182.もうやらない決意
「皆さんお静かに」
人差し指を唇に当てながら、スティアがちょいちょいと手招きして俺達を呼んだ。
足を忍ばせ、皆がスティアのそばに集まる。彼女はそんな俺達に視線を巡らせると、状況を説明し始めた。
「この先に川があるようですが、どうもシルキーモスが群れでいるようですわ。数はちょっと把握しきれませんが、最低でも十はいるかと」
「ああ、確かに川があるね。あの草は川の近くに生えてるんだけどねぇ……どうにかならないかい?」
スティアの言葉を肯定しつつ、眉間にシワをよせる婆さん。流石に気合と根性じゃ魔物の群れはどうにもならんか。
とはいえランクCが十匹以上じゃ骨が折れるし、それ以外にも問題がある。
「みんな倒しちゃう?」
「下手に攻撃すると、鱗粉が周囲に飛び散る可能性がありますわ。そうすると採集どころじゃなくなりますわよ?」
ホシの簡単な提案には、スティアが問題を提起する。
そうなのだ。奴らの最も厄介な武器は鱗粉だ。ただこれは羽に付着しているだけなので、奴らが意図しなくても……例えば何かの衝撃なんかでも簡単に散ってしまう。
最悪地面が毒だらけに、なんてことも考えられる。
迂闊なことをすれば、あっ! という間に仲良くあの世行きだ。
「えーっ。めんどくさい」
ホシが皆の心の内を代弁する。そうだね、としか言いようがない。
「うーん。何か……そうだな。どっかに行くまで待つってのも手か? それか、あいつらが嫌がるような何かがあれば、追っ払えるかもしれないな」
「どこかに行くまでって、いつまで待つんだい。どこにも行かないかもしれないだろ」
「嫌がるような何か、ですか。うーん、わたくしはちょっと、思い当たりませんわねぇ」
適当に思ったことを言えば、婆さんには顔をしかめられ、スティアには眉尻を下げられる。まあそう都合よくはいかないよなぁ。
「バドちん、どうしたの?」
だがそんな時、ホシが不思議そうな声を上げた。見ればバドが、何やら背嚢をごそごそと漁り始めている。
何だろう。何か思いついたんだろうか。
俺達が様子を見ていると、バドは何かの革袋を一つ取り出した。彼はその紐を解き、口を開いて中を見せる。
そこには何かの乾燥した草が、荒く砕かれた状態で入っていた。たぶん料理に使うための調味料か何かだろう。
「これは、ハーブ?」
首をひねる俺、ホシ、婆さんの三人。だがスティアだけはそれが何か分かったらしく、不思議そうに声を上げた。
バドそれに首肯する。確かに袋を開けた瞬間に、何かの香りがふわりと鼻をくすぐった。とは言え、だからそれが何なんだって話だが。
「そうか。確か虫には嫌がる臭いがあるらしいね。それで思い出したけど、あたしがまだ子供だった頃に、レモンの皮を絞ったものを虫よけに使った覚えがあるよ。そういう事だね?」
「百年くらい前の話か?」
「うるさいよ。黙りな」
婆さんは感心したような視線をバドに向ける。
なるほど、つまりこのハーブを使ってシルキーモスを追っ払おうってわけか。よくそんなこと知ってるな、バドは。
ただただ感心する。しかし褒めたはずの婆さんが、残念そうにため息を吐いた。
「発想はいいけど、でもそれっぽっちのハーブじゃあねぇ……。仮にそいつが効くんだとしても、追っ払う程の効果は見込めないと思うよ」
婆さんの言う通り、確かにバドの持っているハーブは料理に使うには十分な量なんだろうが、虫の大群を追っ払うにはあまりにも少ない。
残念そうに肩を落とす婆さん。だが俺達はそろってニヤリと笑った。
「何、この量で充分だ。婆さん、面白いもん見せてやるから楽しみにしてな」
「何だって? ……あんた達、本気かい?」
そう。ただ臭いを嗅がせるだけならほんの少しで充分なのだ。それをここにいる皆はよーく知っていた。
俺はバドからハーブの入った革袋を受け取る。
「よし、それじゃ作戦を詰めるぞ」
そして皆の顔をぐるりと見回した。
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あの場所から真っすぐ進んだ先には、森を横切る小さな川と、その近くに群がるシルキーモス達の姿があった。
スティアの言った通りだ。数だけは予想外だったがな。
「……全然十匹どころじゃねぇぞ」
「凄い! いっぱいいる!」
こそこそと小声で話す俺達。シルキーモスは全体的に白っぽく、ふわふわとした毛も生えていてあまり虫っぽさはない。
だから敵対さえしないなら神秘的な光景とも言えるかもしれないが、そういうわけにはいかないのだ。
眼前でひらひらと飛び交う、およそ三十はいそうなシルキーモス達。ホシはそれを見て目を輝かせている。
だが今回戦う予定はない。だから大人しくしていてくれよ。頼むからな。
「貴方様、こちらは問題ありませんわ。いつでもどうぞ」
スティアが静かに近寄ってきて俺に耳打ちする。
この作戦が失敗した場合、肩を落として去ればいいだけだが、成功した場合はそうはいかない。全速力で撤退する必要があるのだ。
今俺達の最後方にはバドと婆さんがおり、俺のそばにはホシがいる。バドは婆さん、ホシは俺の退避役だ。
残るスティアはその中間。どちらのフォローにも入れるサポート役を頼んでいた。
俺はスティアに頷いて返すと、シルキーモスの群れを見据える。そして静かに魔力を練り始めた。
普段なら自爆技でしかないこの方法。だが今回は臭いが不快なものでないだけに、気持ちが非常に楽だった。
俺はゆっくり革袋の口を開ける。そして魔力を前へ飛ばした後、いつものように口にした。
「≪感覚共有≫!」
虫と人間とで感覚に違いはあるだろう。しかし臭いが苦手だってことなら、嗅覚にはさほど違いはないんじゃなかろうか。
俺は袋の中に顔を突っ込み、鼻から空気を思いきり吸い込む。爽快な臭いが鼻孔内に充満し、鼻全体が妙にスースーとした清涼感に包まれた。
物凄くクシャミがしたくなるが我慢だ。虫もクシャミってするんかね。
袋から一旦顔を上げ、効果のほどを確かめる。俺の目には、今までひらひらと漂っていたシルキーモス達の様子に、困惑が浮かんでいるように見えた。
「効果、あるみたいだよ!」
「よっしゃ! それじゃ続けるぞ!」
俺はホシと視線を合わせると、すぐにまた袋の中へと顔を突っ込んだ。
今俺がシルキーモス達にかけた魔法は、もちろん嗅覚の≪感覚共有≫だ。
主な使い方としては、狼などの鼻が利く相手に対してかけて鼻を潰すとか、単に相手を困惑させるとか、そんな方法がある。
ただ問題は、俺自身がその臭いを嗅がないといけないため、自爆技になるというところだ。
なので俺としてはあまりやりたくない魔法ではあった。
その点、今回は鼻がスースーするだけなので何も問題はない。あるとすれば今の俺の見た目だけだろうか。
袋に顔を突っ込み、必死に息を吸ったり吐いたりしている。まるで中毒者だ。
事情を知る相手以外には絶対に見せられない姿である。
「な、何やってるんだい、あいつは。頭が壊れちまったのかい?」
と思ったら、婆さんに詳しく話をしてなかった。
やばい。後でちゃんと説明しないとあらぬ疑いをかけられてしまいそうだ。
とは言え今はこっちに集中しなければ。
俺は思いきり鼻から空気を吸い込み、臭いを存分に堪能する。
「ぶえっくしょぉいっ!」
スースーする鼻に思わずくしゃみが出る。だがそれを我慢しつつ、俺は何度も何度も深呼吸を繰り返した。ついには涙がボロボロ出てくる。
ハーブの香りを嗅ぐだけだから大したことはないと思っていたが、とんでもない。やっぱりこれも自爆技だったわ。ちくしょう。
ムズムズする鼻に耐えながら臭いを嗅ぎ続けるという苦行を続けること数分。
不意に前方がバサバサとうるさくなった。
「来た来たーっ!」
俺が袋から顔を上げるのとホシが声を上げたのは、ほぼ同時だった。
「皆さん、退避しますわよ!」
「逃げろーっ!」
スティアの号令にホシが嬉しそうな声を上げる。かと思えばふわりと浮遊感を感じ、ひょいと俺の目線が高くなった。
俺達は一気に回れ右をして、その場から一目散に逃げだした。
「ぶえっくしょぉ! よっしゃあ! 突っ走れホシ!」
「おーいえー! ごーごー!」
ホシは俺の尻を頭上に持ち上げ、風を切って走り出す。バドも婆さんを小脇に抱え、すでに背中を見せていた。
後ろを向けば、シルキーモスの大群が凄い速さで飛んできている。嫌いな臭いから直ちに離れようと、急いで逃げ出しているのだ。
奴らはただ嫌いな臭いから遠ざかりたいだけだ。だから俺達に襲い掛かってきているわけじゃない。
とは言え流石に鉢合わせしては戦闘を免れないし、鱗粉の危険もある。今は逃げの一手だ。
俺はまた袋に顔を突っ込むと、思いきり鼻から息を吸い込む。
「ぶえくしょぉい!」
そしてまた盛大にくしゃみをこく。
奴らを川から遠ざけるためには嫌がらせを続けなければならない。だから俺は逃げをホシに任せて、臭いを嗅ぎ続けるわけだ。
だが、辛い。鼻水まで出て来た。くそう。俺がやるなんて言わなきゃよかった。
嗅覚を共有する作戦を考えた後はいっつも後悔して終わるのに、ハーブだからって完全に油断してたわ。ハーブ様すいませんでした。もう許して下さい。
袋に顔を突っ込んでボロボロ泣くおっさん。誰が喜ぶんだこんなもん。
酷すぎる。誰か助けてくれ。
「あははは! いっぱい追いかけて来てる! あたしはこっちだよ! 逃げろ逃げろーっ!」
俺の苦しみなど全く知らず、ホシは楽しそうに笑い声をあげる。
結構な数のシルキーモスがこちらに来ているはずなのに。どうかしてるぜ全くよ。
後ろからバサバサと羽音が聞こえてくる。心無しか徐々に近づいているような、そんな気がした。どうにも気になってしまう。
そういえば今、ホシが「あたしはこっちだよ」と言っていた気もする。
その台詞がどうにも引っ掛かる。何か嫌な予感がした俺は、袋から顔を上げて振り返る。
そして、見てしまった。
「どわぁぁぁっ!? な、何だぁ!?」
俺達のすぐ後ろ。そこはシルキーモスが押し合いへし合いの団子状態になっていた。俺の視界はもう、シルキーモスと飛び散る鱗粉で埋め尽くされていた。
ホシはちゃんと走っているが、しかし袋から顔を上げてやっと分かった。
こいつ、手加減して走ってるな!? いかもわざとシルキーモスの目の前をちょろちょろして、挑発までしてやがる!
「おい馬鹿、もっと真面目に走れ! 遊びじゃねぇんだぞ!」
「にゃははは! にゃははは!」
聞いてねぇよちくしょう!
十匹以上のシルキーモスが、押し合いへし合いで追いかけてくる。
虫の感情というのはよく分からないが、どうも連中も混乱しているようだ。
嫌いな臭いを無理やり嗅がせ続けた挙句、このバカが挑発紛いのことをしたのだろうから無理もない。
とはいえこの状況はかなりの危機だ。俺は鱗粉を吸わないようハーブの袋に顔を突っ込み、どうすれば良いか頭を動かす。
後ろには、鱗粉をまき散らしながらこちらに迫る、団子状態のシルキーモス。
ホシはこの状態だから全く頼りにならない。俺は俺で鼻水まみれの戦力外だ。
ならここで頼れるのはサポートを頼んだスティアだけだ。スティアを呼んで、なんかこう――いい感じにしてもらおう。それしかねぇ!
「スティ――」
俺は前にいるはずのスティアを呼ぶ。だが、そこにあったのは逃げるバドの背中だけだった。
いつもだったら呼べば飛んできそうなものを、こんな状況で一体どこに。
そう思った瞬間、俺の視界が陰った。
反射的に上を向く。俺の目に映ったのは、一つの人影だった。右拳には、暗闇を切り裂くような白い光がある。
その人物――スティアは、俺達とシルキーモスの間に勢いよく飛び込んでくる。
「”爆砕陣”ッ!!」
そして、拳を地面に叩きつけた。
あまりの破壊力に地面が沈み、土くれが激しく宙を舞う。間を置かず生まれた暴風に、俺達は一斉に吹き飛ばされてしまった。
「ギャーっ!」
「あーっはっはっはっは!」
叫ぶ俺に笑う馬鹿。シルキーモス達も切り揉んで飛ばされていく。
何でこんなことになったのか。普通に逃げるだけで済んだはずなのに。
やっぱり嗅覚の共感なんて碌な目に遭わねぇよ。
もう、絶対やるかってんだよぉっ! ちくしょーめ!