184.老婆の秘密
その日、太陽が沈み始めた頃に、婆さんは奥の部屋からひょいと顔を見せた。
まだホシは帰ってきていない。家には俺とスティア、そして狩りを終えたバドがおり、車座に座って話しているところだった。
現れた待ち人に、俺達三人の視線が一斉に向く。だがそこにあった顔は、どこか疲れたような表情だった。
「……何だい。アタシに惚れちまったかい? そんなに見つめるんじゃないよ」
婆さんはそうジョークを飛ばす。だが、今回ばかりは笑えなかった。
「何かあったのか? 婆さん」
「ん? いや……別に何もないよ。ちょいと森での騒ぎで疲れちまってね」
確かに森では一悶着あった。バドに抱えられて、あれだけのスピードを出されたのだ。老体に負担がかかったと言われても当然だろう。
だが、俺は騙されない。婆さんの胸中、その奥に渦巻く感情を、俺はしっかりと見抜いていた。
「なあ。聞いてもいいか、婆さん」
「ん? 何だい改まって。気味が悪いね」
俺は座ったまま婆さんに向き直る。スティアとバドも一緒に向き直ったことで何かを察したのか、婆さんの顔から笑みが消えた。
「今日採ってきたあの草の事なんだがな。あれ、一体アンタ何に使う気なんだ?」
「……ああ、あれかい? もちろん薬草だよ。今までと同じさ」
軽く笑って婆さんは嘘をつく。俺はそれに軽く息を吐いた。
「アンタだって分かってるんだろ? わざわざ俺がこんな質問をした意味がよ」
今度こそ婆さんの顔から余裕が消えた。真顔になった婆さんの、俺を見る眼光は鋭い。
だが俺にはその瞳がどうにも弱々しく映った。それはきっと、彼女の胸の内が分かってしまったからだろう。
婆さんの焦燥感が尋常でないことに、気付いてしまったからなんだろう。
「別にアンタが言いたくないんなら無理に聞く気はねぇ。でもよ、どうにも気になっちまってな。もし何かの事情があるんなら――」
「気づいてたのかい。……いや、そんな気もしてたんだよ」
俺の言葉を遮るように、婆さんは弱々しく言葉を発した。
彼女は顔を僅かに伏せ、軽く頭を横に振る。再び俺達に顔を向けた時には、先ほどまでの眼光はもう無かった。代わりにあったのは、どこか自嘲めいた笑みだった。
「もしかしたらこれも、何かの縁かもしれないねぇ。アタシは運命神なんて信じちゃいないけど、でも……老い先短いババアの頼みを、聞いてくれたのかもしれないねぇ」
今まで飄々としていた婆さんの、急に見せた弱々しい姿。俺達はつい顔を見合わせる。
「アンタ達、ただの冒険者なのかい? ランクEだと思っていたけど、どうにも違うみたいだし」
「それは――」
「ああ、別に構いやしないんだよ。傭兵相手に暴れるような連中だ。まともじゃないのは分かってるさね」
俺の言葉を遮り、婆さんは肩を揺らして笑う。その内容が面白くなかったらしく、スティアが不機嫌そうな声を出した。
「まともじゃないとはお言葉ですわね。わたくし達はアレに絡まれた被害者なんですのよ?」
「そうかい、それはご愁傷様だったねぇ。でもあいつらが代官の私兵だって分かってたんだろう? ならどっちにしろ、普通なら盾突かないもんさ」
気持ちとしてはスティアに同意するが、婆さんの言う事も間違いじゃない。貴族の私兵に正面切って反抗しようなんて、確かに普通ならやらないことだ。
俺達が言い返せないでいると、婆さんもそれを肯定と捉えたらしい。
「さっきも言ったけど、まあそれはいいんだよ」
と、すぐに話題を変えて来た。
「アンタ達、傭兵達と敵対してるくらいだからそっちの心配はしてないけど……。でもね、こっちの事情に深入りするってんなら、悪いけど最後まで付き合ってもらうよ。その覚悟はあるのかい」
そっちの心配。つまり、やはり代官絡みというわけか。
婆さんは真剣な表情でこちらを見据える。だがその話は婆さんが戻ってくるまでに、俺達の間で話がついていた内容だった。
俺達はそろって頷く。それに婆さんは、どこかほっとした表情を見せた。
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婆さんが寝ていた奥の部屋。そこに通された俺達は今、なんと薄暗い地下道を列になって進んでいた。
部屋に敷いてあったボロいカーペット。婆さんがそれをベロリとめくると、地下に降りる階段が現れたのだ。
先を進む婆さんの背に俺達も続く。彼女が持つランプが、土でできた通路を静かに照らし出していた。
「よくこんな道作ったな」
「あたしゃ土魔法にはちょいと自信があってね。あの家じゃ手狭だから、避難所代わりに別の場所にも居場所を作ったのさ」
「避難所ってなんですの?」
「そりゃ傭兵団から逃げるためさ。まあまだアタシの家の場所までは割れてないけどね。念のためだよ」
スティアが後ろから声をあげると、婆さんはそれに軽く答える。
確かにこの婆さん、傭兵達に連れ去られそうになってたもんな。ずいぶんと用心深い事だ。
「ただそれが、こんなことに役に立つなんて……。本当に、人生なんて分からないもんだよ」
だが続いた言葉にはあまりにも重い響きがあった。
思わず口を閉ざしてしまい、通路には気まずい空気が生まれる。
それを壊す者はいない。そのまま足音だけが響く通路を、俺達はゆっくりと進んで行った。
「ここだよ」
だがそれも僅かの間。数段の小さな階段が現れ、それを上った先。そこにあったドアの前で、婆さんは小さく声を発した。
少しだけ俺達の方を向いた婆さんは、すぐにドアノブに手を伸ばす。ギィィと軋んだような音が響き、ドアがゆっくり開いた。
俺達は一瞬視線を交わした後、中に入っていく婆さんに続いて、その部屋の中へと入って行く。
そして、絶句した。
そこは非常に小さな部屋で、棚だの薬草だのでごちゃごちゃとしていて分かりづらいが、おおよそ三メートル四方程度の場所だった。
その中央にはベッドが置かれている。そしてそこに一人の人間が寝かされていた。
「これは――」
俺は息を飲む。服から覗くそいつの手足は、まるで枯れた枝のように細く長い。
だが苦悶の表情を浮かべる顔だけはパンパンに丸く膨らんでいる。顔つきだけ見れば、まるで子供のようにも見えた。
だが、これは子供なのか? 体の大きさだけ見れば大人のようにも思えた。
わけが分からない状況に、言葉が出ない。だがそんな俺とは違い、スティアは手早くそいつの状態を確かめ始めた。
「この方は? お知り合いですか?」
「……代官の息子だよ」
スティアが視線を向けると、婆さんは苦虫を噛んだような顔をして答えた。
だが、代官の息子だと。俺達は一斉に婆さんを見た。
「この町の代官がとんでもない奴だってのは話したね。あの方は自分の思い通りにならない事があるとすぐに癇癪を起こす人でね。皆あの方の顔色を窺いながら、びくびくしていたもんさ」
促されるように、婆さんは目を閉じて静かに語りだした。
「でも、アタシも思わなかったよ。まさか自分の息子にこんな真似をするなんて。こんな……むごいことをするなんて」
彼女はそう言って、寝かされている男の頭を優しくなでる。
もしかして、このよく分からない状態が代官のせいだとでも言うのか。こんな体型まで変わっちまうようなもん、人間の所業には思えないんだが。
だが俺のその疑問に、婆さんは悲しそうにこちらを見た。
「これは呪いだよ。アタシも詳しくはないけど、たぶんね。アンタ達も分かってたんだろ? あのエクシル草は呪術の触媒だって。この子の呪いを解くのにどうしても必要だったんだよ」
なんと。俺は思わずスティアの顔を見る。
てっきり呪いをかける方だと思ったが、解く方じゃねぇかっ。
スティアも俺をちらりと見たが、すぐに目を逸らしやがった。おいコラ。
だがそんな俺達には気付かない様子で、婆さんは重いため息を吐く。
「でも……アタシの力じゃ、結局どうにもならなそうでね。この子がこのまま衰弱していくのを見届けるしかない。そう思ってたんだよ」
婆さんは俺達に目を向ける。
「この子は悪い子じゃないんだ。どうにか助けやりたいんだよ。アンタ達の力をどうか、貸してくれないかい」
彼女は俺達の顔をじっと見つめてくる。その表情には悲痛なものが浮かんでいた。