220.王家からの書状
「どうか! どうかお願い致します! 閣下にお目通りを!」
王都東側にある貴族街の一角で、慌てたような声が響いている。
発しているのは若い男だ。彼はとある屋敷の門の前で、門衛にすがり必死に声を上げていた。
しかし門衛たちはそんな男に目もくれず、前を向いて立ちはだかり続ける。口も真一文字に結ばれており、反応する素振りも見せなかった。
「突然いらっしゃられましても困ります。どうかお引き取りを」
そんな門衛達の後ろに立つ、老齢の執事が一人。彼は必死の形相を浮かべる男に対して、そんな言葉を冷たく放った。
彼が顔に浮かべる感情は、困ったという言葉に反してあまりにも冷ややかだ。しかし執事の言う事は何も間違ってはいない。
事前の連絡なしに貴族の屋敷に押し掛けるなど、不作法も甚だしい事だ。それが己よりも上位の貴族であれば尚更だった。
「私の父を救えるのは閣下だけなのです! 時間がないのです! どうかお願い致しますっ!」
それでも男は食い下がる。それを見て執事は仕方がないと息を吐いた。
彼に目で合図された門衛達は、男を排除しにかかる。躊躇いなく男の両脇を固め、その腕を取った。
「そ、そんな! どうかお待ち下さい! 我が父をお救い下さいっ!」
「それではお引き取り下さいませ」
焦る男に執事は無情に背を向ける。そして屋敷に戻ろうかとした、丁度そんな時だった。
屋敷を目指し、一両の馬車が近づいてくる。その華美に過ぎる馬車はゆっくり門の前まで走ってくると、そのままそこで止まったのだ。
それを見た執事は馬車へと近づき、ドアの少し前に控える。そして御者が開いたドアから降りてきた一人の男へ、恭しく頭を下げた。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「うむ」
白が交じる灰色の髪を後ろに撫でつけた、厳めしい顔の老人。彼はそれとだけ言うと、そのまま屋敷へ歩き出した。
カツ、カツ、と靴音を立て、老人は門へと歩き出す。執事もその後ろに静かに続いた。
彼らの前には門衛に脇を固められた男がある。しかし彼らはまるで目に映らないと言わんばかりに、その前を素通りしようとする。
当然男はこれに慌てる。話をしたい相手が今、目の前にいるのだ。声を上げるなと言うのが無理だった。
「お、お待ち下さい閣下!」
身を乗り出し大声を上げる。彼はあまりにも必死であり、自分の行為がいかに無礼であるか気づいていなかった。
親しい相手ならいざ知らず、殆ど面識のない相手であれば普通、挨拶から入るのが基本であろう。
そこに平民貴族は関係ない。むしろ貴族であればこそ、この礼儀を重んじるのが当然のはず。
しかも相手は高位の貴族だ。普通なら無視されても文句も言えない行為だった。
だが幸いにして、この無礼は老人の足を止めさせた。
老人はちらりと横目で男を見ると、
「何だこの男は」
そうつまらなそうに一言溢した。
「この方は――」
「わ、私はエンリケス子爵の息子、ミゲル・エンリケスと申します! 閣下、どうか父をお助け下さい!」
執事が答えを返そうと口を開くも、男の大声がそれを遮る。執事はあまりの礼を失する行為に、主の前だと言う事もあってか、今回ばかりは渋い表情を作った。
しかし老人の方はこれを咎めなかった。
――いや、咎められた方が良かったかもしれない。
「エンリケス。なるほど、今話題のあの男か」
老人は僅かの興味も消え失せたと、また前へ歩き始めたのだ。
「か、閣下、お待ち下さい! 父を! 父をどうか!」
「お帰り願え」
『はっ!』
背に浴びせられる声など聞こえない様子で、老人は門衛達へ平坦に告げる。
結果男は念願叶わず、閉じられた門の前で両膝を折ったのだった。
「無能の子は所詮無能か。なぜ私が骨を折ると思ったのか、理解ができんな」
「全くでございます」
老人は屋敷の廊下を歩きながら、呆れたようにそう溢す。彼は背筋をピンと伸ばし、大きな靴音を立てて廊下を進む。
それに続く執事も、静かな声で肯定を返した。
「あのような馬鹿げた事をしておいて、不始末を自分でつけられない者など、一体誰がかばおうと言うのか。素直に自分の主にでも泣きつけば良いものを」
先程の名乗りで、老人はあの男の言わんとしている事を全て理解していた。
エンリケス子爵。ヴァイスマン領のリンゼラという町で、代官をしている貴族の名だった。
だがその子爵は少し前、ある事件を起こし捕縛されていた。あろうことか、町の孤児達を保護する孤児院に火を放ったと言うのだ。
さらに、盗賊などという下賤な者達の手を借りてだ。この話は貴族らの間で急速に広まり、離れたこの王都にすら既に届いている。
当然、この老人の耳にも入っている醜聞だった。
老人の名はユストゥス・ラルフ・クンツェンドルフ。
長い歴史を持つ神聖アインシュバルツ王国において、たった三つしかない公爵家。その内の一つ、クンツェンドルフ公爵家の現当主である。
公爵家の当主という権力があれば、望めば貴族社会のどんな小さな噂も手に入る。だがそこに自分が僅かでも関与してる、という事実があれば、当然その精度も増した。
「確かにエンリケス子爵は我が派閥の庇護下にある。だが己の愚行をもみ消すための、都合の良いものだ、等と勘違いされては困るのだ」
魔族との戦争、聖魔戦争を利用して、クンツェンドルフはその勢力を飛躍的に伸ばすことに成功していた。件のエンリケス子爵家もその一つで、戦時に彼に下った者の一人だった。
だが思ってもいなかったが、ここまで愚かな人間だったとは。これにはユストゥスも渋い顔を見せていた。
「全く。ハルツハイムを弱体化させるため隣領ヴァイスマンの貴族を多く派閥に加えたが、このような愚か者が混じっていたとは、ぬかったわ」
「旦那様が例の孤児院に否定的だと聞き、功を焦ったと思われます」
「やり方と言うものがあろう! 馬鹿馬鹿しい!」
執事の言う通り、確かにユストゥスは孤児に学問を修めさせると言う事に否定的ではあった。
学問はそれに相応しい者が修めてこそ。平民などに教えても、有効に活用できるとは思えない。時間の無駄だと、彼はそう思っていたのだ。
だがそんな彼も、流石に、ならば孤児達を見せしめに殺そうなどと言う暴挙は考えてもいない事だった。
「フン、流石ヴァイスマン伯爵よ。無能を起用するほどに甘い男らしい」
ハルツハイムを敵視するクンツェンドルフ。彼は戦争を機に行動を起こし、ハルツハイムに大きな打撃を与える事に成功していた。
王都防衛戦でハルツハイム軍を縮小させ、更にシュレンツィア防衛線でダメ押しを加えた。その結果ハルツハイムは自領を守る事にも困窮していると聞いている。
だが彼はそれで満足してはいなかった。
次の手段として彼は、経済面に打撃を与えるべく、隣領ヴァイスマンに目を付けた。
ハルツハイムと取り引きも多いヴァイスマン。そこを押さえればハルツハイムは更に苦境に立たされるだろう。
そう見てヴァイスマンの貴族を多く取り込んだが、その結果この様な事態が起きるとは。
馬鹿馬鹿しい事に巻き込まれかねなかったと、ユストゥスは苦々しく吐き捨てた。
「全く、最近はつまらん話ばかりが耳に入る! 早く領に戻りたいものだな!」
戦争が終わってからずっと、彼は自領に返れないまま王都の屋敷で過ごしている。それは勅命によるものだったが、これもまた彼にとっては面白くない事だった。
彼はいら立ちをそのままに、たどり着いた部屋のドアを開けずんずんと中へ入っていく。
その場所は屋敷の主である彼の執務室。中に人の姿はなく、彼の声ががらんとした空間によく響いた。
ユストゥスはどかりとソファに座って足を組む。そして馬車で凝った体をほぐすように、右手で肩を揉み始めた。
「お労しい事でございます。ですが旦那様、もう少しの辛抱でございましょう」
そんな彼の気を宥めようと、執事は穏やかに声を掛ける。
「ふぅ……そうだな。あと僅かの辛抱だ。それが終われば私は帰らせてもらおう。もう王都に用事は無いのでな」
そんな彼へ言葉を返し、退室するように手で合図する。
執事は慇懃に一礼し、静かに部屋から出て行った。
彼の元へ王家からの書状が届いたのは三日前の事だ。一週間の後、王城へ参集するようにと書かれていたそれを思い出し、ユストゥスはふぅと息を吐き出した。
クンツェンドルフ領は王国南西部に位置する、広い面積を有する領だ。王都とは離れており、馬車では早くても一か月半はかかる距離だった。
気軽に行き来するという事は出来ない。戦時からずっと王都に詰めていた彼は、もう長い間自領へ戻っていなかった。
懐かしさが胸に湧く。だがその気持ちを叶えるには、最後にもう一仕事必要だと、彼はそう理解をしていた。
「大海嘯に魔法陣……。ふん、私をどこまでも馬鹿にしてくれる」
王家の書状は参集する旨だけが書いてある、非常に簡潔なものだった。だがユストゥスにはその内容に心当たりがあった。
内容を想像した彼の眉間には、思わず深いしわが刻まれていた。
一つは叙爵の件だ。
この度の戦争において、功労者として名が上がる人物は非常に多い。しかしその中で英雄とまで称えられた者達が、僅かに数人だけだが存在していた。
主に名をあげられるのは、第一師団団長アウグスト・ガヴェロニア。そして第二師団団長ジェナス・ルードリヒトの二名だ。
彼らの二つ名はすでに王国でも知らぬものはない程に広まり、名実ともに国の英雄として国民に浸透しきっていた。
国民に英雄と称えられる程の人物を流石に軽々しく扱う事などできず、相応しい褒章を与えようと、国は前々から叙爵のため動いている。
ただこれは貴族なら誰もが想像している事だ。これに関してはユストゥスも認めており、特に問題だとは思っていなかった。
問題は二つ目の件だった。
一か月半ほど前の事だ。シュレンツィアにてあの大海嘯が発生し、人々を驚愕させる事態となった。
大海嘯は国をも滅ぼしかねない大災害だ、当然ユストゥスも驚愕した。だがその報告を受けた彼が一番に驚愕したのは、大海嘯が発生した事についてではない。その結末の方にこそ、彼は一番に目を剥いたのだ。
その大海嘯はすでに終息し、危険はないと言うではないか。それを成したのはあのハルツハイム。さらにそこには彼が嫌う、一人の男の存在もあった。
「エイクの奴め……。まったく忌々しい。あの盗賊めが、姿を消してまで私の耳に入るとは」
相手の事を思い出し、思わず顔が険しくなる。
国軍に盗賊がいるというだけでも恥ずべき事態だと言うのに、第三師団の長にまでなってしまったあの男。
排斥しようと何度画策しただろう。しかし王子や彼の周囲を固める者達の妨害もあって、ついぞ叶わなかった。
弛まぬ努力で腕を磨いて来た魔法使い達を蔑ろにして、魔法陣などと言う落書きを重用しろと訴えて来たあの男。
魔導戦車などという物を献策して来た時は、徹底的にこき下ろし、その意見を一蹴した。彼が秘密裏に作っていた魔導戦車などは強制的に押収し、魔法の的にして木っ端微塵に破壊してやった。
思い出すだけでも腹立たしい。だが今回エイクが立てた功績は、彼が見ても決して無視のできないものだった。
ハルツハイムも後押しし、エイクの功績を大きく称えている。この事もまたユストゥスの気分を害させた。
「チッ……。奴の功績は消せん。だが叙爵だけは何としても避けなければ……。王侯貴族に盗賊の名を連ねるなど、到底あってはならぬ愚行だ。王国の歴史に傷をつけかねん……」
ユストゥスはどうやってこの忌々しい事態を退けようか、眉間を揉みながら考える。しかし彼の持つカードは、彼が元山賊だというその一点だけだった。
結局彼はそのカードのみで王城へ出向く事となる。だが結論から言えば、彼の危惧は杞憂に終わる事になるだろう。
彼は全く想像していない。自分が今まで行って来た行為が、王家に筒抜けであると言う事を。
彼へかけられた王家からの参集。その意図をユストゥスは理解できないまま、当日を迎えることとなる。