195.刻まれた傷跡
「父上に歯向かうなんて……。僕には、できない――」
そう言って、フリッツは口を閉ざしてしまった。
「ちょっとアンタ! 今まであれだけ偉そうな事を言ってた癖に、自分の事になったらそう言うの!? とんだ意気地なしだわっ!」
「フリッツ様、どうかご決断を! この町に住む皆のためにも! 正義のために、どうかっ!」
ルフィナが偉そうに罵倒しても、フェリシアが正義のためだとか言っても、結局彼はうなだれたままだった。
彼が首を縦に振らない限り、代官を襲撃するわけにはいかない。傭兵達を撃退する以上の事はできなかった。
話し合いは完全に停滞した。つまり、これ以上は無意味というわけだ。
俺は明日に備えてもう寝ろとあの場を締め、皆を解散させたのだった。
家の外に出ると、辺りはもう完全に闇に覆われ、静まり返っていた。
ずっと寝込んでいたせいで、今が何時くらいなのか今一はっきりしない。
もう日が変わっただろうか。そんなことを考えつつ、ゆっくり足を進める。
そこには見慣れた背中があった。
「スティア。どうした?」
見慣れた背中に声をかける。振り向いた彼女は、どこか悲しそうな、沈鬱な表情をしていた。
「貴方様……」
いつもより弱々しい声。不思議に思いつつ、俺は彼女のそばへ足を進める。
くるりと振り向いた彼女の右腕には、一羽のフクロウが止まっていた。
彼女達ヴァンパイアは、フクロウを飛ばして連絡を取り合う。きっと故郷からの知らせだろう。
そのフクロウはこちらを向いた後、俺の様子を探るように、くるくると首を回しながら丸い目で凝視してくる。愛嬌のある奴だ。その様子に目を細める。
「申し訳ありません。この子が外にいたようだったので」
そう言うスティアの顔は浮かない。
手紙の内容に何かあったのか、それとも――
「さっきの話で、何かあったのか?」
スティアが顔を上げる。その目は大きく開いていたが、すぐに伏せられてしまった。
「少し、昔を思い出してしまって」
先程の会話を終えて今まで、俺には気になっていたことがあった。
親との対峙を拒否し、消沈したフリッツ。彼の感情は酷く委縮し、心は怯え切ってしまった。それはまあ、理由は何となく察せる。
だが分からないのはスティアの事だ。どうしてか彼女もフリッツと同じように、沈んだ表情を見せ始めたのだ。
きっと先ほどの会話の中で、彼女を沈ませる何かがあったんだろう。しかし理由までは俺には分からなかった。
スティアがそっと指を伸ばすと、フクロウはその指を甘噛みして返す。
それに目を細めながら、彼女は静かに口を開く。
「父親に反抗できないというあの男の事……貴方様はどうお思いでした?」
「ん? まあ、そうだな。断られるとは思わなかった、ってのが正直なところだ。もう少し気合いを見せてもらいたかったが、な」
「そう、ですわね。たぶん、他の方も同じ気持ちだったのでしょうね」
スティアは悲しげに笑う。
「でも、わたくしには分かる気がします。あの男の気持ちが」
その笑みは何かを諦めたような、そんなものだった。
≪感覚共有≫から彼女の静かな悲しさが伝わってきて、俺の胸がしくりと痛んだ。
「わたくしも父上には長く邪険にされてきましたから。父親に命まで狙われた彼の気持ちが、どうしようもなく理解できてしまって。……駄目ですわね。もう随分と前の事ですのに」
スティアはハーフヴァンパイアだ。純血のヴァンパイアではない彼女は小さな頃からずっと、周囲に疎まれ続けて来たのだと言う。
彼女自身が話したがらず、詳しく聞いたことはない。だから、実の父親にまで冷遇されていたという話は今、俺も初めて知った。
「故郷の事だってもう殆ど記憶にありませんのに、父上の顔がなぜか今ちらついてしまって。未だに引きずっているなんて、笑えませんわ」
不当な扱いに耐えられず、故郷を抜け出し、人族の世界に飛び込み、そこでも居場所は見つからず、ずっと独りで生きて来たスティア。
彼女は困ったように笑っている。だが俺には、それが泣き顔のように見えた。
スティアから伝わる全てがあまりにも悲しくて、俺はたまらず抱きしめる。
フクロウが飛び去って行く。
「大丈夫だ。ここには俺がいる」
「はい」
「ホシもいるし、バドもいる」
「はい」
「お前を遠ざけようなんて奴はいねぇ。お前は駄目な奴なんかじゃねぇ。だから、心配すんな」
何十年もの間独りで生きてきたことで、人との繋がりに飢えつつも人を信じられず、他人を拒絶するようになったスティア。
その隔意が溶け始めた今、あの時の厳しい表情は殆ど顔を覗かせなくなった。
しかし心に深く刻まれた過去は、未だに彼女の胸に暗い影を落とし続けている。
時折見せる物悲しそうな表情は、まだ消えてくれそうに無かった。
「貴方様」
スティアは俺の胸に顔をうずめる。
「ごめんなさい。……駄目だな、私は。いつも貴方に助けてもらってばっかりだ」
あまりにも弱々しい声。思わずその頭に手が伸びる。
「んなことねぇよ。むしろいっつも助けられてるのは俺の方だろ。……ありがとな」
さらさらの銀髪を撫ぜると、スティアは腕を背中へと伸ばしてくる。
そして胸に顔を押し当てたまま、小さく頷いた。
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「……で? 何なのよ、私だけに話って」
皆が出て行った大部屋で、二人の人物が向き合っている。
一人はツンプイことルフィナだ。彼女は男の前で手を腰に当て、威嚇するように仁王立ちをしていた。
「無理を言ってすまない……。どうしても僕から、君に謝っておきたいことがあったんだ」
一方、それに向かい合うのは、細身の男――フリッツだった。
あの話が終わってから、彼はルフィナに話があると声をかけた。
だがその話は人には聞かせられないと言う。これに彼女の保護者二人は強い難色を示した。
当事者のルフィナが頷いたため二人になれはしているが、しかし部屋の外ではサリタとマリアネラ、そしてバルテルが共に待機している。
何かがあれば三人がすぐさま雪崩れ込んでくるわけだ。
子爵家の嫡男だと言うのに、まるで信用のない扱いである。しかし意外にも、フリッツはそれに何も言わなかった。
そのことがルフィナの警戒心を僅かに和らげた。そうでなければ密室で男と二人、まともに話などできなかっただろう。
「謝るって何よ。何を言っているか分からないわ。さっきの情けない話の謝罪なら、私だけに言っても仕方がないわよ」
「……手厳しいね。でも、違う。僕が謝罪したかったのは、四年前の話さ」
ある程度の余裕もあったはずだ。しかしフリッツが放った言葉に、ルフィナの体はびくりと跳ねた。
忘れるはずもない。四年前、ルフィナは暴漢に襲われ、あわやという事態となったのだ。
まだその事件の傷は心に消えず残ったまま。今もまた当時の話を出され、彼女の鼓動は早鐘を打ち始めていた。
「すまない」
「え――」
一体何を言われるのか。そう警戒していたルフィナの前で、フリッツは目を伏せて謝罪を口にする。
「……あれは、僕の父が画策したものだったんだ。傭兵達に指示をして、君をさらってくると、そういう話だったらしい」
ルフィナの頭は真っ白で、彼の言葉が頭を通り過ぎていく。
「君を襲ったのは、こちらの想定外だったそうなんだ。でも、事実奴らは君を襲った。本当に申し訳ないことをしたと思う。すまなかった……」
しかし、その言葉がどこか他人行儀にルフィナには聞こえて。
「――ふッざけんじゃないわよッ!」
気付けば、彼女は目の前の男の胸倉に掴みかかっていた。
「何がすまないよ! アンタ、本当にすまないと思ってるんなら……何とかしなさいよ! アンタの親でしょう!? どうして、なんでッ! なんで何もしようとしないのよぉッ!」
それはまるで慟哭のような絶叫だった。
驚き、部屋の外から三人が雪崩れ込んでくる。しかしルフィナはその手を放さず、フリッツを間近から睨みつけていた。
「そんな謝罪に一体何の意味があるのよ!? アンタはそれで気が済むかもしれない! でも、それだけでしょう!? これから私みたいな目に遭う人がいるかもしれない! 明日だって、殺される人が大勢出るかもしれない! なのにアンタは何もせず、ただ今みたいに謝って、自分の気が済めば良いってわけ!?」
じわりとルフィナの目に涙が浮かぶ。フリッツはそれを見ていることができず、顔をそむけた。
いら立ちを抑えきれず、ルフィナは突き飛ばすように手を離した。
「私は男なんて大嫌いよ。……勘違いしないでよね。これは昔っからなの。どいつもこいつも下品な奴ばっかり。目にするのも嫌だわ」
でもね、と、ルフィナは言葉を続ける。
「アンタの事はそれ以上に嫌いよ。見ちゃいられないわ、女々しい男なんて。いえ、アンタは男ですらないわっ!」
涙を袖で拭いながら、ルフィナは彼に背を向ける。
「アンタは随分馬鹿にしてたけど……あのおじさんは私を――私達を助けてくれたわ。会ったばかりの私達を、何の見返りも無しに。アンタには、あの人を馬鹿にする権利なんてこれっぽっちも無い! もうそのふざけた口を開かないで!」
もはや言葉を交わす価値もない。そんな意思表示に、フリッツは悲しそうに俯いた。
駆け込んできた面々は、ルフィナの激しい剣幕に口を出せずにいる。
ルフィナの気持ちが分かってしまう女性二人は、沈痛な面持ちでこれを見ていた。
だがしかし、そこに一人の男が割って入る。
「ちょっと待ってくれや」
「何よ」
バルテルがルフィナの前に立つ。彼の表情は辛そうに歪んでいた。
「アンタの言うこっちゃ間違ってねぇ。ああ、俺だって、若にはもっとしっかりして欲しいなんて思ったことがあるさ。でもな……俺は若が今までどうやって、あの父親の前で生きて来たか知ってる。この目でも見た。だから――俺からは言えなかった。父親を討て、なんて」
バルテルは絞り出すように声を出す。その手は悔しさを物語るように、強く固く握りしめられていた。
ただならぬ雰囲気にルフィナも口を引き結ぶ。
誰も口を開かない部屋。しばらくして口を開いたのは、またバルテルだった。
「アンタらは不思議に思わなかったのか? 実の父親が、息子に死ぬような呪いをかけるなんてよ。普通ねぇだろ? そんなこたぁ」
「それは――そうだけど」
普通の感覚を持っていれば、あり得ないことだと誰もが首肯するだろう。
ルフィナも渋々ではあるが、彼の言葉に肯定を返した。
「若にとって代官って奴は、父親なんて生易しいもんじゃねぇ。気に入らねぇなんて理由で殴る蹴る、鞭で打つことも珍しくねぇ、そんな奴なんだ。そんな環境で若は、ガキの頃からずっと生きて来た。父親の目を常に伺いながらな」
「え、ち、血の繋がった子供に、そんな事をする親がいるの!?」
その話が信じられず、サリタが小さく驚く。
ルフィナも予想外の話に「えっ……」と声を漏らしていた。
フリッツにとって父親と言う存在は、一般的に言う父というものとは大きく異なる。
暴虐の体現者。そう言って然るべき扱いを、フリッツは今までその身に受けて来た。
戦争への参加や、今回の呪いというのも、その行為の内のたった一例でしかない。そう漏らすバルテルに、周囲は静まり返っていた。
「俺は――そんな若に俺は、代官に立ち向かえ、なんて言えねぇ……。だから何とか他の手はねぇか考えてみた。でも……俺の頭なんかじゃあ、なんも浮かばなかった……」
彼は下唇を噛む。その顔は悔しさに大きく歪んだ。
「貴族の不正を平民がどうにかしようなんて、無理だよ……」
サリタが諦めたように呟いた。
この国には王国法というものがある。しかし現実は、平民なら平民間で、貴族なら貴族間で有効となる法律でしかなかった。
貴族の権力というものはどうあっても無視ができない。貴族間で有効とは言ったが、しかし爵位に差がありすぎればそれも通らない。ファング魔窟でルフィナを襲ったアルバーノの一件がいい例だろう。
平民が騒ぎ立てたところで子爵相手では、逆に捻り潰される未来しか待ち受けてはいなかった。
自分達ではどうにもならない。しかしフリッツにも頼れない。
重い空気が漂い始めた、そんな時だった。
「分かったわ」
低い声を上げたルフィナに皆の視線が集まる。
「四年前の――私の事件を表沙汰にしましょう。貴族が貴族を襲った事に加えて、それを隠蔽してたんだから。そんな事実が明らかになれば、子爵位だろうと当主を引かざるを得ないでしょ」
彼女の言う事は正しい。代官の指示で動いた部下が、貴族の娘に暴行を働こうとしたのだ。
どういう指示がなされていたかは関係なく、現実に起こった事象のみが法に照らされることになる。
ルフィナはハルツハイムを寄り親とする男爵家の者であって、この町の代官とは寄り親が異なる。
ハルツハイム伯爵に直訴すれば握りつぶされる心配はなく、子爵の進退に影響するのは間違いなかった。
「ちょ、ちょっとルフィナ!?」
しかし、別の問題もあった。
「そんなことをしたらアンタ、その――そういう目に遭ったって、公言するようなもんだよ!? 駄目だよ、そんなことしたらっ!」
未遂とは言え、貴族の女性が乱暴されたなど、貴族社会ではとんでもない醜聞だ。だから普通なら未遂既遂に関わらず、裏で解決し、何も無かったと収めるのが通例だった。
だが被害者側が声を上げるなどしたらどうか。どんな貴族も恐らく、未遂事件だった、とは思わないだろう。
つまり自分が傷物であると公言するのに等しく、いかに見目麗しくとも、貴族を相手に結婚できなくなる可能性が非常に高かったのだ。
結婚するとなれば当然相手は平民だ。つまりは貴族であるという権利を自分から捨てることを意味する。
それを一番理解しているフリッツは、信じられない者を見るような目で彼女を見ていた。
保護者であるサリタも、まだ未成年である彼女にそんな決断をさせるわけにはいかないと、慌ててルフィナの両肩を掴む。
「もう貴族の間じゃ知ってる奴も多い話じゃない。昔から言ってるでしょ? 構わないって」
「そういう意味じゃないっ! アンタ、分かってて言ってるでしょ!?」
しかしルフィナは動じない。今更何だとでも言うように、鼻で笑う程だった。
サリタは何とかルフィナを諭そうと声を荒げる。しかしこの調子では説得も難しいと、サリタは感じていた。
内心舌打ちをしながら、彼女を良く知るサリタは諦めず口を開こうとする。
「駄目ですっ!!」
だがそんな時、マリアネラの険しい声が周囲に轟いた。
「マ、マリー……?」
「それだけは、絶対に駄目です! 私も、サリタちゃんも、ルフィナちゃんには幸せになって欲しいんです! ずっとそのために頑張って来たんです! それなのに……っ。私は、反対ですっ!!」
その大きな声に、ルフィナは驚きに目を丸くする。
いつもはのんびりとした口調で喋るマリアネラ。それが一転、ゆっくりとしながらも強い語気で、はっきりと反対の声を上げたのだ。
驚くのも無理はない。しかしルフィナが驚いたのには別の理由もあった。
ルフィナにとってサリタとマリアネラは、苦しい時に自分を支えてくれた大切な友人だった。
どちらもかけがえの無い女性である。とは言え、ルフィナが二人に抱く感情は少し異っているものだった。
サリタという女性は、自分と同レベルで話ができる、悪友と言うポジションだと感じていた。
しかしマリアネラに関しては違う。
ルフィナは彼女の事を、いつも自分のことを心配し、時に支え、時に優しく諭してくれる、姉、もしくは母のような存在だと、深層心理で思っていたのだ。
そんな女性が今、目に涙を湛え、自分の意見に必死に異を唱えている。
零れ落ちそうな涙を目にして、ルフィナの心には罪悪感がとめどなく湧き出し始める。
「わ、分かったわよ。止めるから。泣かないでよ……」
これには流石のルフィナも、折れるしかなかった。
「……何か納得いかない」
サリタがぽつりと呟いた。