187.心の拠り所
「う……」
だるく重い、熱を持つ体。意識はまどろみ判然としない。
つばを飲み込むと、喉が酷く乾いていた。何か飲みたい症状にかられ、重い瞼を開く。丁度そんな時に、俺の顔に何かがふわりと触った。
ふわふわとした毛皮のような感触。それは俺の額に軽く当てられていた。
熱でも測っているんだろうか。そんな仕草に覚えがあった俺は、無意識にその名を呼んでいた。
「サティ……?」
気配のある方向に顔を向ける。目覚めたばかりでぼやける焦点が、そこにいる人物に徐々に合っていく。
「え?」
だがそこにいたのは俺が呼んだ人物ではない。
きょろりと目を開いたタヌキ頭の人物。ロナだった。
「エイク様、大丈夫ですか?」
ロナは心配そうに声をかけてくる。俺はそれに熱い息を吐いた。
「ああ……。ロナ、あれからどのくらい経った?」
「今日でもう十日ですね。そろそろホシさん、帰ってくるといいんですけど」
もう十日か。ずっと意識が無かったわけではなかったが、まどろんでいて時間の感覚はまるで無かった。
体が寝汗でべったりと濡れている。気持ち悪さに体を起こそうとすると、ロナが支えて起こしてくれた。
「もう大丈夫なんですか? 倒れたなんて聞いてびっくりしましたよ。何があったのかって」
ロナは毛でふわふわの眉の辺りをへの字に曲げ、丸い耳をへにゃりと下げる。そんな彼女に俺は軽く笑って返した。
婆さんから、呪いをかけられた少年を助けたいと、助力を請われることになった俺達。
時間が無いことをスティアに告げられ、なら善は急げと、俺達はその日のうちに行動を始めることとなった。
やるべきことは二つ。
一つ目は呪いをかけた張本人を捕まえること。
二つ目は呪術師の爺さんを連れてくること。
一つ目については、諜報や潜入に長けるスティアに任せている。
彼女に任せておけば成功する未来しか見えない。フォローにバドもつけたため、心配する意味もないだろう。完全にお任せすることにした。
問題は二つ目。少年があと二週間しか持たないという話もあって、爺さんを可能な限り早く連れてこなければならない事だった。
だが爺さんの住む場所は、急いでも六日の場所にある。往復とするとなると、どう考えても二週間は厳しかった。
そこで俺がとった行動。それは、シャドウを黄鳩便で飛ばすという荒業だった。
シャドウは基本的に俺の影から離れることがない。風呂に入っている時も便所に入っている時も、どんな時も影の中に潜んでいる謎生物だ。
とは言え俺から離れられない、というわけではない。
もともとが、どこかから俺の影に住み着いた奴なのだ。なら俺の影から別の場所へ移動することも、当然できるわけだった。
とは言っても、基本的にシャドウは俺から離れることを拒む。今回もその例に漏れず、かなり抵抗されてしまった。
嫌がるようにぶるぶると震えていたシャドウ。彼をなだめることができたのは、その日の日暮れを過ぎてからだった。
そんなに俺の影の中の居心地がいいのかと不思議でならない。生態も相まって、謎に包まれた奴である。
しかし今回ばかりは我慢してもらうしかない。そうしてシャドウを黄鳩便で飛ばしたわけだが、ここで問題が一つあった。
俺から離れたシャドウは自分で行動する術を殆ど持たない。だから、彼だけ飛ばしても意味がない。
向こうで行動する足が当然必要になる。そこで頼みになるのがホシの存在だった。
俺の影から出たシャドウは、どうしてか能力が大幅に弱体化してしまう。意思をもって動くことが無くなるし、影の中に収納する能力も大幅に低下するのだ。
収納できる大きさは、せいぜいが子供一人程度。なので今回爺さんを連れてくる役目は、影に入れるホシにしか頼めなかったと言うわけだ。
イエローピジョンなら町と町とを直線で移動できる。きっとルーデイルまでなら三日程度で着くと思う。
ホシに向こうで協力者に色々説明しろと言っても無理だろうから、手間を省くため手紙も持たせた。
後は皆が首尾よく目的を果たしてくれるのを信じるのみ。
そう願いを込めてシャドウを黄鳩便で飛ばす麻紙に移らせ、俺はそこで気を失ったのだった。
シャドウを影から出すと何かの反動があるのか、俺はいつもこうして寝込むことを余儀なくされる。
シャドウが戻りさえすれば回復するため風邪ではない。この感覚は風邪というより、魔力の欠乏症状に似ていた。
俺の影から出るときに、シャドウに魔力を吸われているのかもしれない。とにかく今はホシを信じて耐えるしかなかった。
幸い婆さんの家の地下に空部屋がいくつかあった。その中の一つで寝かされた俺は、こうして婆さんやスティア、バドなどに面倒を見てもらいつつ、シャドウが戻るのを待ち続けているというわけだった。
ただ、ロナがここにいると言う事は予想外だったが。
魔族である彼女は、人目に触れれば大騒ぎになる。だからシャドウを送り出す前に、地下の一室で魔族達を出して、そこにいるように伝えていたのだが。
どうしてこんな場所にいるんだろう。大丈夫なのかと、俺は口を開こうとする。
「あの……サティって?」
だが、その前に出て来たロナの問いに、俺の言葉は喉の奥に引っ込んだ。
くりくりとした目を向けてくるロナ。だが頭がぼんやりしていたせいか、俺はその質問に上手く言葉を出せなかった。
妙な間が俺とロナの間に生まれる。いけないことを聞いたと思ったのか、ロナが急に焦りだした。
「あ、す、すみません。ここでうなされている時に、エイク様がたまに口にしていたもので。さっきも言っていましたし」
「あ、そうなのか……」
どうやら寝言で溢していたようだ。まったく、子供か。あいつの名前をうなされながら口にするなんて。
思わず苦笑してしまう俺に、ロナは不思議そうな顔を向けた。
「俺の、妻だよ」
「え、ええーっ!?」
だがすぐに驚愕の表情に変わる。それにまた俺は苦笑した。
この話をすると、大体皆こういう反応をする。見慣れたもんだが、一様に同じ反応をされると、こっちだってこんな反応になるってもんだ。
「サティは愛称でな。サティラってんだ、あいつは」
どこかぼんやりとした表情の、懐かしい笑顔が脳裏に過ぎる。
あいつが俺をいつまでもエイクちゃん何て呼ぶもんだから、ホシが最初に覚えた言葉もえーちゃんだった。
懐かしさにふっと鼻から息を吐く。だがそんな俺を、ロナはどことなく悲しそうな顔で見ていた。
「エイク様、結婚されてたんですね……。でも、それじゃスティアさんは……」
この国は一夫一妻制だ。侯爵以上は例外だったと思うが、まあ俺には関係のない話だろう。
しかし魔族の事情なんて考えた事は無かったが、この様子では向こうも同じらしい。
へにゃりと丸い耳を垂らすロナ。だが俺は軽く首を横に振った。
「いや、あいつはもう死んでんだ。流行り病で、大分前にな。今は男やもめってわけだ」
「えっ! そ、それは、あ、あの――っ」
「ああ、気にするな。もう十年以上前のことだからな。別に気にしてねぇよ」
慌てるロナに気にするなと手を軽く振る。確かに当時は随分と悲観したもんだったが、それももう十二年も前の事だ。
感傷に浸れるほどの悲しさなんて、もう時間に流され消えてしまった。今俺の内にあるのは、あいつと過ごした十八年という、大切な思い出だけだった。
「そんなことよりロナ。お前、ここにいて大丈夫なのか?」
しゅんと肩を落とすロナ。いくら感傷を抱かないとは言え、こんな空気は居心地が悪い。
場の空気を変えるため、先程言いかけた質問を投げる。
するとロナははっと顔を上げた。
「あ、いえ……スティアさんから、エイク様の事を頼まれまして。随分心配されてました。でも自分にはやることがあるからって。お婆さんの事も説得してくれて。まあ、最初は凄くびっくりしてましたけど……」
確かにロナの姿を目にすれば、あの婆さんでも流石に驚くだろう。
ただ、同時に思う。あの婆さんならきっと、このロナを見ても多少騒ぐだけで済んだんじゃないかと。
「心配かけたみたいだな……。悪いな、助かった。ま、あの婆さんなら大丈夫だろ。もう飛び上がって驚いて、騒ぐほどの若さはねぇよ」
「だ、駄目ですよ、そんなこと言っちゃあ。失礼ですよ」
俺が冗談めかして笑うと、ロナもつられて笑顔を見せた。
俺とロナは含み笑いを漏らし合う。だが不意に、そんな空気に割って入る者がいた。
「まったくだよ。失礼な話だ」
「――げっ」
俺とロナはバッと目を向ける。するとドアが軋んだ音を立てながら開き、その後ろから婆さんがぬうっと姿を現した。
「せっかく心配して来てみれば、アタシの陰口かい。元気があるなら自分のことくらい自分でしな。子供じゃあるまいし」
彼女の手にはトレイがあり、そこには食器が乗っている。どうやら俺のために食事を持ってきてくれたらしい。
体調が万全でないせいか、まるで気配が分からなかった。
「婆さん、こいつは――」
「ふん。どうせアタシは小さな事を気にするほど若くないさ。……この子の事は聞いたよ。説明らしい説明はなかったけど、でも危険はないんだろう? 見なかったことにしてやるさ」
心配そうに体を丸めていたロナは、ほっと婆さんを見上げる。端から見ると、婆さんがでかいタヌキを襲っているようにしか見えない。
俺はつい噴き出してしまう。それが癪に障ったらしく、婆さんはギロリとこちらを見下ろした。
「急に倒れたかと思えば、今度は人を笑い者にして。まったく何なんだい。ほら、これでも食べて大人しくしてな」
婆さんはこちらまで歩いてくると、トレイを俺に押し付けるようにして渡す。そこには野菜や肉を小さく刻んだパン粥があった。
俺が食べやすいようにしてくれたんだろう。まったく、ありがたいことだ。
「悪いな、婆さん」
「ふん……」
まあ作ったのはバドなんだろうが。それでも持って来てくれた事には礼を言っておく。
婆さんは面白くもなさそうに鼻を鳴らすと、背中を向けて部屋を出て行こうとする。俺達は黙ってそれを見ていたが、彼女はドアの前で足めると、そのまま立ち止まってしまった。
「婆さん?」
その背中に声をかける。ロナも不思議そうな表情で、婆さんを見つめていた。
彼女の胸の内には複雑な感情が渦巻いている。こんな状態では、流石に彼女が何を思うのかは俺にも分からなかった。
「……アタシからも一つ、聞いていいかい」
少しして、婆さんは振り返りながら口を開く。
「何でアンタは、そうしてまで手を貸してくれるんだい? 縁も所縁もないアタシに。そりゃ頼んだのはアタシだけどね。でも、ただの善意って思うには、どうにも見合ってないような気がしてね。もし理由があるんなら教えてくれないかい」
俺としては自分が倒れるなんてことは分かっていたし、別に死ぬような話でもないから、そこまで深刻には考えていなかった。
だがいきなり人がぶっ倒れれば、なんでそこまでと思うのも自然な事かもしれない。
婆さんは真剣な表情でじっと俺を見つめている。
とは言え、大した理由があるわけじゃない。どうにも困って片方の眉を上げる。
「理由っつってもな……。あの子供を助けられると思った。だからやった。理由なんてそんだけだ」
「そうかい? 信じられないねぇ」
婆さんは納得できない様子で軽く首を横に振った。
だが、本当にそうなんだよなぁ。
たぶん婆さんは俺が倒れた事を、かなり深刻に捉えているんだろう。一方当事者の俺は、全く気にもしていなかった。
この辺は恐らく言っても理解されないだろう。婆さんと俺達は会ってまだ短いからな。
スティア達からすると、またかよ、くらいに思ってるはずだ。それを婆さんに分かれってのも無理だろう。
とは言え他に理由があるだろうか。
何かあるかと改めて考えてみる。そして一つ、思い当たったことがあった。
「あー……そういや、もう一つあったわ」
「ふぅん……何だい、それは?」
婆さんは一歩踏み出す。顔が妙に真剣だが、本当に大した理由じゃないから勘弁して欲しいところである。
「んな大げさな話じゃないんだがな。実はアンタとな――」
似ている婆さんがいる。そんな無理やりひねり出した理由を口にしようとした時だった。
ドアを勢い良く開けて、一人の男が部屋に飛び込んできたのだ。
俺達三人は何事かとそちらを向く。目に映ったのはエプロンをかけたスーパーマッソウ――つまり、バドだった。
驚く俺達を目の前にして、彼はバタバタと踊り始める。だが何を伝えたいのか、ジェスチャーが下手すぎて全く伝わらない。
困惑を顔に滲ませる俺達。だがバドは俺達の前で手と足を激しく動かし、必死に踊り狂っている。
突然の奇行に、流石の婆さんも狼狽して後ずさった。
「どうした、バド……。もうちょっと落ち着けよ」
まあ落ち着いたところで、バドの肉体言語では何も伝わらんのだが。
俺が声をかけてもしばらくの間、バドは一人、必死に踊り続けていた。
たぶん喫緊の話なんだろう。だが、俺達にとってはただの筋肉の祭典だ。
目が覚めて早々、一体何を見せられているのか。
全く、暑苦しくて敵わんわ。