190.虚ろに宿る狂気
「ゲオルク様、アウレーンです」
そう言って彼、”グレッシェルの牙”団長アウレーン・オーバリーは、軽くドアを叩いた。
静まり返る屋敷の廊下にノックの音が反響する。しかし入室を促す声は、待っても聞こえてこなかった。
「……失礼します」
だがそれはいつもの事で、珍しくもない。アウレーンは特に気にせずドアノブに手を伸ばし、開く。そして中へ足を踏み入れた。
部屋の中は昼だと言うのに薄暗く、窓には半分以上カーテンがかかっている。
わずかに差し込む陽光。それを避けるようにして置かれる安楽椅子には、一人の痩せた男が座っていた。
彼の名はゲオルク・グレッシェル。グレッシェル子爵家当主その人であり、この町の代官でもある。
彼はボサボサの長髪を適当に後ろに流し、無精髭をそのままに、だらりと椅子に体を預けていた。
入ってきたアウレーンに目も向けない。黙ってグラスにワインを注ぎ、ぐいと飲み干す。
その目は虚ろで、生気を感じない。ぼんやりとワインを飲む彼に、アウレーンはゆっくり近寄り、敬礼した。
「ゲオルク様。この町にまた不審な輩が立ち入ったと、部下から報告がありました。念のためご報告致します」
「不審な輩……?」
彼に目もくれず、グラスにワインを注ぐゲオルク。だが一応言葉は耳に入っているらしい。聞き咎めた言葉をそのまま復唱した。
「はっ。部下が何者か問いただしたところ、無理やり突破されたそうです。以前我々をコケにした一味の一人が同行していたそうなので、その関係者だと思われます」
「フン、随分情けない事だな」
「申し訳ありません」
興味もなさそうに言うゲオルクに、アウレーンも愛想のない謝罪を返す。
アウレーンは知っている。ゲオルクは自分の興味のないことに関しては、徹底的に無関心だということを。
一方で、関心を向けた者に対しては、苛烈なほどに感情をむき出しにする。だからこそこの報告を、アウレーンはしないわけにはいかなかった。
「その関係者の中に、以前ゲオルク様が捕えようとした者が混じっておりましたので、念のためご報告を」
「……誰だ、それは?」
「はっ。ライナルディ男爵家の娘です。本人が名乗っていたそうなので、間違いありません。どうやらスラム街に逃げたものと思われます。いかがされますか」
「ライナルディ男爵家……?」
ゲオルクはぼんやりと、宙に視線を漂わせる。
「ああ……あれか。何年前だったか、お前達が失敗した」
そして思い出した。見目麗しい男爵家の娘がいると聞いて、傭兵達に連れてくるよう命令したことがあったことを。
手荒でもいいと指示を出したが、そのせいで欲に走った傭兵達が彼女を襲い、結果暴漢として捕まって、その望みは果たされなかった。
当時その報告に荒れたものの、しかしもう昔の事だ。彼の頭からはもうその娘の事は消えており、今更興味も抱かなかった。
「もうどうでもいい。放っておけ。それよりもだ。スラムにいるババアはどうなった? 年寄りの一人くらい、いい加減連れて来い。いつまで待たせるつもりだ」
「はっ……申し訳――」
アウレーンの謝罪を聞きもせず、ゲオルクはグラスの中身を彼に向かってぶちまける。並々と注がれていたワインはアウレーンの額に当たり、彼を赤色に染めた。
「役立たずが。貴様ら能無し共を食わせてやっているは誰だと思っている」
そんな彼に目も向けず、ゲオルクはつまらなように鼻から息を吐く。一方ワインをかぶったアウレーンも、無言で頭を下げるだけだった。
元々”グレッシェルの牙”という傭兵団は、荒くれ者を雇い集めた烏合の衆団でしかなかった。
そんな自分達に求められることは、彼の忠実な僕であること。その烏合の集団をまとめる役目を任されたアウレーンは、そう考えていた。
その証拠に、当時男爵令嬢を襲った傭兵達は、汚物を捨てるように切り捨てられた。
一歩間違えれば自分もゴミ同然に捨てられるだろう。だからこそアウレーンは何も反論せず、ただ頭を深々と下げている。
再びグラスにワインを注ぎ、ゲオルクはグビリと飲み下す。そして酒臭い息を吐きだしながら、思いついたように言葉を溢した。
「その男爵家の娘とやらもスラムに逃げ込んだ、と言ったか」
「はっ」
「燃やしてしまうか」
「はっ――?」
言葉の意味が分からず、アウレーンは顔を上げながら疑問を口にする。しかしゲオルクは疑問の声が聞こえないのか、顔に喜色を浮かべて独り言をこぼし続けた。
「ああ、そうしよう。回りくどいのは止めだ。簡単な作業なら馬鹿共でもできるだろう。初めからそうしておけば良かったか。私としたことが、こいつらが無能な輩だということを失念していた」
笑いながら言うゲオルクを見つめながら、アウレーンは黙って立ち続ける。彼の目には一体、目の前の男がどう映っていたのだろう。
無表情に立つアウレーン。だがその背中には、冷たいものが流れていた。
「ああ、騎士共にも手伝わせるか。クハハ……そうだな、あいつらにも思い知らせてやろう。民を守る騎士が民を襲う。フフ……見物だな。果たしてどう出るか、今から楽しみだ」
楽しそうにゲオルクは笑う。そしてその時初めて、彼はアウレーンに顔を向けた。
男の双眸にアウレーンの肌が泡立つ。
その目は彼を見ているようで見ていない。虚空を見つめる虚ろな瞳が、不気味な光を放っていた。
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「バルテル、ヘルマン」
子爵の部屋から出たアウレーンは、足早に廊下を歩き、二人の男を呼び止めた。
振り返った二人は赤く染まった彼を見て、ギョッと目を見開く。しかしそんなことを気にしている時間は、アウレーンには全く無かった。
「頼みがある。スラムに逃がしたフリッツ様を、どうにか見つけて守って欲しい。可能ならこの町から逃げてくれ」
二人の様子を気にもせず、アウレーンは小さな声で話しかける。早口で言う彼に、二人は顔を見合わせた。
アウレーンはもう中年に差し掛かろうかという年齢の男だ。濃紺の頭髪には白髪が僅かに混じり始めている。
見た目だけでなく態度も、普段から年相応に落ち着いた雰囲気をまとう人物だった。だからここまで焦った様子を見たのは、付き合いの長い二人も初めてだった。
「どうかしたんですかい? 団長がそんなに焦るなんて珍しい」
「この町からってのは流石に……。代官様が、また何か?」
困惑する二人に、アウレーンは静かに頷く。
「不味いことになった。どうもスラムを潰すつもりらしい……」
『なっ!?』
スラムを潰す。思いもよらない言葉を聞いて、二人はこれでもかと目を見開いた。
絶句する二人。そんな彼らから視線を外し、アウレーンは呟くように説明する。
「俺達傭兵団だけでなく、騎士達も動員してスラムを焼き払え、だそうだ。今までも無茶苦茶なことを仰られたが、今回ばかりは……」
「い、いやいや! 潰すなんて言って簡単にできるもんじゃないっすよ!? この前の魔族の騒動で、スラムの人口もかなり増えてるみてぇだしよお!?」
「バルテル、声が大きい。少し落とせ」
一年と少し前。魔族百人弱がこの町に攻め込んできたことがあった。
騎士、傭兵、兵士問わず、皆決死の覚悟で魔族らと戦い、これを防衛。結果見事に町を守り抜くことに成功していた。
とは言え魔族もただでは敗走しなかった。撃退はしたものの、彼らの目を抜き町へ入り込んだ魔族によって、多くの町民にも被害が出る結果となってしまったのだ。
被害が出た町人達の内、その多くは家族を守ろうとした男達だった。そしてそんな男達は家の大黒柱である事が殆どだった。
男達の家族は守られた。しかし重い住民税を払えなくなったその家族達は家を引き払い、スラムへと住居を移さざるを得なくなった。
その他にも、仕事を失うと言った事情からスラムに移る者も多く、今この町のスラムは平時に比べて人口を大きく増やしていた。
「そんなことすりゃ、下手したら暴動が起きますぜ!?」
「鎮圧しろ、とのことだ」
「な――! む、無茶苦茶だっ!」
「だから、俺もそう言ってるだろう!」
スラム街に住む人間は、多くが非力な者達だ。だがそれでも、住む場所を理不尽に奪われるようなら、立ち上がる者は多くいるだろう。
その数は恐らく、傭兵や騎士を合わせた十倍を優に超える。それを鎮圧するとなれば、死者を出さずには済まない。
騎士ならともかく傭兵団の人間は、人に武器を振るうことを躊躇わない者ばかりだ。そんな騒動になれば、スラム街の人間の多くが死ぬ。
狼狽する二人に対し、アウレーンも言葉を荒げる。
既に子爵は決定してしまった。彼ら三人にできることはもう、殆ど残されていなかった。
「事が起きるまで、俺が何とか時間を稼ぐ。だが精々が二日、三日と言うところだろう。お前達はその間にフリッツ様を見つけてくれ」
「まさか団長、若に何とかさせようと……?」
「……それは無理だ。フリッツ様がゲオルグ様に抱いている恐怖がどれほどのものか、お前達だって分かっているだろう」
「そりゃあ、まあ……」
バルテルとヘルマンはこの傭兵団に入って長かった。子爵が息子のフリッツに対してどれだけの仕打ちしてきたか、その目で見たこともある。
本人の口からも幾度となく聞いた。アウレーンに言われるまでもなく、良く知っていた。
口ごもった二人。彼らを見ながら、アウレーンは悔しそうに顔を歪める。
「俺達にできることは正直な話、無いに等しい。だがせめて……せめて、できることはしたい。少しでも悔いが残らないように。僅かでもこの町を、今の形のまま残せるように」
「団長……」
彼の手は固く握りしめられ、ぶるぶると震えていた。
二人は知っていた。子爵の横暴をなんとか抑えようと、影で動いていたアウレーンのことを。
子爵に雇われているだけの何の権力もない平民に、できることなど皆無に近い。それを理解しながらも、被害がなるべく小さくなるようにと、アウレーンは一人で奔走し続けて来た。
魔族との戦いも、実際のところ彼の指揮なしには得られない成果であった。
魔族がこの町を襲った際、代官の下した指示は、騎士、衛兵らを前に立たせ、傭兵達を後詰として配備し、これを迎え撃つというものだった。
代官にとって騎士は私兵ではない。捨てるなら自分の懐が痛まない者達を、という非情な判断を下したのだ。
しかし現場の指揮を任されたアウレーンはこれを良い方向に解釈し、騎士や兵士が足止めした魔族らを、傭兵達が後方から弓を射かけて倒すと言う防衛線を展開した。
これにより騎士や兵士らにいくらかの死傷者を出したものの、結果は快勝と言って良いものであった。
自分の無力に歯噛みしながら、独りで戦い続けて来たアウレーン。そんな彼の姿に絆されて、二人はいつの間には彼に協力するようになっていた。
そしてそれは今回においても例外ではなかった。
「分かりましたよ。何とかしてみますわ。なぁ?」
「ああ。まあいつもの事だしな。やるだけやってみっか」
二人は顔を見合わせて、困ったように笑った。
「すまん……。そっちは任せる」
「あいよ。全く、乗りかかった舟とは言え、どうやら沈没寸前だったみてぇだな……」
「今更何を言ってんだバルテル。そんなもん最初っから分かってただろうが」
「はっ。違ぇねぇや」
肩をすくめた二人は軽く笑った後、そのままの足で屋敷の外へ出て行った。
彼らの背中を見送ったアウレーンは、胸に重い感情を抱いたまま、その場をすぐに去って行く。
重い空気が漂ったままの廊下。そこから一つの影がするりと消えて行ったのだが、それに気づいた者は、誰一人としていなかった。