208.アウルの心
「カハ……ッ」
胸を突かれ、彼はガクリと膝から崩れ落ちる。引かれた剣に傷口が開き、溢れた血で絨毯が赤く染まっていく。
「ア――アウレーンッ!!」
くずおれたアウレーンをフリッツが慌てて支える。四肢をだらりと伸ばしたアウレーンは、ごぼりと口から血を吐いた。
あわや胸を突かれるかと思ったフリッツ。代官の異様な行動に、俺は全く動けなかった。
後ろのルフィナやサリタも同様だ。あまりにも突然の事に、誰も動く事ができなかった。
ただ一人、動く事ができたのは。
その行動を察する事ができたのは、俺が肩を貸していたはずの男、アウレーンただ一人だけだった。
「ゲ、ゲオ、ルク、様……」
アウレーンは、血でくぐもった声を上げる。あれは、致命傷だ。もう傷薬でどうこうという傷じゃない。俺が持っている五等級の生命の秘薬ですら焼け石に水だろう。
今までの経験から俺は、彼がもう助からないと悟ってしまった。
相手の異様さ加減に戸惑い、≪感覚共有≫に頼り過ぎた。
俺は阿呆だ。
思わず奥歯が軋んだ。
「何だ貴様は」
死が寸前にまで迫るアウレーン。だが彼を見る代官の目は氷のように冷たい。
ずっと自分を支えてきた男に対して、まるで認識していない様子の言葉を吐き、じろりと彼を見下ろしている。
「ア、アウレー、ン、で、ござい、ま、す……」
「アウレーン? フン、知らんな」
血を吐きながら言うアウレーンに僅かすら表情を崩さず、代官は剣を振り上げる。
「ち、父上! もうお止め――!」
「目障りだ。消えろ」
父親へ悲鳴のような声を上げるフリッツ。だが代官は上げた剣を躊躇なく振り下ろした。
剣は真っすぐに二人へと向かって行く。俺は今度こそ迷いなく床を蹴り飛ばした。
「く――ッ」
「二度もやらせるかよ」
抜き放った魔剣が代官の剣を弾き飛ばした。剣は部屋の隅へと飛び、乾いた音を立てて床に転がる。
これに代官は右手を押さえて一歩下がった。
「エ、エイク殿!」
「そいつを寝かせろフリッツ。早くしろ!」
俺を呼ぶフリッツに目もくれず、俺は懐に手を伸ばし瓶を一つ取り出した。
まともに開けるのももどかしい。封をむしり取り、乱暴に栓を引っこ抜く。
こいつは俺のミスだ。簡単に止められたはずが、あんな見え見えの行動を許してしまった。
だからと言う事もあるが、それだけじゃない。俺には相手の感情が分かる。そして感情には相手の思いが――心が乗るのだ。
先ほど聞いたアウレーンの話が脳裏を過ぎる。アウレーンという人間を知ってしまった以上、目の前の男がこのまま無念を抱えて逝く事を、俺は到底見過ごす事などできなかった。
「こいつに言ってやりたい事があるんだろう。その時間くらいくれてやる。こいつを飲めアウレーン!」
寝かされたアウレーンに片膝を突いて話しかける。
アウレーンの胸からは血が止めどなく溢れている。彼はもうどこを見ているかも分からないような、生気の無い表情をしていた。
死相だ。もう意識など無いのかもしれない。
だが俺はこいつの意地に賭け、耳元で大声を上げた。
「聞こえるかアウレーン! こいつを飲み込め! お前が今まで貫いてきた意地を見せてみろっ! 最後だ! これが最後なんだぞっ!」
最後のチャンス。そんな言葉に反応してか、アウレーンはピクリと体を震わせた。
消えかかっていた彼の感情がふわりと浮き上がってくる。次の瞬間、彼は口に溜まっていた血をごくりと飲み下した。
「よしッ! こいつも飲め! ちっとは持つはずだッ!」
俺はアウレーンの口を開くと、生命の秘薬を流し込んで下あごを持ち上げる。アウレーンは最後の力を振り絞り、それを体内へ送り込んでいく。
彼の喉仏が上下に躍動する。すると、すぐに効果が現れ始めた。
胸から溢れる血が勢いを緩め、アウレーンの目にも微かな光が宿り始めたのだ。
「ご、ごほ……っ! ゲ、ゲオ……様……」
血反吐を吐きながら、アウレーンがまた声を上げる。天井を向いていた視線は再び代官へ。だが必死に言葉を紡ごうとするも、声が小さく聞き取れない。
死の淵にありながらも、アウレーンは何かを伝えようと必死に口を動かしている。しかしそれを受ける代官の表情はあまりにも冷たかった。
「駄目だ! もう喋るなアウレーンッ!」
見かねてフリッツが声を上げる。だがあの薬の効果は、精々数分を延命するに過ぎないものだった。
「言わせてやれフリッツ」
助ける手立てがない今、俺達にできるのはアウレーンの最後の望みを叶えてやる事だけ。
俺が首を横に振るのを見て、フリッツは絶望を顔に浮かべる。だが分かっていたんだろう。すぐに俯き奥歯を噛み締めた。
「ゲ……に……様……。わた……し……は……」
「何だこいつは」
弱々しい声で何かを言おうとするアウレーン。代官は興味も無さそうな声を出し、床に寝かされたアウレーンを見下ろしている。
全く動かない表情。胸にぽっかりと空いた感情の無い空間。まるで人形のような人間がそこにいる事に、俺は気持ち悪さすら覚えていた。
「ゲオ兄様――」
だがその時だ。
アウレーンのその一言が、代官の表情、そして感情を僅かに動かした。
「お、お前、は」
「アウ、ルで、ござい、ます。ゲ、ゲオ、兄様」
「アウル? ――お前、アウルか!」
代官は何かを思い出したように目を見開く。
アウル。きっとそれが、彼がこの屋敷にいた際の呼び名なんだろう。
アウレーンはごほごほと血反吐を吐きながら声を上げる。その声は小さいながらも、今度ははっきりと聞こえていた。
「不躾です、が……私から、お願い事、が、ござい、ます。どうか……どうか、お聞きくだ、さい」
「何だ、藪から棒に。まあ良い。言ってみろアウル」
先程の態度から一転、代官は急に話を聞く態勢に入った。声も先程までとは変わって、僅かな抑揚が生まれていた。
知り合いと言うのは本当の事だったようだ。初めて見せた代官の人間らしさに、つい驚いてしまう。
「今まで、私は、兄様の、行う事には、口出しを、控えて、おりまし――ごほっ、ごほっ!」
「アウレーン……っ!」
フリッツがアウレーンの手を強く握りしめる。その目には涙が浮かび、今にも零れ落ちそうだった。釣られた俺の目にもじわりと涙が浮かんでくる。
既に絨毯は血で真っ赤に染まっている。もう致死量を超えているように思う。
しかしアウレーンはゴホゴホと血反吐を吐きながら、最後の力を振り絞る。
「どうか、今までの、ような事、は、お止め、下さい。誰かを、傷つける、行いは……誰も、幸せには、なりません」
代官の眉がピクリと動く。明らかに不快に感じている様子だ。
しかしアウレーンは止まらない。もう止まる時間すら彼には残されていないのだ。
「旦那、様も……奥様、も……誰も、望んで、おりま、せん」
「つまらん。それがアウル、貴様の願いなら――」
「それに、兄様の、ためにも、なりません」
代官の言葉を遮って、彼は自分の言葉をしっかりと紡いでいく。
「兄様、自身……幸せ……ため……どう、か……ごほっ」
「アウレーンッ!」
そして最後の力を振り絞り切った彼は、血をごぼりと吐くと視線を代官から天井へと移した。
まだ呼吸はある。しかし、意識はもう無いだろう。
彼の最後の言葉。それは嘘偽りのない彼の心だった。代官にはこの必死の思いが届いただろうか。
俺は僅かな期待を胸に代官の顔を伺う。だがそこには、冷酷な表情を浮かべる男だけがあった。
「私自身のため? ふん、誰が騙されるものか。貴様達はいつもそうだ。人を思う振りをして、結局は自分の思う通りに私を動かそうとする」
代官は手を握りしめる。その手はぶるぶると震えていた。
今まで不明だった彼の心に、今初めて、怒りという感情がふわりと湧き上がってきた。
「私は誰も信じない。私が信じる者は、この世界に誰もいない! それを証明したのはお前達だ! 私を悪魔と罵るお前達が! 私を排除しようとしたお前達がッ! 私は――私はッ! 私自身しか信じないッ!」
この部屋に入る前、この代官が悪魔に取りつかれたように豹変したとアウレーンは言っていた。しかし代官は今、アウレーン達が自分を悪魔と言って排除しようとしたと口にした。
過去、一体何があったのかは分からない。しかしアウレーンが最後の力を振り絞った忠諫を、代官は嘘だと一蹴した。
これだけはどうしても見過ごせなかった。死に逝くアウレーンのためにも。
「≪感覚共有≫」
俺はアウレーンと代官に魔法をかける。共有するのは当然、アウレーンの言葉が真実である、その証拠。
彼の内に宿る、感情の残り香だった。
「……これは」
「俺にはちょっと珍しい魔法が使えてな」
怒りに顔を歪めていた代官。だが彼は、何か気付いた様子でぽつりと呟いた。
「アウレーンの心だ。分かるだろ? こいつがお前をどう思っていたかがよ」
子供に言い聞かせるように静かに話す。代官は驚いたように目を見開き、アウレーンをじっと見つめた。
「お前はアウレーンの言う事を嘘だと言ったな。でもこいつの心を知って、まだ嘘だと言えるか? こいつがお前を騙すために、死に際にまで嘘を言ったと思うか?」
人間の体には魔力が絶えず流れている。そこに別の魔力が流れ込もうとすると、どこからそれが来ているか、異物が入り込むような感覚で何となく分かる。
今代官は、自分の胸に感じる感情がどこから来ているか、はっきりと理解しているはずだ。
その温かい感覚が誰からのものなのか。それがどんな感情なのか。
「そんな……嘘だろう?」
代官は呆然と口にする。
共有している俺にも分かる。今アウレーンの胸に浮かぶのは、ただただ温かく柔らかな感情。
冷え切った代官を包み込むような、優しさに満ちたものだった。
ふわりと。花のような香りが鼻をくすぐったような気がした。
「こいつは死に際にまでお前を思っているんだ。本当にお前のためを思って、お前を叱ったんだ。アウレーンはずっとお前の傍にいた。お前に邪険にされながらも、ずっとお前と共にいたんだ。そんなこいつを、お前は信じられないってか?」
代官の視線の先には、もう呼吸が止まろうかと言う男がいる。彼はよろよろと近づいて、両膝を床に突いた。
「アウル……どうなんだ。お前の気持ちを、聞かせてくれ……。頼む……頼む……!」
代官は弱々しい声を上げ、倒れるアウレーンの手を両手で握る。その姿はまるで子供が駄々をこねているようだ。少なくとも先ほどまで感じられていた異様な雰囲気は、嘘だったかのように鳴りを潜めていた。
「むか、しの……ように……」
その声が届いたのか、アウレーンは僅かに目を開く。
すでに瞳孔は開いている。しかし、何かが彼を動かした。
「また、兄様と……父が……手入れ、した……庭を…………二人……で…………」
はくはくと口が動き、途切れ途切れに言葉を発していく。代官と共に暮らしていた頃の追想だろうか。
アウレーンの頬は僅かに緩んでいる。今の彼には一体何が見えているのだろう。
「あのひ、の……やく、そく…………。わた、しは…………にい、さまの…………きし……に…………」
彼の感情が見る間に萎んでいく。まるで魂が体から抜けて行くかのように。
「アウル、駄目だ! 逝くな! 逝くんじゃない! 私を一人にしないでくれっ!」
代官は悲痛な声を上げ、彼の手を握り締める。目から溢れる涙をそのままに、まるで子供の用に泣きじゃくる。
そんな彼へアウレーンはにこりと微笑む。
そしてそのままこの世を旅立って行った。
「アウルっ! う、うあああぁぁぁ……っ!!」
アウレーンの手を握りしめ、代官は悲痛な声を上げていた。
彼の異常なまでの悲しみが俺に押し寄せてきて、思わず俺の目からもボロボロと涙が零れ落ちた。
だがそんなものは構うものか。俺は涙を拭いもせず代官に詰め寄り、怒りに任せて胸倉を掴み上げた。
「何を泣いていやがるテメェッ! コイツのためか? それとも――テメェ自身のためかっ!」
代官のために人生を捨てたアウレーン。彼は自分を殺した代官の事を、最後まで心から案じていた。
だが目の前のコイツはどうだ。こいつの悲しみはアウレーンに対してのものじゃない。
あくまでも自分自身に向けられた、己に対するものだった。
俺は今まで≪感覚共有≫で、多くの人間の感情を感じ取ってきた。
人間の感情を表現する、喜怒哀楽なんて言葉がある。だがそんな一言では表現できないほど、人間の感情は複雑怪奇なものだった。
一人一人、物事に対しての受け止め方が違い、それによって抱く感情も千差万別。場合によっては、俺が全く理解できないような反応を示す者もいた。
だがそんな中で悲しみという感情だけは、人を思いやる気持ちで溢れていたように思う。
自分以外の誰かを強く思う気持ち。だから俺はその感情につられ、今まで何度も涙を流す羽目になってきた。
それなのに。
「こいつの思いを今、その目で見ただろうが! 心で感じただろうが! だってのにお前は、この期に及んでまだ自分の事しか考えられねぇのかっ!」
目の前のこいつは、自分を悲観して悲しみに暮れていただけだった。
アウレーンが死んだ事など何とも感じていない。ただただ自分が可愛くて、それで涙を流しているのだ。
こんな奴の悲しみで涙するなんてあまりにも馬鹿馬鹿しく、そして虚しい。
俺は≪感覚共有≫を即座に切る。いつの間にか俺の手は固く握り締められていた。
「いつまでも甘え腐ってんじゃねぇッ! この人間のクズがあッ!」
その拳は衝動のままに、代官の顔面を殴り飛ばしていた。