と老婆の恋の行方を温かく見守ろうとしていた。
「こらヴァシリー! お主も何とか言わんか!」
黙って見ている二人に、バラージィからSOSが入る。
しかしこれに返ってきたのは情けない一言だった。
「私はお手伝いしようとしましたよ。でも、逆に仕事を増やすだけだからやるなと言われまして」
「……そう言えばお主、昔から不器用じゃったな」
解呪に関しては人並み以上の腕を見せた弟子。しかしそれ以外は何をやっても駄目だった事を、師はおぼろげな記憶から引っ張り出した。
頼りない台詞に微妙な空気が漂う。しかしその空気を作った張本人は、大丈夫だと笑みを見せた。
「ですが、私の妻もこっちに呼びましたから。少しはお手伝いができるかと――」
「な、何!? お主結婚しとったのか!?」
「え? ああ、まあ、はい。娘もいますが」
「む、娘も!? まあはいじゃないわ馬鹿者! なぜ言わん!?」
バラージィは突然の報告に驚愕する。だが当のヴァシリーは、何を驚いているのかときょとんとしていた。
唾を飛ばす勢いでわめくバラージィに、どうしたら良いか分からずフェリシアは一人オロオロと視線をさまよわせる。
そんな光景を前にして、フレドリカはまた人が増えるのかと、今日一番のため息を吐いた。