203.一人じゃない
父上の屋敷、その正門まで真っすぐに突き進んだ僕達。でもそれを見過ごすわけもなく、中から大勢の傭兵達が足音荒く飛び出してきた。
その数は五十を超えているように見える。
正門を挟み、僕達と傭兵達のにらみ合いが続く。少しでもこの均衡が破られれば、すぐにでも殺し合いが始まる。
そんな一触即発の張り詰めた空気が、お互いの間を満たしていた。
「お前達……! こんなことをしてタダで済むと思っていやがるのかっ!」
「黙れ! 貴様ら傭兵風情が大きな顔をできるのも今日までだ! 我らには大義がある! 潔く軍門に下れ!」
傭兵と騎士が大声で怒鳴り合う。そんな様子を僕は、最後尾から見つめていた。
「出番だ。一発かましてやれ!」
隣のエイク殿が小さく声をかけてくる。こんな状況にも関わらず、その台詞はまるでおどける様なものだった。
第一師団で聞いていた彼の噂。それは一言で言えば、まともに戦う事もしないばかりか、信用に乏しい情報を流布し軍を攪乱させる、軍の汚点というものだった。
実際、シュレンツィア防衛の際には第一師団と第三師団の足並みが揃わず、シュレンツィアは甚大な被害を受けてしまった。
そればかりか第三師団はそれを第一師団のせいだと主張し、なんとシュレンツィア防衛後、第一師団に殴り込みをかけるという愚行にすら出たほどだった。
彼が元山賊だということは皆が知っている。その点だけ取り上げても良い印象を抱けるはずもない。だから最初、僕はエイク殿に不信感を隠さなかった。
彼のいい加減な性格や、その粗野な言葉遣いはあまりにも鼻についた。とてもじゃないけど信用のおける人物だとは思えなかった。
ただ、今なら分かる。彼の立てた作戦を聞き、僕の心象は変わった。
彼の作戦は、僕には穴など見つけられないものだった。そればかりか僕も聞いていなかった、人質を余すことなく助ける手も考えていたようだった。
これほどの策を立てられる人間……そして、人を助けようという意思を持っている人間が、悪人なんだろうか。
そしてそんな人間が、軍の汚点などと言われるだろうか。
彼や、彼の仲間も言っていた。 見たいものを見て、見たくないものを見なかったと。王子殿下が無能だと言うのかと。
言われてみて初めて、そうかもしれないと思ってしまった。
僕達は噂を信じ込み、それを疑わなかった。真実であるかどうか、確かめようとすら思わなかった。
でも今思えば、聞こえてきた話の中には、第二師団とは良い関係を築いているらしいというものもあった。
見たいものしか見ない。そう言われても仕方がないのかもしれなかった。
僕は彼に目を向ける。
台詞は軽かった。でもその目を見れば、彼の真剣さが確かに伝わってきた。
彼の作戦では、ここで僕が宣言することになっている。僕が宣言して初めて、この戦いに正当性が生まれるのだ。
貴族として、不正を正す正当性が。僕と……父の。あの父との戦いだ。
彼のそばに立つルフィナ殿も、僕の方を真剣な表情で見ていた。
彼女からの言葉も効いた。その言葉が臆病な僕を奮い立たせてくれたんだ。
こんな恰好悪いままで終わらせたくはなかった。
僕は二人に頷いて返す。エイク殿がバシンと僕の背を叩いた。
僕の心に再び生まれつつあった恐怖が、パッと離散した気がした。
「聞け、お前達!」
一歩前へ出る。そして、できる限りの大声を上げた。
一斉に割れる騎士達。目の前が開け、父の屋敷への道が現れた。
「今日、私は父の不正を暴くためここに来た! 父をかばうと言う事! それはすなわち、国に反旗を翻すと言う事だ!」
ゆっくり前へ進みながら、僕は傭兵達へ宣言する。
父をかばうなら国賊なのだと言う事を。ここで戦い殺されたとしても、それを罪に問うどころか、当然のものとして処理されるのだということを。
「今その剣を収めれば、情状酌量の余地があるものとして、私から口をきいてやる! その腰の物を抜く前に、よくよく考えよ!」
僕は騎士達の前へと歩み出た。ここからは、傭兵達の表情に焦りの色が浮かんでいるのがよく見えた。
エイク殿は言っていた。戦いとは、戦う前に勝負が決まっていることの方が多いのだと。
これは効果があった。
動揺している傭兵達と、彼ら打倒に燃える騎士達。もう勝負はあったかのように、僕には思えていた。
だからだろう。僕は油断していた。気が大きくなっていた。
固めたはずの覚悟が、緩んでしまっていたんだ。
「随分と騒がしいな」
それは別段、大きな声じゃなかったと思う。
しかし僕は。僕の耳には、やけにはっきりと届いた。
「私の不正を暴く、か。勇ましいものだ。つまりお前は、私に異を唱えるためにここに来たと言う事で間違いないんだな?」
屋敷正面のドアを開いて出てきたのは、一人の傭兵と、そして見覚えのある顔。
僕と同じプラチナブロンドの髪に、感情を感じさせない暗い双眸。
ひょろりと痩せた体。そして、妙に平坦な声。
心臓が早鐘を打ち始める。視界にはもはや、父の姿しか映らなくなっていた。
「で、何を見せてくれるのだ。聞こうじゃないか、フリッツ。お前は一体これから私に対して、どうしようというのだ?」
「そ、それは。それは……」
打ち合わせにあったはずだ。父の前で言う台詞が。
焦る頭で考える。しかし、その内容は完全に飛んでしまっていた。
僕が覚えている父。その一番古い記憶は、必死に謝る母をひたすらに鞭で打ち据えている姿だった。
いつも父はそうだった。まず初めに、こうして感情のない目を向けてくる。
しかし自分の期待通りの返事が無いと、突然人が変わったように豹変し、感情を爆発させてくるのだ。
暴言を浴びせながら鞭を振るう姿は何度見たことだろう。そうなった父は、誰がどう懇願しようと止まることはない。
怒りに満ちた表情は、深い憎しみすら感じさせた。
僕をかばい鞭で打たれ続けた母。そんな日々を送った母はついには廃人のようになり、僕が十の頃に実家へと戻されてしまった。
父の感情がいつ爆発するのか、僕には全く予想ができない。だから僕にできたことと言えば、身を守るため、父に従順になる事だけだった。
しかしそんな僕に失望したのか、父は僕を不要と切り捨てる判断をした。
戦争への、たった一人での参列。それを終えて帰ってきての呪殺。
父にとって、僕と言う人間は何なのか。
僕には父が分からない。
感情を見せない冷たい表情。
突然豹変し、烈火のように爆発する姿。
目の前に立つ父の双眸に、僕の内の恐怖が噴き出した。
それは思考すら奪い、僕という人間を埋め尽くす。
何も考えられなくなった僕の体は、壊れたようにガタガタと震え始めた。
ピクリと父が右の眉を動かしたのが、いやにはっきりと僕の目に映った。
それは僕がたった一つだけ知っている父の仕草。
心臓が跳ね上がる。僕はいつものように、身を守ろうと頭を抱えようとして――
「さっきからゴチャゴチャうるさいのよっ!」
隣から上がった声に、驚いて顔を上げた。
「これからアンタの不正を暴いて、引きずり降ろしてやるって言ってるのよ! 今更謝ってももう遅いわよ! 覚悟なさい!」
隣にはいつの間にか、ルフィナ殿が立っていた。
彼女はキッと父を見据えながら、大声で啖呵を切る。かと思えば、彼女はそっと僕の手を握ってきた。
「――っ」
ハッとした。
震えていた。
彼女は恐怖に震える体を押して、父の前に――いや、僕の隣に立っていたのだ。
父を睨みつけるその顔は非常に険しい。しかしよく見れば、恐怖に泣きそうな気持ちを必死に堪えているようにも見えた。
思えば彼女は僕の父から、貴族の令嬢としては非道に過ぎる恥辱を受けた被害者だ。その首魁を前にして、恐れを抱くのは当然だろう。
果敢にも父に食って掛かった彼女に、一瞬勇ましさを感じてしまった自分を、僕は恥じた。
彼女が僕の隣に立ったのは、きっと父に言いたいことがあったとか、そんな理由じゃない。
情けない僕を鼓舞するために、前に出てきてくれたのだ。しっかりしろと、そう言ってくれているのだ。
「そうだ。もう後に引くことはできねぇぞ」
更に後ろから声がする。
エイク殿は僕とルフィナ殿の肩に手を置いて、父へ揶揄うような声をかけた。
「ライナルディ男爵家とグレッシェル子爵家の関係者がそう言ってんだ。逃げ場はどこにもねぇぞ。ここでお前らをぶっ潰して、テメェを引きずり降ろしてやる。潮時って奴だ……精々覚悟しやがれ」
彼はまるで悪人のような言葉を父へ放つ。ただ、その声色が実に楽しそうで。
そんな場違いな響きが、僕の内にある恐怖心を和らげてくれたような気がした。
「≪感覚共有≫」
そして、エイク殿は何かを小さく口にする。途端、僕の内に何か、凄く熱いものが流れ込んできた。
この気持ちは一体何だろう。困惑するも、しかし僕を励ますような熱さが、そして僕を勇気づけるような温かさが、恐怖を包み、押し流していく。
「フリッツ。お前は一人じゃねぇ。それを忘れんじゃねぇぞ」
小声でエイク殿がぼそりと話す。
ルフィナ殿の小さな手も、ぎゅっと僕の手を握った。
「フリッツ様に、この剣を捧げます! どうかご勇断を!」
後ろでは騎士達が剣を抜き、皆騎士の礼を取っていた。
独りじゃない。
バルテルやヘルマンにも四年くらい前に、そう言われた事がある。
ただあの時は、自分に対しての自信の無さや、ずっと孤独だった事。そして魔族に対しての恐ろしさが強すぎて、彼らには悪かったけど、そんな言葉で奮い立つことなんてできなかった。
けど今はどうだろう。味方がいてくれるのがこんなにも、心強いと思った事があっただろうか。
僕は目の前の父を見据える。やせ細った体に、こけた頬。
よくよく見れば、軍の兵士達の方がよっぽど恐ろしそうな風貌をしていたように思う。
僕はルフィナ殿の手を握り返す。彼女もまた握り返してくれた。
「父上っ!!」
僕の二十五年という人生は、常に父への恐怖で染まっていた。
反抗なんて、考える事も恐ろしい。機嫌を損ねまいとひたすら従順になり、鞭で打たれれば頭を抱え、体を丸くする事しかできなかった。
でも、それももう終わりにしよう。
僕は今、はっきりと宣言する。貴方という人間に、もう屈したくはない。
だって僕はもう、たった独りで泣いていた頃とは違うんだから。
「今日をもって父上には、グレッシェル子爵家当主の座を降りて頂く! 貴方の行いを、もう僕は……見過ごす事などできないッ!!」
ぐっと顔を上げ、僕は父に指を突きつける。
今まで目を向けるのも恐ろしかった実の父。
そんな男の支配から決別するように、僕は父を真っ向から睨みつけた。