199.奇跡の一手
「こっちだ! お前ら、こっちに逃げて来い!」
「この奥に真っすぐ進めば大丈夫だ! 慌てるな! だが、急げっ!」
赤く染まり始めたスラムで、大勢の人々が悲鳴をあげながら逃げ惑う。燃えるものの多いスラムでは、火の回りはあまりにも早かった。
エイク達がスラムの入り口付近で傭兵達を抑えてはいる。しかし炎は瞬く間にスラムに燃え広がり、人々の誘導を行っているバルテルやヘルマン達の場所にも既に、多くの火の粉が舞い始めていた。
「何やってるんだい、あいつらは! 火が回るのが早すぎる! このままじゃスラムが燃え尽きちまうよ!」
老婆が文句をこぼす。彼女も懸命に誘導しているが、逃げてくる人々は火の手に煽られ、どんどんと数を増していた。
周囲はもうずっと悲鳴で覆い尽くされている。
エイク達を信じていないわけではない。つい焦りから零れ落ちた愚痴だった。
だがそれはいささか大きすぎる独り言だったようだ。人々の叫び声に負けず響いた声は、近くにいた彼女に届いたらしい。
「大丈夫です! 今はぁ、私達にできる事をやりましょう!」
「……分かってるさね! ちょいと口が滑っただけだよ!」
マリアネラが出した大声に、老婆も声を張り上げて返した。
エイク達が傭兵達を迎え撃つ一方、ここにいる五人は逃げてくる人々の避難誘導に回り、声を張り上げていた。
傭兵団の一員であるバルテルとヘルマンは鎧を脱ぎ、傭兵であることを隠している。それが功を奏してか、はたまた混乱しているためか。
スラムの人々は素直に彼らの誘導に従い、スラムの奥へと避難を急いでいた。
老婆とマリアネラも誘導を行っていたが、しかし彼女達はそれだけではなく、火傷や負傷している人達に傷薬や魔法を使い、衛生兵さながらに動き回っていた。
人々の混乱は非常に激しかった。我先にと逃げ出す大勢の波にもまれ、打撲や骨折をしている者は数多くいた。
そしてその多くが子供や老人、女性など、非力な者ばかりだった。
「だ、大丈夫ですかぁ!?」
今もマリアネラは一人の女性に駆け寄り、顔を悲痛に歪めている。
女性は体や顔など、体のあちこちに擦り傷を作り、血を流していた。更には片足を痛々し気に引きずって、懸命に逃げようとしていたのだ。
「慈愛の神ファルティマールよ、彼の者に優しき光の癒しを! ”治癒の光”!」
打撲や切り傷なら傷薬で治る。しかし骨折と言うとそう簡単にはいかない。
だが、慈愛の神の力を借りた神聖魔法ならば。
マリアネラは惜しげも無く魔法を唱え、女性の傷を癒していく。彼女は先ほどからひっきりなしに、こうして怪我をした人々に魔法をかけ続けていた。
「あ、ありがとうございます、神官様!」
「誘導にしたがってぇ、早く避難して下さいぃっ!」
「は、はい!」
怪我の癒えた女性はばっと頭を下げると、急いで駆けていく。マリアネラは黙ってその背中を見送るが、その表情はあまり優れなかった。
額には汗が滲み、肩で息を吐いている。魔力が尽きかけ、欠乏症状が現れ始めていたのだ。
「え~ん! え~ん! ママぁ~っ!」
「男の子がそんなに泣くんじゃないよ! 何だいこんな傷、薬塗っときゃすぐ治る! ほら、こうして、こうだ!」
母親を探し泣きわめく少年に、老婆は薬瓶に指を突っ込み、傷薬を手早く塗り付ける。
「ば、婆さん! こんなとこで何やってんだ!? アンタも早く逃げねえと――」
「マルコ! 良い所に来たね、この子を連れて避難しとくれ! 頼んだよ!」
「え、あ、はあ!?」
「ごちゃごちゃ言わずにさっさと行きな! こっちは忙しいんだよ!」
そして、少年を知り合いらしき男に無理やり押し付けると、彼女は懐から瓶を取り出してマリアネラに駆け寄った。
「ほら次だ、休んでる暇はないよ。さっさと飲みな、神官様?」
「……だからぁ、私は神官じゃありませんってぇ」
重苦しい溜息を吐きながら、瓶を受け取ったマリアネラ。彼女は手の中の瓶をじっと見つめた後、意を決したようにグビリと飲み干す。
「うぇぇ……。く、臭いぃ……っ」
そして、ぐしゃりと顔を歪めた。
「何だいそのくらい。少し不味いくらい大丈夫だって、さっき言ってただろうに」
「少しってぇ……。ぅぇっ! げ、限度があると思うんですぅ……!」
「文句言うんじゃないよ! どれだけ高いものだと思ってるんだい、我慢しな!」
吐き気と戦いながら涙目で溢すマリアネラに、老婆は眉を吊り上げた。
老婆が持っていた薬瓶に入っていたのは、魔力を回復できる貴重な薬――魔力の霊薬だった。
生命の秘薬ほどではないにしても、買うのを躊躇する程度には高い代物である。下位の生命の秘薬が給与の一年分ならば、魔力の霊薬は二か月分と言ったところか。
それを惜しげもなく提供している老婆の言う事も分かる。
しかしマリアネラは、この薬を先ほどから何度も飲まされているのだ。文句を言いたくなるのも当然であろう。
何せ魔力の霊薬の別称は”竜の小便”。世界一不味いと有名な薬でもあったのだから。
「ほら、また怪我人が来たよ! さっさと行きな!」
「ぅ、ぅぇぷっ……。は、はいぃ……」
口を抑えながらマリアネラが駆けていく。その背中を見ていた老婆は、降り注ぐ火の粉に顔を上げ、呟く。
「もう火の粉がこんなに……。近くまで火の手が上がってるみたいだねぇ」
そして、近くに立つ五人目の人物に目を向けた。
「そろそろアンタの出番じゃないのかい!?」
老婆が視線を向ける先。そこに銀髪の美女――スティアの姿があった。
一人すっと立ち、静かに目を閉じているスティア。先程からずっと彼女は、そのままの姿勢で身じろぎ一つしていない。
老婆は一瞬聞こえていないのかと思った。だから近寄りながらもう一声かけようとして、
「こんな時にあの方が隣にいて下さったら、やる気が出るんですけれどねぇ……」
そのため息交じりに返された言葉を、はっきりと聞いてしまった。
「ちょっとアンタ、聞いてるのかい!?」
「聞いていますわよ、あまり大声を出さないで下さいまし。ただでさえ、ここはうるさいのですから」
老婆の焦りなど知らない様子で、彼女は肩にかかった長髪を手で払い、気怠そうに目を開く。
「はぁ、どうしてわたくしばっかりこんな場所に。わたくしだって一緒に戦いたかったのに……。ホシさんもバドも、ずるいですわ」
いかにもやる気のなさそうなスティアに、流石の老婆も心配そうに眉尻を下げた。
無理もない。今のスティアからは、億劫だという気持ちがありありと滲んでいるのだ。不安に感じない人間の方が少ないだろう。
しかし。もしここに魔術師程に魔法に堪能な者がいたら、そんな反応は間違ってもしなかったはずだ。
態度からはやる気を微塵も感じられない。しかし目で見えない部分では、エイクに合図を貰ってから、彼女は着々と準備を進めていたのだ。
「まぁ、頼まれた限りはちゃんとやりますけれど」
練り上げた魔力を頭上に放出し続けていたスティア。上空はすでに、彼女の魔力で覆い尽くされていた。
「さて。ここまで魔力を使うのも久々ですわね。遠慮なく行きましょうか」
その膨大な魔力は奔流となり、空に渦を巻いている。
最後の一押しとばかりに、彼女は更に魔力を空へと押し上げた。
「水の精霊ウンディーネよ!」
そして、唱える。
「我が呼び声に応じ、清浄なる水の癒しを。飢え渇く者達に一時の安らぎを!」
悲鳴が覆い尽くす中、彼女の凛々しい声が響き渡った。
スティアは空を仰ぎ、両腕を空へと大きく広げる。
「今、その輝きを消失せんとする生命へ、救済の御手を差し伸べ賜え!」
それは水の上級魔法。乾いた者に癒しを与える、救済の一手。
「”救済の天泣”――!」
スティアがそう口にすると、ぽつぽつと空から雫が滴り始める。
それは徐々に範囲を広げ、スラムを雨で覆い尽くした。
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周囲はすでに火の海だ。熱気は凄まじく、ただ立っているだけでも汗が滴り落ちる。
そんな状況で、しかし俺達はギリギリまでと、傭兵や騎士達の攻撃に耐え続けていた。
「いい加減諦めやがれっ! 頭が狂ってやがるのかっ!」
叫ぶ歯抜け男の顔にも若干の焦りが見える。当然だ、このままこの場所に留まり続ければ、諸共炎に飲まれてしまう。
普通の人間ならそんな選択は絶対にしない。命を投げ捨てるようなものだ。
「いかれてやがるっ! まともに相手なんざしてられねぇぞ!」
「もう付き合ってられねぇ! 一気にやっちまえよっ!」
他の傭兵達からも次々に怒声が上がる。
こちらの理解不能な行動に、苛立ちを覚えているんだろう。
だがそれは奴らに限った話。これから起きることを理解している俺達にとって、これは全く正しい行動なのだ。
だから俺は大槌をぶん回しながら高らかに笑う。
「ハハハハハ! 何だ、もうお手上げだってか!? ならサッサと尻尾巻いて帰れ! 代官に泣きついてこい! 無能だからできませんでしたってな、このヌケサク共が!」
「歯抜けのヌケサクだって! あはははは! 馬鹿みたい!」
ホシもまたメイスを振り回しながらきゃらきゃらと笑った。
「こ、この狂人共がぁッ! こうなりゃもう力づくで叩き伏せ――」
青筋をむくりと立てて、歯抜け男は唾を飛ばして怒鳴り始める。
「――あ、雨?」
しかし。ここで突然状況に変化が起きた。
誰かがポツリとつぶやいたのが聞こえた。
空から零れた小さな雫が、騎士の兜でちょんと跳ねる。
空は雲一つない青空だ。だのに雫は徐々に増え、地面を黒く染めて行く。
ぽつりぽつりと降り出した雫は、すぐさま土砂降りの雨へと変わる。周囲の炎が身をよじりながら、どんどんと小さくなっていった。
「来やがったな」
こんな芸当を頼める奴は、大陸中探しても、きっとアイツくらいのものだろう。
まるで奇跡の女神だぜ。桶をひっくり返したような雨の中、俺はニヤリとほくそ笑んだ。
「す、凄い……っ」
「こ、これが魔法なの!? こんなの……聞いてたけど、信じられない……!」
サリタとルフィナが空を見上げて感嘆する。気持ちは分かるが、でもちっとはこっちの作戦を考えてくれや。
幸いにもその声は、雨音によってかき消されていたが。俺は二人に「バカ!」と振り返り、そしてフリッツへと目を向けた。
彼はこくりと頷く。そして「皆聞け!」と、呆然とする騎士達の前に再び足を進めた。
「見よ、この雨を! 雲一つない青空より降り注ぐ、この奇跡の雨を! 我らが主神フォーヴァンも、スラムの民を虐げる所業を見過ごす事などできない! そう言っているのではないのか! その意思の現れではないのかっ!」
ざわめく騎士達。そんな彼らに、フェリシアも声を振り絞る。
「我らが守るべき民をこのまま弾圧しても良いなどと、皆も思っていないでしょう! どうかフリッツ様に力を貸して下さい! 我らの正義はここにあります! 正しき心はここにあります! 共に剣を掲げ、民のため、どうか立ち上がって下さい!」
俺は神なんぞ全く信じちゃいない。だが正義だの何だのと口にする奴らには、こういう言い回しは効くだろう。練習でフェリシアが感涙したくらいだからな。
そんな目論見は正しく効果を発揮する。騎士達は完全に沈黙し、石像のように固まっていた。
「貴方達を縛ってきた鎖は、必ず私が断ち切る! だがそのためには貴方達の力が必要なのだ! 正しき心を持つ者達よ! 誇り高きヴァイスマンの騎士達よ! 私と共に戦ってくれ! そしてこの町を、我が父より解き放とう! 主、フォーヴァンもそれを望んでいるはずだ!」
フリッツの声に応えるように、彼や騎士達の周囲だけ、雨が次第に止み始める。
呆然とする騎士達。信じられない光景を目にして、彼らは指一つ動かせない様子だった。
「お、おい、騎士共! お前ら、分かってんのか!? テメェらには人質が――!」
歯無し男が何やら騒いでいる。しかし騎士達はまるで聞こえないかのように、反応を見せない。
フリッツは静かに息を吐く。そして、最後の台詞を口にした。
「さあ、共に行こう。私の剣となり、道を切り開いてくれ」
何を思うのか、騎士達はぱらぱらと剣を下ろしていく。
見上げれば、彼らの上空には小さな虹ができていた。