209.悪魔になった少年
むかしむかしある町に、一人の少年が住んでいました。
少年は貴族の家に生まれ、何不自由ない毎日を過ごしていました。
やさしいお父さんとお母さん、たくさんの家来にも恵まれて、少年はとてもやさしく育ちました。
そんな少年を周りの人達は、天使のようだととても可愛がっていました。
ある日の事です。
お父さんに連れられて、少年は町へと出かけることになりました。
もちろんお母さんも一緒です。家族みんなで馬車に乗り、少年はたいへんご機嫌なようすでした。
にぎやかな声であふれる町の中を、馬車はゆっくり進みます。
少年は窓にかじりついて、町のようすを楽しそうに見ていました。
お父さんとお母さんは少年を優しい目で見ています。
町の人達も、そんな少年の様子に笑顔を浮かべていました。
そんなときです。馬車が急に止まってしまいました。
みなが慌てて飛び出すとどうでしょう。そこには小さな女の子と、その母親が立っていたのです。
ふたりは必死に頭を下げています。話を聞けば、女の子が馬車の前に飛び出してしまったようでした。
母親はしきりに謝りますが、お父さんはまあまあと笑って言いました。
「子供なのだから仕方がない。でも今後ない様に気をつけなさい。娘さんがけがをしては大変だからね」
それだけを親子に言って、馬車はまた皆を乗せて走りだしました。
少年は窓から顔を出して、先ほどの親子を探します。するとお母さんに怒られて、しょんぼりしている女の子の姿が見えました。
少年は可哀想に思い、お母さんにそれを話しました。
するとお母さんはにっこりと笑います。
「それは怒っているのではなくて、叱っていると言うのですよ。もう悪い事をしないように、あの子に言い聞かせているの。子供が大切だからという、愛情からくるものなのよ」
少年はよく分かりません。今まで怒られたことも、叱られたこともなかったからです。
もう一度窓から女の子を見ます。女の子は母親の手を握り、去っていくところでした。二人の背中はとても仲がよさそうに、少年には見えました。
つぎの日。お母さんが大切にしていた壺がまっぷたつに割れていました。
やったのはなんと少年でした。これにはみんな大慌てです。
何かのひょうしに割ってしまったんだろう。けががあっては大変だ。
幸い少年にけがはなかったようで、みんなは胸をなでおろします。
「こんなところに壺を置いたのがいけませんでしたね。今度はもっと安全な場所に置くことにしましょう」
自分の壺で少年がけがでもしたかと、お母さんも気が気ではありませんでした。
一安心とほっとします。
ただ少年はそんなお母さんを、黙ってじっと見上げていました。
それから、屋敷では何かが壊されることが度々起きました。
庭園の花をたくさん切られたり、家族の絵を燃やされたり、お父さんの部屋から大切な書類が盗まれたこともありました。
犯人は分かっています。少年です。
あれから少年は、度々屋敷で悪さをするようになったのです。
ただ、少年が優しい事を知っているみなは、少年を注意できません。何かしているのを見ても、見ないふりをします。
きっとまた優しい少年に戻ると、そう思っていたからです。
ただそれが少年には不満でした。
どんな悪さをしても、誰も叱ってくれません。
どうしてか悩んだすえ、少年は今度は屋敷をこそこそとうろつくようになります。みなの本当の気持ちを、こっそりと聞いてやろうと思ったのです。
そんな奇行が続いたある日、少年は夜中にぱちりと目が覚めました。
それはたまたまでしたが、夜中ならなにか特別な事が聞けるんじゃないかと思い立ち、少年はベットからぴょいと抜け出しました。
うす暗い廊下を、足をしのばせてこそこそと歩く少年。すると目の前に明かりが漏れている部屋がありました。
なんとそこはお父さんとお母さんの寝室です。
これはチャンスと少年はこっそり近づきます。そして聞いてしまいました。
「ああ、何てことでしょう。あの悪魔を早くここから追い出さなければ!」
それはお母さんの声でした。
「今、教会の方に相談にのってもらっている。もう少しの辛抱だ」
お父さんの声もします。
どうやらこの屋敷にすみついた悪魔を追い出そうと話をしているようです。
少年は目を丸くして聞き耳を立てます。
そして、知ってしまいました。
「――ぼくを悪魔と言っているのか」
そうです。
なんとお父さんとお母さんは、少年のことを悪魔だと言っていたのです。
「今までぼくを可愛がってくれたのは、ただのご機嫌取りだったのか。悪魔をなだめるための芝居だったのか」
少年は思います。
今まで愛されていると思っていたのは勘違いだった。お父さんも、お母さんも、家来も町の人も誰も彼もみんなが。
自分を悪魔だと怖がっていたから。
恐れていたからあんなにも優しかったのか、と。
「ならぼくは本当の悪魔になってやる。お前達の言うような悪魔になってやる!」
天使のように優しい少年は、愛した人たちに裏切られたショックで、悪魔へと変わってしまいます。
「ああ、ゲオルク……。もう少しの辛抱よ。貴方にとりついた悪魔を、必ず退治してあげますからね」
少年の耳にはもう、お母さんの声は届いていませんでした。
少年はその日から変わりました。
名ばかりの家族なんてもういらないと、少年はお父さんとお母さんを殺してしまいます。
家来も全員クビにしました。残りたいと言う者もいましたが、少年は屋敷から問答無用で追い出してしまいました。
こうなれば町はもう自分のものです。
悪魔となった少年に町の人達は震えあがり、誰も反抗してきません。
少年は望むままに悪事を繰り返します。
しばらくの間、少年は自分のやりたい放題に町を荒らし回りました。
今日もまた悪事を働いてやろう。今度は町を燃やしてやろうか。
少年がそんなことを考えていた、ある日の事です。
少年の前に一人の騎士が現れたのです。
「どうか今までのような事はお止め下さい。誰かを傷つける行いは、誰も幸せにはなりません」
騎士は少年へ悪事を止めるよう言ってきました。ただこれは少年にとって大変面白くありません。
もともと自分を悪魔と言ったのはお前達じゃないか。お前達の言うように悪事を働いて何が悪い。
少年は騎士の言う事を無視して、その胸を剣で一突きにしてしまいました。
するとどうでしょう。
胸に開いた傷跡から、剣を通じて騎士の心が伝わってきたのです。
そして騎士が誰かと言うことも、そのとき少年は分かりました。
なんと、屋敷から追い出したはずの弟だったのです。
弟の真心が少年を包みます。それは少年を心から心配する愛情でした。
その思いに触れた少年は、あまりの温かさに泣き出してしまいました。
少年が本当にしたかったのは、悪事ではありません。
ただ叱って欲しかっただけだったのです。
愛して欲しかっただけだったのです。
そんな小さな願いを抱えた少年は、弟の心に触れて悪魔から人間の姿に戻ります。
少年が悪魔になってから、もう長い時間が経っていました。人間に戻った時には、少年は中年の男の姿となっていました。
死んでしまった弟に、男はわんわんと涙を流します。でももう弟は戻ってきてくれません。
男は今まで、自分の思ったことはどんな事でも好きにやってきました。できなかったことは一つもありませんでした。
しかしどんな悪事をはたらいた男でも、人間を生き返らせることはできません。
男はわんわんと泣き続けます。悲しくて悲しくて仕方がない男は神様に祈ります。
「弟を生き返らせてください。お願いします」
でも神様はこたえません。
男はずっと皆を苦しめてきたのです。長い間悪魔になっていたせいで、心もゆがみきっています。
さすがの神様も助けようと思いませんでした。
あきらめられない男は、またも悪魔に頼ってしまいます。
「弟を生き返らせて欲しい。何でもする」
これに悪魔はこたえます。
「生き返らせるのは無理だ。だが悲しみを消すことはできる」
そうして悪魔は男のゆがんだ心を、粉々に壊してしまいました。
男の悲しみは確かに消えました。しかし心を壊された男はもう何も感じることができません。
弟を殺したという事実を胸に抱えながら、男は呆然とさまよい続けます。
罪を償うことも泣くことも、悔いることも嘆くことも、何一つできないままに、男はたった一人で生き続けることになったのでした。