211.正義という言葉の意義
「アンタらにも世話になったねぇ」
あれだけ大騒ぎをした後だ。これ以上面倒事に関わるのは御免なので、俺達はこのまま町を出ていくつもりだった。
そう告げると、傭兵二人や三人娘はもったいないとか何とかわあわあ騒ぎだしたが、しかし婆さんだけは頬を緩ませ、懐から革袋を取り出し俺に押し付けてきた。
「結構使っちまったからね。今はこんなもんしかないけど、持ってお行き」
「それ何?」
紐を解いて中を覗こうとすると、ホシも何だと顔を引っ付けてくる。二人一緒に袋の中を見れば、魔力の霊薬の瓶が四つも入っていた。
全部で金貨一枚はする高価な代物だが、せっかくの厚意だ。ありがたく受け取っておくことにした。
「悪いな。貰っとくぜ」
「貰っとくぜ!」
「全然悪くなんてないよ。むしろこっちが気にするくらいさ」
俺の真似をするホシに、婆さんは可笑しそうに笑う。
「ひっひっひ……立場が逆になっちまったね」
「何だよ、立場って」
「最初はそっちが惚れたのに、今はアタシの方がゾッコンだよ。ねぇダーリン?」
ニヤリと笑う婆さんに、俺は思わず噴き出した。そういやそんな話もあったな。もう忘れてたぜ。
一々反応していたスティアも、もう相手にしていられないと、呆れた様子で肩をすくめている。何だかんだで随分と長くここにいたからな。気心も知れたもんだ。
「婆さんはこれからも、ここに住み続けるのか?」
「当然だよ。ここが私のいる場所なんだから」
そうだよな。野暮な質問だった。
ふっと笑って返すと、婆さんもまたニヤリと笑った。
「あんまりのんびりしてると騎士共が騒ぐかもしれないからな。そろそろ行くわ」
「ああ。どこに行くかは知らないけど、無事を祈ってるよ」
俺と婆さんは簡単に挨拶を交わす。湿っぽいのは性に合わないからな。
婆さんもきっとそうだろう。根拠など無いが、そんな気がしていた。
「ばーちゃん、ばいばい!」
「ご機嫌よう」
「ああ、気を付けて行きなよ」
ホシは満面の笑顔で。スティアは軽く笑って。そしてバドは軽く手を上げて。
思い思いの表情で、婆さんに別れを告げる。
婆さんもそれに笑いかけ、最後に俺の顔を見た。
「じゃあな! 長生きしろよ婆さん!」
「余計なお世話だよ!」
お互いに軽口を叩き合う。
「言われなくても、長生きするさ!」
そう大きな声を上げる婆さんの顔は、今まで見た中で一番、晴れやかな顔をしていた。
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「結局、色々と世話んなったな」
東の門まで来た俺達は、一旦そこで足を止めた。振り返り、三人娘と傭兵二人に視線を巡らせる。ここにいる五人がいなければ、できない事も多かったように思う。
サリタとマリアネラは微かに頬を緩めている。色々とあったものの事を無事に治めることができ、ほっとしているのだと思う。
一方バルテルとヘルマンは固い表情を見せていた。こいつらもあの傭兵団の一員だったのだ。色々と不安だろう。
アウレーンもいなくなってしまったし、問題が山積だ。両手を上げて喜ぶってわけにもいなかないだろうな。
そしてルフィナはと言えば――
「何言ってるのよ」
そう言って一歩前に出て来た。
「私達が、アンタの依頼でここにいるの忘れてない? あのお爺さんどうするのよ。置いて行って良いわけ?」
「あっ」
言われて思い出した。そう言えば、呪いを解くのにリンゲールの爺さんを呼んだんだった。
呼ぶだけ呼んでおいて、その後の事をすっかり忘れていた。
『おおっ』
スティア達もそろってポンと手を打つ。何だ、皆忘れてるじゃねぇか。じゃあ爺さんの影が薄いのが悪いな。とんでもねぇ爺さんだよ。今もこんな騒動の中、絶賛爆睡中だしな。
いやはやこりゃ参った。がりがりと頭をかく。
そんな俺に、ルフィナは勝ち誇ったような笑みを見せた。
「私達がまた送ってあげてもいいわよ。その代わり――」
「何だ、いくら欲しいんだよ」
「お、お金なんていらないわよ! 失礼ねっ!」
路銀がいるのかと思いきや、ルフィナは大声をあげて否定した。
失礼なのかと疑問に思うもずいと距離を詰められ、妙な圧に「うっ」と声が漏れた。
「名前教えなさいよ」
「は? 何だって?」
「だから! アンタの名前、教えなさいよ! カーテニアなの!? エイクなの!? どっちなのよ!」
むっとしながら顔を突き付けてくるルフィナ。よく見れば頬が少し朱に染まっている。
何なんだ一体。名前なんて聞いてどうすんだ。
「あ、それ私も気になってた。カーテニアさんの事エイクって言う人もいるんだもん。なんだったら自分でも言ってたし」
「そうなんですかぁ? それじゃあ、やっぱりぃ……?」
後ろの二人も意味ありげに俺の顔をチラリと見る。人の名前なんてそんなに気になるもんかねぇ。
ま、こいつらに教えたところでどうと言う事もないだろう。後ろの傭兵二人だって知ってるくらいだし、別に構わないか。
「カーテニアは偽名だよ。エイクが俺の本当の名前だ」
「ふぅん。やっぱりね」
何がやっぱりだよ。どこか満足そうにルフィナは胸を張った。
「一応、私達もアンタ達には世話になったしね。お爺さんを送るくらいしてあげるわよ。精々感謝なさい」
「へいへい。嬉しすぎて涙が出るわ」
「こっ、こら! もっとちゃんと感謝しなさいよっ!」
憎まれ口に軽く返すと、ルフィナはまたぷりぷりと怒り始める。
全く何なんだよ。若い女ってのは本当に分からん。いや、若くない女もよく分からんけどね。
「ありがとよ。そんじゃ頼むわ」
「フン!」
ちゃんと感謝をすると、今度は鼻で笑われた。もう、何なのよ。後ろの二人も笑ってるしよ。
困惑していると、ルフィナは今度はスティア達の名前も聞き始めた。
なのでとりあえずルフィナを放置して、今度は傭兵二人に目を向ける。
「お前らはこれからどうすんだ?」
彼らは顔を見合わせると、困ったような笑みを見せた。
「どうすっかな……。何も考えちゃいねぇよ。なんせ団長頼みだったからな。なぁ? ヘルマン」
「そうだな……。だがこのままじゃ不味いってのは分かる。俺達はあの傭兵団にいたわけだしな。下手すりゃ俺達もお縄だぞ」
「げっ、マジか?」
ヘルマンは現状がよく見えているようだ。ギョッとした顔を見せるバルテルに、彼はため息を吐いていた。
「まずフリッツを頼るこったな。あいつなら色々と取り計らってくれるだろ」
「だな。最後に捕まったなんて言ったらシャレにならねぇ。団長にも呆れられちまう。……ま、精々上手くやるさ」
ヘルマンは意外と頭の回る男だった。頭を抱えるバルテルに若干不安を覚えるが、この二人なら大丈夫だと思う。
これでも魔族との戦争を生き抜いた戦士達だ。きっと言葉通り上手く立ち回るだろう。フリッツも戦友のためにと動くだろうしな。
俺とヘルマンは苦笑いを交わし合う。だが丁度そんな時だった。
「エイク殿ーっ! お待ち下さいーっ!」
街の方から俺を呼ぶ声が聞こえて来る。どうも時間を使い過ぎたらしい。
顔を向けると、二人の騎士が駆けてきているのが見えた。うち一人はフェリシアだった。
彼らは全速力でこちらへ向かってくる。俺達は顔を見合わせ、思わず肩をすくめてしまった。
彼らは鎧を鳴らして傍まで駆けてくる。俺達の目の前まで来た時には、もう息も絶え絶えの状態だった。どっから走って来たんだこいつら。
「な、なぜ、何も言わず、行こうとするのですかっ、エイク殿!」
荒い息を吐きながら文句を言うのはもう一人の騎士だ。
こいつ、誰だっけか。顔に見覚えはあるが、今一覚えてない。騎士団の団長だったかな?
「何の礼もせず皆様を送り出すなどできません! フリッツ様も皆様に礼がしたいと仰られております! どうかお戻り下さい!」
こういうのが面倒だから出て行こうとしたんだがなぁ。だが面と向かってそれを言っても聞いてくれはしないだろう。
俺は懐から革袋を出し、彼らの目の高さまで持ち上げて見せる。彼らはそろって不思議そうな顔を見せた。
「いや、礼なら貰ったしな。ほれ」
「な、何ですかそれは」
「婆さんから貰ったんだ。選別だとよ」
「そ、それとこれとは話が別です! 我々からは何もお返しできていません!」
だが騎士達は納得してくれない。二人は諦めず詰め寄ってきた。
でもな、別ってこたぁねぇんだよ。
「別なわけねぇだろ。元々俺達はあの婆さんの依頼で首突っ込んだんだからよ。その結果こんな事態にはなったけどな、別にお前らや子爵家に恩を売ったつもりはねぇぞ」
「お、恩を売るなんて、そんな!」
ここであの屋敷に戻ったら、何のかんので足止めを食らうだろう。それは勘弁願いたかった。
思わぬ事態に随分と道草を食っちまった。この町なんか、気付けばもう半月以上も滞在しているのだ。
そろそろ出て行った方が良いだろう。追っ手もかけられている事だしな。
「俺達にも都合があるんだよ。それじゃあな」
丁度良く、ホシやスティアも三人娘と別れの挨拶を済ませたようだ。
俺は騎士達に背中を向け、町を出て行こうとして――
「正義のために戦った貴方達に礼の一つもしなかったなんて事になれば、ヴァイスマン騎士団の名折れです! どうかお考え直しを――!」
そんなフェリシアの台詞が妙に気に入らなくて、俺は思わず振り向いてしまった。
「エ、エイク殿――!」
「あのなぁ。前も言っただろうが。正義だのなんだのはお前らがやれってよ。俺は正義なんてもんのために戦った覚えはこれっぱかしもねぇぞ」
嬉しそうな声を上げるフェリシア。俺が町に戻るかと思ったんだろうか。
だが勘違いするんじゃねぇ。俺は文句を言うために振り返ったんだ。正義なんてもんは大っ嫌いだからな。
「し、しかし! エイク殿のされたことは、まさに正義を貫く――」
「しかしも糞もねぇんだよバカ! 助けられる奴がいたから助けた。俺がやったのはそれだけだ! 正義だなんて気色悪いわ!」
「き、気色悪い……!?」
俺だってガキだった頃は、正義なんてものに憧れた事もあった。だがそんなものは、貧しさに耐える俺達を助けちゃくれなかった。
正義なんて言葉は誰の命も救わなかった。誰の願いも叶えなかった。
自分達の身は自分達が守るしかない。現実をまざまざと見せつけられ、正義なんてものはこの世にないと嫌でも理解させられた。
だと言うのに、そんな糞みたいな言葉を声高に叫ぶ奴らがいる。ガキの頃夢物語だと理解した理屈を、大人の癖に馬鹿みたいに自慢する連中がいる。
俺はそこにどうしてもいら立ちを覚えずにいられなかった。
「そんなに正義ごっこがやりてぇなら、勝手にしてやがれ。だが俺をそれに付き合わせるんじゃねぇよ。これはお前らの問題だ。違うか? 団長さんよ」
じろりと見ると、団長らしき男は少し逡巡した後、黙って敬礼を返した。
「じゃあな」
「エ、エイ――」
フェリシアが何か言いかけるが、それに構わず背を向ける。意外にも呼び止められることはなく、無事に門をくぐると、俺達はそのまま町を後ろに歩き出した。
「貴方様、あれで良かったんですの?」
スティアがひょいと顔を覗き込んでくる。
「いーんだよ。何が正義だ馬鹿馬鹿しい。なぁ?」
「本当だよねー。意味分かんない」
ホシがけろりと同調する。文句を言う俺を慰めるように、バドが肩に手を置いてきた。
せっかく良い気分でスラムを出て来たのに台無しだよ。迷惑な話だ。
しばらく地下生活だったからか、外の空気は非常に美味い。しかしそれにどこか寂しさを覚えてしまったのは、どうしてだろうか。
「あら?」
スティアが後ろを振り返る。何かあったかと、俺達も後ろを振り返った。
だがそこには何もない。見えたのは遠くに見えるグレッシェルの町。
そして、門のそばに立つあいつらの、小さくなった姿だけだった。
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フェリシアは遠ざかっていく四人の背中を、門を出たところでじっと見つめていた。
頭にはエイクの言った言葉がずっと渦巻いている。なぜそんな辛辣な事を言われたのか分からず、困惑もあって、何も言葉を出せずにいた。
「正義ごっこか。本当にな」
彼女の隣から小さな声が聞こえる。見れば騎士団長のロドルフが、悔しさを滲ませた表情でそこに立っていた。
「団長……?」
「耳が痛いとはこの事だ。あそこまで言われても、何も言い返せなかったよ、私は」
自分が理解できなかった言葉。しかしロドルフには意味が分かったらしい。
一体どういう意味だったのだろう。ただの侮辱ではなかったのか。
溢れた疑問を抑えきれず、フェリシアは掴みかからんばかりの勢いで彼に向き直る。
「どういう事ですか。団長はなぜ何も言えなかったのですか」
「お前には分からないか、フェリシア」
「気色が悪いなどと……意味が分かりません。なぜそんな風に言われなければいけないのか、あまりの侮辱に私は言葉が出せませんでした」
「そうか」
ロドルフは目を落として笑う。その笑みに含まれる自嘲を、フェリシアは何としても知りたかった。
思わず詰め寄る。しかしそんな彼女に声をかける、一人の人物がいた。
「私は分かったわよ」
反射的に顔が向く。そこにいたのはルフィナだった。
彼女は冷めたような表情でフェリシアを見ていた。なぜだかそれが面白くなく、フェリシアの眉間に少しシワが寄った。
「どういう事ですか」
「どうもこうも無いわよ。そのままじゃない」
そんな彼女の感情を見透かしたように、ルフィナは鼻で笑った。
「昔から言うでしょう? 言うは易し――ってね」
フェリシアははっとする。言われて思い出した。エイクは普段は飄々とした態度を取っていたが、正義という言葉を聞くと途端に不機嫌になっていた事を。
彼の仲間も言っていた。その正義を成すために、最大限努力をしたのかと。その時自分は上手く答えられず、沈黙してしまったのだったか。
ルフィナを見ると、彼女はもう自分を見ていなかった。彼女は優し気な表情で、東の方角をじっと見つめている。
釣られて自分も東を見る。そこにはもう随分と小さくなった、彼ら四人の背中があった。
ずっと昔から、この町は代官の悪政に苦しめられていた。
好きだった祖父から聞いていたフェリシアは、自分がきっと変えて見せると、そんな決意をもって騎士となり、この町への配属を志願した。
しかし現実は重く彼女に圧し掛かかった。権力の前には何も成せず、結局何も変わりはしなかった。
悔しさに歯噛みし続けてきたフェリシア。しかしそんな彼女のことを嘲笑うように、ふらりと来た彼らは凄まじい行動力で、あっという間に代官を捕縛してしまった。
これにフェリシアは感銘を受けた。だが彼らにとってみれば、言うばかりで何も行動できなかった自分達は、一体どう目に映っただろうか。
(……何が騎士か。ただの未熟者じゃないですか。やっと分かった。エイク殿は私達を侮辱していたわけじゃない。諭して下さっていたのですね。騎士の本分をまっとうしろと。正義とは、言うだけでは意味など無いのだと)
団長もルフィナもそれを分かっていた。理解できなかったのは自分だけだった。
自分があまりにも未熟なせいで、大恩ある人達を黙って見送ってしまうなんて、なんて情けない事だろう。
フェリシアは湧き上がる気持ちにいても立ってもいられず、大きく息を吸い込んだ。
「エイク殿ーっ!!」
小さくなった背中に声をかける。もう彼らの姿は豆粒のように小さい。
だから声が届くとは、彼女自身思っていなかった。突き動かされての行動だった。
でも。彼らは振り向いた。
声が届いたのだろうか。願いが伝わったのだろうか。その表情は小さすぎて、どうして振り返ったのかは分からない。
でも、振り向いてくれたのだ。奇跡でも偶然でも、何でも良かった。
フェリシアはビシリと背筋を伸ばし、しばし彼らの姿を目に焼き付ける。
そして彼らの無事を祈りながら、深々と頭を下げた。