212.始まりの日
グレッシェル子爵捕縛の報せは、瞬く間に町を駆け巡った。
町人達は驚愕し、そして歓喜の声を上げた。長きに渡る悪政が、やっと終わりを告げたのだ。
しかもそれを成したのは子爵の息子。戦争から凱旋したばかりの息子は、父親の不正に立ち上がり、それを討ったと言う。
数十年に渡り苦しめられてきた町民は思った。あの優しかったグレッシェルの血は失われてはいなかった。この町は今日と言う日を切っ掛けに、またかつての優しさに包まれるだろう、と。
彼らの期待に応えるように、粗暴な傭兵団は町から姿を消した。代わりに町を巡回するのは衛兵や、傭兵達を蹴散らした勇敢な騎士達だ。
騎士らの姿が通りに見える達、町人達はわっと嬉しそうな声を上げる。だが騎士達はこれに気を緩めず、毅然とした態度を崩さなかった。
これにまた町民達は思うのだ。
この騎士団があったからこそ、代官は討たれたのだと。
そんな騎士達がいるならば、この町はもう大丈夫だと。
今までの沈鬱な雰囲気は消え去り、賑やかな声が町を包み込んでいる。皆が待ち望んでいた姿を、町はやっと取り戻す事ができたのだ。
そして町民達は皆、空を見上げる。後はこの天気だけだと、苦笑を顔に浮かべながら。
あの日から一週間の間、町には長い雨が降り続いていた。
空は薄灰色の雲に覆われている。秋から冬にかけてのこの時期に、長雨は非常に珍しい。
しとしとと降る秋時雨が、町全体をしっとりと濡らしていた。
そんな雨が静かに降る町を、ローブ姿の人物が一人、ゆっくりと歩いていた。
その人物の腰は大きく曲がっている。俯き加減な上フードを深くかぶっているため顔は見えないが、恰好だけで老人だと誰にも分かった。
その老人は街中を抜け、細い路地を北東に抜けていく。そして開けた場所に来て初めて、その顔をくいと上げた。
老人が足を運んだのは墓地だった。
グレッシェルで亡くなった者は皆、この墓地に葬られる。前代官ゲオルク・グレッシェルの悪政によって、近年相当数の墓が増えた。
かなり減った空き地にため息を吐きつつ、老人はその男が葬られているであろう場所へと足を進めて行く。
だが目的の場所へ着いた矢先、そこで思わぬ人物を目にする事になり、老人は眉間にしわを寄せた。
「あれは――」
まるで幽鬼のように墓場の隅に立つ一人の男。その人物はローブも着ずに雨に濡れたまま、ぼんやりとその場所に佇んでいた。
離れた場所から、一つの墓をただじっと見つめている。ぼさぼさの髪に汚れた衣服と、まるで浮浪者のような見てくれだが、老人はその男に見覚えがある気がしてならなかった。
老人はよく見ようと目を細めるが、
「やはり、いらっしゃいましたね」
そう横合いから掛けられた言葉に、顔が反射的にそちらに向いた。
そこに立っていたのは一人の騎士。彼女――フェリシア・オーバリーは微かな笑みを見せながら、老人の近くまで歩いてきた。
「あれは心配ありません。ああして立っているだけで、何もしてきませんから」
「……あれは、もしかして」
「はい。前代官、ゲオルク・グレッシェルです」
さらりと答えたフェリシアに、老人はじろりと視線を向けた。
まだ国からの沙汰が出ていない以上、罪人として裁く事はできない。しかし罪が露見し、現当主――正確にはまだ当主代理だが――のフリッツがそれを認めている以上、ゲオルクの有罪は揺ぎ無い。
であれば普通なら幽閉でもしているはずが、なぜこんな場所にいるのか。そんな問いの含まれる視線に、フェリシアはするすると答えを口にした。
あの一件以来廃人のようになり、何をするにも反応を示さなくなったゲオルク。
しかしアウレーンの葬儀の際、情けで捕縛した状態で参列させたのだが、その時小声で何かを溢したらしいのだ。
罪を犯したとは言え、廃人を裁きにはかけられない。元に戻っても困るが、ゲオルクには会話がある程度交わせるくらいには回復して欲しい。
そんな思いからアウレーンの墓へと連れて行くと、やはりゲオルクは何らかの反応を示したそうだ。
なのでこうして墓地に小屋を作り、ゲオルクを住まわせているとの事らしい。
むろん騎士の監視付きだ。そしてその監視役が誰かと言えば、フェリシアだったというわけである。
話を聞き、老人はため息を漏らす。その吐息に含まれる感情は一体何だろうか。
安堵か、それとも同情か。
想像するも、フェリシアには相手の胸中を真に理解する事はできなかった。
「理由は分かったよ。それはまあいいとして……。さっきアンタ、やはりって言ったね。アタシが来るのが分かってたとでも言いたげだね?」
「……ええ。きっと顔をお見せになると思っておりました。この場所に」
フェリシアは騎士の皆が渋る中、ゲオルクの監視役を自分から買って出ていた。その理由はたった一つ。いつ来るか分からない老人を、この場で待つためだった。
フェリシアは寂しそうな表情を浮かべ、老人から視線を外す。彼女の視線が向く先は、老人が佇むその少し先の場所。
そこには一つの墓があった。両脇に供えられている花は、今朝フェリシアが持ってきたものだった。
「貴方にとっては甥にあたる方。ですよね? フレドリカ・オーバリー大叔母様」
老人――スラムで”薬売りの天使”などと呼ばれる彼女は、ピクリと眉を動かした。
”アウレーン・オーバリー”。墓石にはそう刻まれている。そこへ来たと言う事が、フェリシアの言葉が事実である事を示していた。
この町を苦しめて来た傭兵団、”グレッシェルの牙”。そんな傭兵団の団長である彼の墓に参ろうという人間など、関係者を除き、いるはずがなかったからだ。
言い逃れなどできまい。そんなフェリシアの視線を受けて、老婆はふいと彼女から目を外した。
「久々だよ、自分の名前を人の口から聞いたのは。誰から聞いたんだい?」
そして否定もせず返事をする。彼女の視線は墓石に刻まれた文字を見つめていた。
「祖父です。マルクス・オーバリー」
「マルクス! 懐かしい名前だね……。兄さんは元気にしてるのかい?」
「亡くなりました。持病で。もう十年も前になります」
「十年前。そうかい……。逝ったのかい、兄さんは」
無念だったろうね。そう言って老婆は静かに目を閉じる。
聞いた名に暖かな懐かしさを覚えた。しかし亡くなったと言う事実が虚しさを胸に生み、最後には寂しさだけが心に残った。
老婆――フレドリカは昔へと思いを馳せる。自分達がまだ男爵家の人間として、幸せに過ごしていた頃の事を。
当時のオーバリー男爵家には、四人の兄弟が暮らしていた。
上から順に、長男マルクス、長女アストリッド、次女フレドリカ、そして末男カジミール。
貴族と言ってもただの木っ端貴族で、代官を任せられてはいたが、さほど裕福な家では無かった。それ故一家は力を合わせ、日々を暮らしていた。兄弟仲は良い方だった。
長女アストリッドが公爵家に嫁いで数年後、男爵家の未来が大きく狂ってしまったが、それでも一家の結束は崩れなかった。
逃亡生活を送っていた時も、その結束が彼らの身を何度も助けてくれた。それぞれが得意分野を生かし、協力し合う事で、貧しい逃亡生活も何とか生きて行く事ができたのだ。
そして、それはグレッシェルの家に助けられてからも。
大恩ある子爵家を、力を合わせて守って行こう。そう皆で誓ったものだった。
どれだけ兄は無念だっただろうか。人一倍正義感の強かった兄だ。きっとその悔恨を抱えたまま逝ったのだろう。
しとしとと降る雨が物悲しい音を立てる。それがまるで兄の無念のように思えてしまい、フレドリカの頬に一筋の涙が流れた。
「大叔母様……」
「構わないどくれ。今生の別れのつもりだったんだ、覚悟はしてたよ。今聞くとは思ってなかっただけさ」
彼女は手の平で雑に頬を拭い、目の前の墓に視線を向ける。
「馬鹿だねこの子は。自分の望みを叶えたって、死んじまったら何にもならないだろうに」
哀れみだろうか。彼女の言葉には静かな寂しさがあった。
その声に含まれるものを察し、フェリシアも痛ましそうに顔を歪める。
「聞きました。アウレーン殿が悪政を長年抑え続けてこられたのだと。人知れず、たったの一人で……。そんな事、私は全く知らなかった……」
あの騒動で、騎士団と明確に敵対した傭兵団。傭兵達は例外の二人を除き、皆が罪人として扱われていた。
戦いで死んだ傭兵も、罪人としてまとめて葬られた。墓どころか墓地にすら埋葬されず、まとめて焼き、骨も荒く砕いて外に捨てられた。
だと言うのに、長であるアウレーンだけは丁重に葬られる事となった。それを少々不満に思ったフェリシアは一人悶々としていたのだが。
思わぬ事に、フリッツの方から彼女に話があると呼ばれる事になったのだ。
その理由は、家名。もし親類であれば葬儀に参列するかと、そんな配慮からだった。
そうして彼女は知る事になる。その事実は彼女に激しい衝撃と、そして深い悔恨の念を与えた。
「どうして我々に言って下さらなかったのか。それを知ってさえいれば、みすみす死なせるような事は、決して……」
フェリシアは下唇を噛み締め、拳を固く握りしめる。
アウレーンは自分の従叔父だった。
彼は十年以上の間、たったの独りでゲオルクの悪政を食い止めようとしていたのだ。
自分達が知らないだけで、彼によって食い止められた凶行があったのではないか。フェリシアは思うが、しかしそれを知る者はもうこの世に残ってはいなかった。
「まったく、父親そっくりだよ。この子は」
「え?」
悔しさを滲ませるフェリシア。だが老婆は可笑しそうにそう溢す。
「思い込んだら一直線。頭が固くて融通が利かない。まるで弟みたいだよ。でも一番似てるのは不器用なところさ。父親ったって義理なのに、どうしてこうも似るんだろうね。不思議なもんだ」
老婆の頭には兄弟の姿が浮かんでいた。正義感の強い兄と、頑固者の弟。柔軟な思考ができない彼らを宥めるのはいつも姉の役割で。姉が嫁いでからは、それは自分の役割となっていた。
罪人として町を追われてからも、ずっと一緒だった三人の兄弟。だが三人はゲオルクが代官となったあの日、散り散りとなってしまった。
結婚していた兄とアウレーンを引き取った弟は、家族を守る事を優先し、町から出て行く決断をした。
だがフレドリカだけは固い意志でここに残った。自分一人でも町を守る決意を固め、ずっと孤独な戦いを続けてきた。
しかし血は争えなかったらしい。オーバリーの一族は時を超え、またこの町に集まっていたのだ。
「アンタも同じだよ」
フレドリカは目の前の騎士にニヤリと笑う。
「正義感が強くて突っ走るイノシシ気質。けど考えが足りなくて空回りしがちだ。違うかい?」
「うっ!? そ、それは――」
「全く。どいつもこいつも一人じゃ碌な仕事ができないんだから。いいかいフェリシア、よくお聞き」
老婆は騎士へ向き直る。その姿はまるで、悪戯をした子供を前にした母親のようにも見えた。
「私達の戦いはまだ終わっちゃいない。ここから始まるんだ」
「え――?」
「今回の事は、膿を出す病巣を取り除いたに過ぎない。町の復興はこれからだ。この町を良くするも悪くするも、これからなんだよ」
その声は厳しくも優しい。老婆は目の前に立つ、どことなく兄に似た大姪に、気を引き締め直すように苦言を呈した。
「この町を守りたいって言うのなら、まだまだ気を抜くのは早いよ。しっかりしな、騎士様」
「は、はい!」
大叔母の叱咤にビシリと背筋を伸ばしたフェリシア。それに僅かに目を細めた後、老婆は一つ息を吐き、懐へ手を伸ばす。
取り出したのは一輪の白い花だ。彼女はそれをそっと墓に供える。
ゲオルクがぴくりと反応したが、二人はこれに気付かなかった。
「さて、もう用事は終わったからね。私は戻るよ。……アンタはどうするんだい?」
「あ、は、はい。なら私がお送りします。大叔母様」
「おや、いいのかい? アタシは助かるけど、アンタ、お勤めはどうしたんだい?」
「監視はもう一人いますので。事情は話してありますのでご心配なく」
見れば少し離れて一人の騎士が立っていた。フェリシアが手をあげれば向こうも軽く手を上げて返した。
「さ、参りましょう」
もう用は済んだとフェリシアは微笑む。これに老婆も肩をすくめるだけだった。
思わぬ同行者を連れ、老婆はその場を後にする。未だに雨は止む気配が無い。冬に向かっている事もあり、冷え切った体につい急ぎ足になってしまう。
だが老婆は一度その歩みを止め、くるりと墓を振り返った。
(アウル坊や。アンタが命を賭して勝ち取ったものは、絶対に無駄にはしないよ。オーバリーの血は誓いを決して違えない。安心して見ておいで)
かつてこのグレッシェルには、町が誇る庭園があった。庭園はその町の代官であるグレッシェル子爵の所有であったが、子爵はそれを一般に解放し、町民も楽しむ事のできる憩いの場となっていた。
季節に応じた花々が咲き誇る庭園は皆に愛される場所だった。そこを遊び場とする子供達が駆け回る姿もよく見られたが、その中には子爵の息子らの姿もあったと言う。
老婆は視線を外し、アウレーンの墓から遠ざかって行く。かつてこの時期、庭園で咲き誇っていた花。それと同じ白のアマリリスが一輪、墓の前にぼつんと佇んでいた。
その前にふらふらと近づいた一人の男。彼はしばらくの間呆然と見ていたが、突然がくりと両膝を突いた。
何を思うのか、口からは嗚咽のような声が微かに漏れている。だがその小さな呟きは雨音にかき消され、誰の耳に届く事も無かった。
これにて第四章は終わりです。いかがでしたでしょうか。
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