217.優先すべきは
街を駆ける五つの影。前を走る三つは、ローブ姿の人物だった。
先頭を走る二人の肩には大きな麻の袋がある。袋はもぞもぞと動いており、何が入っているか予想ができるものだった。
それを追う二つの影。一つは先を走るベルナルドだ。
彼は執事服に革靴と、全く運動に適していない恰好だ。しかし走る速さはまるで風。彼は三人の人物との距離を瞬く間に詰めていった。
その後ろを走るフィリーネ。彼女も全力で走っているが、しかしベルナルドとの距離はどんどんと開いていく。
これに彼女は深い困惑を覚えていた。
(な、なんでっ! わたくしだって、訓練を積んできたはずなのにっ! お、追いつけないっ!)
彼女にとってベルナルドという人間は、彼女が物心ついた時からずっと、ハルツハイム伯爵家の家令という立場の男だった。
戦闘ができるなんて話は聞いたことがない。なぜ自分がこうも置いて行かれるのか理解できないまま、ただ彼女は必死なって彼の背中に続いていた。
「チッ! お前達は先に行け! 後ろは俺が足止めする!」
「頼む!」
徐々に距離を詰めるベルナルドに、ローブの三人は目配せを交わす。そして殿を務めていた一人がくるりと振り返り、二人を迎え撃つ恰好を取った。
その人物は腰の短剣を二本引き抜き、両手に構える。だがそれを見てもベルナルドは止まらなかった。
彼はタンと地を蹴って右方向へ跳び上がると、家屋の壁を足場に構えた男を素通りする。そして逃げようとした二人の目の前に軽々と着地してしまった。
「な――!?」
「こ、こいつっ!」
先を行こうとした二人が狼狽の声を上げる。これにベルナルドはにっこりと笑みを見せた。
「そう急がずとも良いでしょう。どの道あなた方に最早退路は無いのです。――ハルツハイムが守る者達に手を出した時点でね」
ベルナルドはしれっとした顔でしゃんとその場に立っている。しかし彼から発せられる気迫に気圧されて、二人は思わず一歩引いてしまった。
「そういう事です」
そんな彼らをフィリーネが挟み撃ちにする。ローブ姿の三人は、退路を完全にふさがれる形となった。
「ハルツハイム――ッ! チッ、んな奴らが関わってるなんて聞いてねぇぞあの野郎……!」
短剣を抜いた男は舌打ちをし、腰を落とそうとする。だがそれも一瞬の事で、すぐに諦めたように短剣を鞘に納めた。
「分かった、こいつらは解放する。だが、代わりに俺達の事は見逃してくれ」
「は!? 何を言っているのですか!?」
そして悪びれもなく交渉を始めた。図々しいとはこの事かと、フィリーネは柳眉を逆立てる。
「人さらいの真似をして、それを見逃すはずが無いでしょう!? 交渉など聞く気はありません! 大人しく縄に付きなさい!」
彼女は槍を構え、険しい顔を見せた。だが男は余裕の表情を崩さず、今度はベルナルドへ顔を向ける。
「……だそうだが、アンタはどう思う?」
「そうですな」
男が見せたいやらしい笑み。ベルナルドはこれに鷹揚に頷くと、
「では子供達をすぐに解放して去りなさい。それで目を瞑りましょう」
そう即座に男達の案を飲んでしまった。
「ベ、ベルナルド!? 何を!?」
「へっ、話が分かる奴がいて助かったぜ。おい!」
まさか飲むとは思わず、フィリーネは悲鳴のような声を上げる。そんな彼女に目もくれず、二人は担いでいた麻の袋をその場に静かに置き始めた。
これを見たベルナルドは、通れと言うように半身を開ける。それを合図に、三人は走ってその場を去っていく。
「逃げるなら、我々の目が届かない場所に行かれた方がよろしいでしょう」
「へ……おっかねぇな。金があっても死んじゃ意味がねぇ。そうさせて貰うわ」
一瞬視線を交わした男とベルナルド。そんな会話を小声で交わし、三人はわき目も降らず走り去って行った。
ベルナルドもそれ以上三人には構わず視線を外す。そして置かれた麻袋から手際よく子供達を助け始めた。
「もう大丈夫ですよ。この様な恐ろしい目に遭わせてしまい、申し訳ございません」
「う、うぇぇぇ……っ! うぇぇぇぇんっ!」
二人の子供達は、まだ十にもなっていない少女達だった。袋から出された少女達は、安堵から火が付いたように泣き始める。
その中にはアイナの姿もあった。ベルナルドは膝を突いて少女達を抱きしめ、優しく声を掛ける。彼の穏やかな声に、少女達はまた激しく泣き始めた。
「ベルナルド……」
そんな彼らを見て、フィリーネはぽつりと呟く。彼女には、ベルナルドの取った行動が全く理解できなかった。
人さらいなど絶対に許してはいけない。そんな気持ちでいたと言うのに、悪人をみすみす取り逃がしてしまった。
しかも交戦すらせず、取引のような事までして。悪に屈した事実を認めたくない気持ちが、フィリーネの槍を握る右手にはっきりと表れていた。
「お嬢様」
悔しげな表情を浮かべるフィリーネに、ベルナルドは穏やかに話しかける。
「私達が何よりも優先すべきことは、子供達を無事に助ける事です。悪人を打ち倒す事ではありません」
「で、でもっ! 相手は犯罪者ですよ!? それを逃がしてしまうなんてっ!」
「もし子供達を盾に取られ、傷でも負わせたら何とします。加えて孤児院の件もございます。我々はすぐに戻った方がよろしいでしょう」
ベルナルドは顔を上げる。その目はあまりにも優しく、温かかった。
「それにお嬢様も仰ったではありませんか。これ以上、この子達に傷を負わせたくない、と」
まるで彼女の心を見透かすようなベルナルドの瞳。フィリーネは何も言葉を返すことができず、一人その場に項垂れていた。
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子供を背負った二人が孤児院に辿り着くと、そこは雨が降る中黒煙が立ち上るという、不思議な光景が広がっていた。
「イザーク様! アラン様!」
「フィリーネ様!? 子供達も!」
「ああ、良かった! 助け出せたんですね!?」
建物から少し離れた場所に避難していた孤児達。彼らと一緒にいたイザークとアランは、子供達を連れ帰ってきたフィリーネ達を見て、安心したような顔を見せた。
しかし状況が分からないフィリーネ達は、急いで彼らに駆け寄ると、子供達を下ろしながら詰め寄るように彼らに説明を求めた。
「孤児院も宿舎も火をかけられまして。今リリュール様が火を消そうと、魔法で雨を降らせているという状況です」
「あ、あれが魔法!? そんな事が可能なんですか!?」
「水の上級魔法です。僕も見るのは初めてですよ」
そんな魔法は聞いたことがないと仰天するフィリーネに、アランも真剣な顔で頷く。そして彼は視線をある場所に向けた。
そこには孤児院や宿舎に向かい、天に両手を広げるリリの姿があった。
真っ白なローブを身にまとい、天に願うように腕を広げるリリ。彼女の握る杖、水鏡乃杖の宝玉がリリの魔力に反応し、仄かな虹色の光を放っていた。
今までの人生で、こんな光景は見たことがない。まるで奇跡を起こす聖者のように、アランの目には映っていた。
「素晴らしい魔術師ですよ、リリュール様は。しかもここまでの規模とは……。僕は信じられません」
この孤児院の周辺にのみ大雨が降っている。火の手は強く、まだちろちろと建物から炎が見えているが、それでも徐々に小さくなっているようにフィリーネには見えた。
これなら後は火が消えるのを待つだけか。そう思うフィリーネに対し、声を上げたのはベルナルドだった。
「これで子供達は全てですか? オディロン様とカーク様……それにケヴィン様の姿が見えませんが」
「そ、それが――」
ベルナルドに集まった視線。最初に外したのはイザークだった。
「まだいない子達がいるのです。カーク達は子供達を捜索すると言って、宿舎を見て回っています。リリュール様でも流石に、敷地全てに雨を降らせると言うのは急な事もあって無理だったらしく……。きっと今は、火の手が激しい所から見に行ってるのではないかと」
イザークやアランも、残された子供達の事を考えると気が気ではなかった。彼らに任せたままにせず、自分達も捜索に加わりたかった。
しかしまた襲われないように、子供達についていなければならない。この場を離れるわけにいかなかったのだ。
悔しそうな表情を見せる二人。真っ先に動いたのはフィリーネだった。
「ベルナルド! ついて来なさい!」
「はっ!」
二人はそれだけ言って一目散に駆け出していく。
「フィリーネ様!? 危険ですよ、戻って下さい!」
彼女の背にイザークの声がかかる。しかしフィリーネはそれに耳を塞いで駆けて行く。
二人がリリの隣を駆け抜ける際、彼女と一瞬視線がかち合った。
「雨の向こうへ!」
「分かりました!」
最小限の言葉で意思を交わす。今はそれだけで十分だった。
自分がなすべき事を理解したフィリーネは、雨降る中へ飛び込んでいった。
「はっ! はっ!」
土砂降りにも関わらず黒煙が立ち上る敷地内を、フィリーネは駆ける。
街からずっと走り通しのフィリーネ。子供を担いで走った事もあり、すでに息は荒くなっていた。
しかし彼女の足は鈍らない。彼女の頭の中には、泣き叫ぶアイナの姿が蘇っていた。
もしかしたら、炎の中に子供が取り残されているかもしれない。そう思えば自分の今の苦しさなど、耐えるのには易かった。
雨か汗か、しっとりと濡れた前髪が額にへばりつく。視界を遮るそれをフィリーネは鬱陶しそうに払いながら、雨の中を境界線目指して全力で駆け抜ける。
そしてすぐに、雨の中から飛び出していった。
そこは輝く火の粉が降り注ぐ、真っ赤に染まった場所だった。
「こ、これは……っ!」
赤い輝きが視界を埋め尽くし、熱気が肌をじりじりと焼く。フィリーネは、あの雨の先にこんな光景が広がっているとは全く想像していなかった。
「――誰か! 誰かいますか! 聞こえたら返事をして下さい!」
ドクンと心臓が弾み、フィリーネの胸に大きな焦燥が生まれた。
自分の焦りを誤魔化すように、彼女は声を振り絞り子供達を呼ぶ。しかし返ってくるのは嘲笑うような、火が爆ぜる音だけだった。
「誰かっ! 返事をっ!」
「お嬢様。――お嬢様!」
フィリーネは口に手を添えて大声で叫ぶ。後ろのベルナルドが彼女を呼ぶが、しかしフィリーネは前にゆっくり進みながら周囲へ声を張り上げ続ける。
無我夢中で自分を見失っているのだろう。男性が未婚の女性に触れるのは、貴族社会では基本ご法度である。いかに家令である彼でも例外ではない。
しかし今は状況が状況だ。ベルナルドは失礼を承知で、彼女の肩に手を置いた。
「はっ!? ベ、ベルナルド!?」
「お嬢様、こんな状況だからこそ落ち着いて下さい。何か聞こえます。少しお静かに」
端的に説明をし、彼は周囲の音に耳を澄ませる。
「これは――子供達の泣き声!」
そしてカッと目を見開いた。
「本当!? 案内してベルナルド!」
「承知しました!」
二人は弾かれたように火の粉が降る中を走り出す。一直線に走った彼らは、子供らのための宿舎を四つ通り過ぎ、次の五つ目に差し掛かる。
すると確かに、フィリーネの耳にも子供のものらしき泣き声が聞こえた。
「どこ!?」
「お嬢様こちらです!」
泣き声の源をたどり、二人は宿舎の裏手に回る。するとそこには、地面にへたり込む五人の子供達の姿があった。
「せんせー!」
「ケヴィン先生ー!」
子供らは炎噴き出す宿舎の近くで、泣きながらケヴィンを呼んでいた。
二人は慌てて駆け寄る。ただでさえ炎が噴き出していて危ないと言うのに、子供達は壁の近くで固まっていたのだ。
この宿舎の損傷は激しく、倒壊するかもしれない。フィリーネは慌てて子供達を宿舎から引きはがすように遠ざけた。
「皆、危ないですよ! すぐに下がってっ!」
「でも! でもケヴィン先生が中にっ!」
「先生ーっ!」
「何ですって!?」
子供達が見つめる先を見ると、子供が通れそうな穴が壁にぽっかりと空いていた。その先に人影のような物が見え、フィリーネは思わず一歩踏み出し――
「――! 危ないっ! お嬢様!」
ベルナルドに勢い良く引き戻される。彼女の顔先を炎がかすめた。
ドサリと地面に倒れる二人。
それと同時に、メキメキという嫌な音が目の前から響いた。
フィリーネは顔を上げて前を見る。宿舎がゆっくりと右側へ傾き、木の折れる音を立てながら倒れていく。
すぐに、中から重量のある物が落ちた轟音が響き、地面を揺らした。宿舎は一瞬のうちに倒壊し、黒煙を噴き上げ崩れ去ってしまった。
『ケヴィン先生ーっ!』
子供達の悲鳴が、フィリーネの鼓膜を痛い程揺さぶった。