216.油断
その日の午後、ギルドの依頼をこなすため、フィリーネとベルナルドは子供達を伴い街へと繰り出した。
出発前にイザークに確認したところ、今回の依頼は町中に張られた側溝の掃除だった。ようはドブさらいである。
これを聞いたフィリーネは、今日一日の仕事だろうと軽く考えたが、これにイザークは困ったような笑みを返した。
町中と言うとかなりの広さである。孤児院から派遣される子供達は五十人の大所帯だったが、それでも一日で終わる量ではない。
イザークの予想では、これを十回程に分けて行う必要があるとの事だった。
聞けば、既に一回目と二回目は終わっているらしい。今日はその三回目。町の北側、住宅街の周辺だ。
子供達は現地に到着するや否や、慣れた様子で声と力を合わせ、側溝の汚泥を掃除し始めた。
大きな子供達が掬い上げた泥を、小さな子供達が麻の袋へ詰めていく。伯爵令嬢であるフィリーネにとっては初めて見る光景だ。
子供らの護衛として付いて来た彼女だったが、そんな意識はどこかへと跳び、彼らの様子を興味深そうに眺めていた。
「こうして排水溝を掃除しているんですね……。ハルツハイムでもそうなのでしょうか」
「そうですね。誰がやるか、という点を除けば、恐らくどこも同じかと」
フィリーネの呟きにベルナルドが反応する。
「大体の場合は、町民達が自主的に行っているはずです。こうして依頼として出されると言うのは、特別な事情が無い限り、あまり無いかと存じます」
「え? でも――」
孤児院に来た側溝掃除の依頼は冒険者ギルドから回されたものだ。現に依頼があるではないか。
そう言いたげな目を向けたフィリーネに、ベルナルドは優しく笑った。
「きっとこれは、町の方々からの支援なのでしょう。現在戦争の影響で物価が少々上がっております。孤児院へ援助をすると言うのもなかなか難しい。しかし手を借りれるならば――と、そういう事ではないですかな」
町人が行うと言っても、総出だとしても丸二日は要するなかなかに大変な作業である。
これをいくらかのお金で解決でき、かつ孤児達のためにもなる。となれば財布の口も緩くなろう。
ベルナルドの考えは実際当たっていた。ただ、それを聞いたフィリーネの方は、どうにも納得がいかないと眉尻を下げる。
「でも、子供達は皆、こんなに大変な思いを……。ご両親まで失い生活も苦しいというのに、ただ支援をすると言うだけでは駄目なのでしょうか」
彼女には分からなかった。
困っている者がいる。ならそれに手を差し伸べる。その単純な理屈を前に、建前や理由がいるのだろうか。
仕事を与える事を支援の条件にする。それが彼女には、あまりにも回りくどく思えてならなかったのだ。
「お嬢様。生活が苦しいのは皆同じなのですよ」
これをベルナルドは窘める。
「その苦しい中で何かの理由をつけて支援をしているのです。見て見ぬふりをしても良いはず。しかしそれをこの町は良しとしなかった。これを善意と言わず何と言いましょう」
「ですが――」
「少なくとも。何もしていない我々が、苦言を呈する理由にはなりません。でしょう?」
ぴしゃりと言われ、フィリーネは今度こそ口をつぐんだ。
確かにハルツハイム伯爵家は、この事業に関して小銅貨の一枚も出していない。子供達のためにお金を出している者達を非難するなど、恥知らずもいい所だった。
「……そうね。ごめんなさい、ベルナルド」
「お嬢様は下々の者の暮らしなど、あまりご覧になった事がございませんでしょう。これも良い機会です。色々学ばれると宜しいかと存じます」
フィリーネはその正義感の強さから、貴族に向かないと父親に判断され、貴族的な教育を殆ど受けてこなかった。
そのため平民がどういった生活をしているかや、その水準がどの程度かと言った知識を全く持っていなかった。
事情を知るベルナルドは、彼女に優しい笑みを向ける。
幼い頃から知る彼女が一皮むけようとしている。これを彼は心から嬉しく思っていた。
「それはそうと、イザーク様が仰られた懸念もございます。お嬢様もお気を付け下さい」
ただそれも僅かの間。彼はそう言ってまた子供達に目を向けた。
「ええ。そうですね。ベルナルドはあまり無理をしないように」
「お心遣い感謝致します、お嬢様」
彼に注意を促されたフィリーネも、気を取り直してまた背筋を伸ばす。
彼女の目には大勢の子供達が映っている。その中には、ケヴィンについて話を聞こうと思っていた少女、アイナの姿もあった。
アイナは掬われた泥をせっせと麻の袋に詰めている。その表情は真剣で、他の事に意識を向ける余裕などない様に見えた。
こんな状態では話どころではないだろうと、フィリーネは早々に諦めていた。ただ、そう思う理由は子供達側だけの問題ではない。
出立前に聞かされたイザークの話。それを思えば余裕がないのは、むしろフィリーネ達の方であっただろう。
以前行った一回目の側溝掃除。そこで、あわや子供がさらわれるという事件が起こった。
その時は偶然、子供達の様子を見に来た冒険者ギルド関係者がその現場に居合わせており、騒ぎになった結果下手人が逃げ出したため、何とか事なきを得た。
だがこの事件によって、子供達の身に危険が迫っている事が明らかになった。そのため大人達は、子供達から目を離すわけにいかなくなってしまったのだ。
イザークはこの件を重く見て、依頼の破棄を考え始める。冒険者ギルド側からも、想定外の事態のため依頼破棄の慰謝料を免除する、と言った返答があったのも大きかった。
なら危険な依頼を続ける必要はない。孤児院側は依頼の破棄を行って、この話はそこで終わるはずだった。
だが彼らの予想に反して、これに異を唱える者が大勢いた。それは孤児院の孤児達だった。
自分達は大丈夫だからと、皆が声を上げたのだ。やらせてくれと必死に迫る子供達に、大人達もたまらず折れた。
結局大人の引率を条件に依頼の続行が決まり、二回目は特に問題もなく終わった。
ただ、今回はどうか分からない。何者かの嫌がらせの気配は未だに無くなっていないのだ。
フィリーネとベルナルドが子供らの引率を頼まれたのは、本当に、子供らの面倒を見て欲しいという理由ではない。
子供らの安全を守って欲しいと言う、切実な意味があったのだ。
今のフィリーネは見回りの時のような装いではなく、戦闘用の装備をしっかりとまとっていた。
体をピッタリと覆う胴体鎧にガントレットを装備し、スネより下にかけてはグリーブが覗いている。その下に着る衣服も普段着ではなく、神殿騎士の祭服をアレンジした、彼女の戦闘服であった。
今の彼女の姿を見れば、誰でも子供達の護衛だと一目で分かるだろう。ベルナルドはいつも通りの執事服で少々場違いだが、少なくとも彼女らの姿を見て、簡単に襲えると考える者はいないはずだ。
イザークの言によれば、護衛と分かる人間がいれば、白昼堂々襲わないだろうとのことだ。だからきっと、何も起きない可能性が高い。
とは言えフィリーネは安心してはいなかった。正義感の強い彼女は、表情を引き締めて周囲の様子を警戒する。
僅かの隙も見逃さないよう、鋭い目つきで立つフィリーネ。横に立つベルナルドの目には、その姿が新兵の初出陣のように映った。
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昼からずっと作業に当たっていた子供達の動きが緩慢になってきた頃。周囲は僅かに茜に染まり、一日の終わりを告げ始めていた。
イザークの言う通り、特に不審な人物の姿は見られなかった。どうにか無事に終えることができたらしい。
子供達も撤収の準備をし始めた。目の前に広がる光景に、フィリーネは人知れずほっと息を吐いていた。
彼女はただ立って周囲の警戒をしていただけだ。しかし、ずっと緊張していた彼女の心には、かなりの精神的な疲労が蓄積していた。
「無事に終わったようですね。良かった、何もなくて……」
思わず独り言つ。肩に入っていた力も、急にストンと抜けていった。
「お嬢様」
そんな彼女へベルナルドが声を掛ける。
何事もなく事を終える事ができた。そう思うフィリーネの気持ちに反して、彼の声色は少し固いものだった。
「ベルナルド?」
「ただの勘ではございますが……何やら嫌な予感が致します」
不思議そうな顔で振り返ったフィリーネに、ベルナルドは硬い表情でそう言った。
とは言えただの勘である。
「そんな。勘なんて当てに――」
ならないだろうに。
思わず漏れた笑みをそのままに、フィリーネはベルナルドに笑いかけ――
「い、いたっ! フィリーネ様! ベルナルドさん!」
遠くから聞こえた切羽詰まった声に、言葉が喉の奥で止まった。
何事かと振り返った二人。その目に映ったのは、慌てて走ってくるアランの姿だった。
彼は二人の目の前まで全力で駆けてくる。そして荒い息もそのままに、早口で状況の説明を始めた。
「大変なんです! 孤児院が、火をかけられて!」
『えぇっ!?』
アランの声はあまりにも大きかった。フィリーネ達のみならず子供達にも届いてしまい、周囲に驚きの声が一斉に上がった。
「先生! 皆は大丈夫なんですか!?」
「火をかけられたって、どうして!? また人さらいの奴らが!?」
「何で、何で私達ばっかりこんな……! うぅぅ……酷い……。酷いよぉ……っ」
子供達の間に動揺が走り、大きなざわめきが生まれる。皆の心配をする者や、状況を知りたがる者、泣き出す者と、様々な声が住宅街に響き始めた。
「皆はすぐに戻って下さい! こんな狭い場所では危険かもしれません! 僕達の指示に従って、すぐに避難を――!」
途端にうるさくなったその場に負けないよう、アランも声を張り上げた。混乱を静めようと言う彼の行動に、子供達から上がる声も静かになっていく。
だが、そんな時だった。
「きゃぁぁぁあーっ!」
突然子供達の後ろから、絹を裂くような悲鳴が上がった。
フィリーネは反射的にそちらに目を向ける。しかし子供達が集まっていて、何が起こっているか全く分からなかった。
「アラン殿、子供達の避難を頼みます! あれは私達にお任せを!」
「は、はい! 頼みます!」
どうしたら良いか分からず、フィリーネは固まってしまう。だがそんな彼女を置き去りにして、ベルナルドは一呼吸もおかず、互いの取るべき行動を決定してしまった。
自分はどうしたら良いのか。彼女の真っ白な頭を動かしたのは、ベルナルドの一喝だった。
「お嬢様! 何をしておられますか!」
彼は今まで見た事の無いような険しい顔で、彼女を大声で叱咤する。
「参りますぞ! 遅れぬようご注意を!」
言うが早いか、彼は子供達の間を縫って、先に走って行ってしまった。
――最後まで油断すんなっつっただろうが!
自分の脳天に手刀を繰り出す師の姿を思い出す。フィリーネは胸に湧く苦さを噛み締めながら、ベルナルドの背を追って走り出した。