210.オーバリーの意味
代官を思いきりぶん殴った後。代官は床に転がり、ぴくりとも動かなくなった。
死んだわけではない。ただ気絶しているだけだ。
まあこんな奴本当に殺ってしまっても構わんと思うが、今は目的もある。頭にくるが自重しよう。戦いはまだ終わってはいないのだ。
俺は転がる代官に縄を打ち、乱暴に肩に担ぐ。そして戦いが終わったことを知らしめるため、皆のもとへと向かった。
フリッツもルフィナもサリタも、皆口を真一文字に結んでいる。勝利の凱旋のはずが、これではまるで敗戦の将だ。
だが気持ちは嫌でも分かる。沈痛な面持ちを浮かべながら、俺達は屋敷の廊下を足取り重く歩いた。
目的の場所につけば、ホシやバドは言わずもがなだが、騎士達も傭兵達をすでに倒した後で、連中を捕縛し転がした状態となっていた。
首魁だけでなく手下までもが俺達に下った。それを捕縛した代官と俺達の姿に理解した騎士達は、一斉に鬨の声を上げていた。
代官一派は瓦解した。もうここまで来れば、後は任せて大丈夫だろう。
俺が代官を地面に転がすと騎士達はフリッツを囲み、また喊声を上げる。そんな一団から静かに離れ、俺達はスラム街へと戻ったのだった。
スラム街に着いた俺達を待っていたのは、残してきた面々だった。
火が消え、さらに騎士が傭兵達を制圧した事で、スラムは一旦の落ち着きを取り戻したらしい。
歩いてくる俺達の姿を見て、面々の顔には安堵したような笑みが浮かんだ。
しかし、事の顛末を説明すると、彼らの顔は大きく歪んだ。
「馬鹿野郎がッ! アンタが……アンタが死んじまって、どうすんだよっ!」
「団長。アンタって奴は……」
バルテルとヘルマンは奥歯を固く噛み締め、苦々しい表情を見せた。
アウレーンが今までどう生きて来たか、この二人が一番知っている。彼に共感したからこそ二人は傭兵団と事を構えることも辞さず、今この場に立っているのだ。
しかし事が終わってみれば、その中心人物がいない。どんなに悔しい事だろう。
彼ら二人はアウレーンの気持ちに応えるために動いていたのだ。その固く握られた拳からも、彼らの無念さが伝わってきた。
かける言葉が見つからない。皆が黙りこくり、周囲に重苦しい空気が下りる。
「そうかい……。まさか、あのアウルの坊やがね……」
そんな中最初に口を開いたのは、あまり関係の無さそうな婆さんだった。
婆さんは呟くように言って、静かに目を閉じる。その表情は寂しさや懐かしさなどが綯い交ぜになった、とても複雑なものだ。
彼女の胸の内にも同じ感情が渦巻いている。それが伝わる俺は言葉が詰まってしまい、何も言うことができずにいた。
「ばーちゃん、知ってるの?」
婆さんに問いかけたのは、彼女に懐いているホシだった。
「そうだねぇ……。あれはもう、三十年以上も前の話さ」
そうして婆さんは話し始める。彼女がこの件に首を突っ込もうとした、その理由を。
「私はね。昔、あの屋敷で仕えていたんだよ。当時のグレッシェル子爵様にね……。だからアウルの坊やがいたことも、よく覚えてるさ。今でも目を瞑れば思い出せるよ。旦那様や奥様のお顔……美しい庭園に屋敷……。あの頃は、本当に幸せに溢れていたよ」
彼女はゆっくりと目を閉じる。顔には当時の幸福さがありありと浮かんでいた。
あまりにも穏やかな顔つき。しかしすぐに、その顔は大きく歪んだ。
「旦那様、奥様と続いてお亡くなりになった後、私ら使用人は皆一斉にクビになってね。後はもうこの通りさ。解雇されて、この町を去った者も多かった。ま、アタシは残ったけどねぇ」
「何でよ? こんなスラムに住んでまで。何か理由があるの?」
そこまでして町に一人で残る意味があるのか。そうルフィナが口を挟む。
この婆さんにとっては意味のある行動なんだろう。しかしこの町の現状を見れば、そこに意味があったとは到底思えない。
ルフィナの顔には理解できないと書いてある。だが彼女に目を向けた婆さんの顔には、自嘲のような笑みが浮かんでいた。
「アンタは貴族だったねぇ。じゃ、知ってるかい? ”オーバリー”の家名を」
そうして口にした”オーバリー”の名。皆はそれぞれ異なった反応をする。
「オーバリー? それって確か」
「フェリシアさんのぉ名前ですよねぇ」
サリタとマリアネラは不思議そうに口にした。
「おい、それってよぉ」
「ああ。団長もオーバリーだったはずだ」
傭兵二人はそう言って顔を見合わせた。
血の繋がりなんて無さそうな二人が同じ家名というのは妙な話だが、しかし不自然な点はそこだけだ。その家名がどうしたのかと、皆の顔には困惑が浮かんでいる。
しかしただ一人、スティアだけは何かに気付いたように、ハッと目を開いた。
「どこかで聞いた家名だと思っておりましたが。まさか、”公爵殺しのオーバリー”? 貴方、もしかして――」
「ふ、知ってるのがいたかい。そうだよ。私はその悪名高いオーバリー家の人間さ」
突然出て来た物騒な名前に、俺達は何事かと婆さんを見た。彼女は自嘲気味に口角を上げ、空を見上げて目を細める。雲一つない青空だった。
「もうずっと昔の話さ。どこにでもいるような男爵家の娘が、とある公爵の嫡男に見初められて嫁いだんだけどね。数年後にその旦那――当時の当主が毒殺されたのさ。後継ぎと一緒にね。騒然としたものさ、公爵家の当主が殺されたんだから。当然犯人が捜索されたよ。国を挙げてね」
誰もが口を閉ざしていた。皆が婆さんの次の言葉を待っている。
静かな間が開いた後、婆さんは顔を下ろす。しかし視線は誰へも向けられていない。
昔の記憶を手繰るように、婆さんは遠くを見つめて目を細めていた。
「その事件の直後に姿を消した者がいたんだ。皆はその人物が犯人だと決めつけてかかったよ。その人物こそが、その男爵家の娘。……そう、私の姉だったんだよ」
婆さんはふぅとため息を吐く。その吐息は長年の苦労を感じさせるような重苦しさを孕んでいた。
貴族の毒殺。この国では大変な重罪だ。本人は確実に死罪だが、その家族に関しても裁きが下される事になる。大罪人として同様に裁かれる事になるはずだった。
だが、そのはずの婆さんがここにいる。婆さんの台詞からも、彼女がなぜ裁かれなかったのかを何となく察する事ができた。
「私の姉はどうやったのか、国の捜索を振り切ってね。未だに行方知れずさ。そのまま裁判も開かれたけど、証拠不十分でまだ犯人は決まってない。姉の他にも一人、消えた使用人がいたらしくてね。そいつの可能性もあったから、結局宙ぶらりんのままさ」
でもね、と婆さんは息を継ぐ。
「人って言うのは都合のいい様に解釈するもんさ。当然、分かるだろう? 私達の受けた仕打ちが。……私らは町を追われたよ。誰も守っちゃくれない。町の代官から一転、流浪の生活さ。自分達の存在を知られたらどこにもいられない。だからオーバリーの名を私らは捨てたんだ。生き延びるために」
当然そうなるだろう。人間なんてのは、自分より弱い相手にはどんなにも残酷になれる生き物だ。
シュレンツィアでも見た。一人の人間を寄って集って叩く事に疑問を感じないばかりか、それに優越感すら感じる。それが人間って奴だと思う。
「でもね――」
だが。そういう一面を持っているというだけで、人間と言う奴はそんな糞つまらない生き物でも無いと、俺は知っていた。
「そんな私らの素性を知った上で迎えてくれたのが、ここの旦那様や奥様だったんだ。貴方達に罪は無いからってね。……嬉しかったよ。言葉じゃあ表せないくらいに。今まで人の目に触れる事にすら気を張っていたのに、誰にも憚らず真っ当な生活を送れるようになったんだ。それだけじゃあない」
その代官夫妻はオーバリー一家に、町で働くのは難しいだろうからと、屋敷での仕事まで与えてくれたそうだ。
普通に使用人として仕える者もいれば、庭師だったり料理人だったりと、特技を生かした職についた者もいた。
そしてこの婆さんは。
「私には薬師としての知識を与えて下さったんだ。奥様が博識な方でねぇ。薬草なんかも多くお育てになっていて、よく一緒に手入れしたもんさ。私が今こうしていられるのも、ひとえに奥様のおかげだよ……」
薬師の知識。一言で言えば簡単だが、それはそんなに軽いものじゃない。
爵位に関わるような知識だ。普通なら誰も教えようとはしないだろう。
ならどうして婆さんに教えたのか。
思うにきっと、奥様とやらが本当にこの一家を信頼している、という事の証明だったんだろう。この一家を子爵家が重用していますという表明だったんだろう。
公爵殺しの疑いをかけられている一家だ。そんな人間を抱き込めば、自分にも飛び火する可能性はかなり高い。
そんな危険を知って人を助けられる人間など、一体どれだけいるだろう。自分の不利益を顧みず他人に手を差し伸べるなど、どんなに難しい事だろう。
だが当時の子爵家は、オーバリーの者達を見捨てなかった。信頼の証明は一家の心を救うために。重用の表明は不当な扱いから一家を守るために。
嬉しくないはずが無い。形だけ助けたわけじゃなく、真に一家の事を思いやってくれたのだから。
「そんな奥様に、アタシは何もお返しできなかった……。だからね。せめてお二人が愛したこの町を守りたくて、自分なりにできる事をやってるってわけさ。ま、自己満足みたいなもんだよ」
そう言って婆さんはニヤリと笑うが、俺はそれに呆れてしまう。
そういうのはよ、自己満足って言うんじゃねぇ。自己犠牲って言うんじゃねぇのか。三十年以上もずっとスラムを守ってきたんだ。人生なんてパアだろう。
婆さんの口調は軽かった。だが反して、その言葉はあまりにも重い。
流石の俺でも、とても茶化す気にはなれなかった。
「あの、ちょっとよろしいですか?」
何も言えなくなり皆が口を閉ざす中、不思議そうに口を開いたのはスティアだった。
「疑問なんですけれど。わざわざスラムに住んでいる理由はどうしてですの? 薬師としての知識があれば、普通に町に住めるでしょう? スラムを守りたいのなら、町から通ったって良いわけですし」
「あ、それ、私も思ってましたぁ。あんなに凄い薬が作れるのにぃ、ってぇ」
マリアネラもスティアに続いて疑問を口にした。
確かに言われてみればそうだ。スラムを守りたいと言っても、わざわざそこに住む理由はない。
むしろ身に危険があるだけで、何のメリットも無いはずだった。
二人の言葉に、ここにいる全員がそう思い始めた時。
婆さんは俺達に向かってゆるりと頬を緩ませる。
「奥様が薬草をお育てになっていた、って言ったろう?」
そして後ろを振り返った。
「それがあったのが、ここなんだよ。奥様が大切にされていた庭園も……ね」
俺達も婆さんの視線を追う。そこには黒く焼けたスラムがあった。
今はもう、そんな名残は全く無い。しかし婆さんの目にはきっと、今もまだ昔の光景が映っているんだろう。奥様の記憶と共に。
スラムを見つめる彼女の横顔は今までにない程に穏やかだ。
その表情を横目で見ながら、俺はそんな事を考えていた。