19.認めたくない覚悟
洞穴の中に入った途端、血なまぐさい臭いが鼻を突いた。
顔をしかめつつ、スティアがランタンを向けた先に目をやると、二人の魔族の姿が明るく照らし出されていた。
一人は狼の頭を持つ魔族。体には包帯代わりのボロきれを巻きつけてあるが、大きく負傷しているのだろう、脇腹の辺りが真っ赤に染まっていた。
地べたに寝かされているため、腹部が忙しなく上下しているのがよく分かる。呼吸が荒く、まさに息も絶え絶えという様子だ。
もう一人は狸の頭を持つ魔族。狼の魔族に寄り添っており、こちらに険しい顔を向けている。だが抵抗してくる様子は見受けられなかった。
特に危険はないと判断し、更に近づく。そして警戒から身を強張らせた彼らを見下ろしながら声をかけた。
「俺は神聖アインシュバルツ王国、第三師団団長のエイクだ。お前達は魔王軍所属の兵だとこのスティアから聞いたが、間違いないか」
「……ああ。間違い、ない」
狼頭の魔族はそう言うと、ヨロヨロと立ち上がる。
「ガザ様っ!」
狸頭の魔族が驚愕の表情を浮かべ、狼頭の魔族を呼ぶ。しかし彼は気にした様子もなく、そのままおぼつかない足取りでこちらに歩いて来た。
警戒したスティアが短剣に手をかけ、前へ出ようとする。だが、こちらへ近寄ってくる彼からは戦う意思がまるで感じられない。
俺はスティアを手で制しながら、近寄ってくる彼をそのまま見つめ続けた。
俺は《感覚共有》の影響もあって、相手の感情には非常に鋭敏だ。だが最近は、昔以上に感じ取りやすくなった気がしている。
支援魔法を使う機会が増えた弊害なのかもしれない。だが悪意を持っていそうな者を相手にする場合に、改めて《感覚共有》を使う必要がない点は、非常に助かっていた。
ヨロヨロ歩きながら俺の目の前まで来たガザと呼ばれた魔族。彼はまるで倒れこむようにどかりと地面に尻を突くと、その場であぐらを組んで座り込む。
無理を押して動いたせいだろう。彼の包帯からじわじわとさらに血が滲み出し、太ももにまでべっとりと付着し始めている。
しかし彼は気にしない様子でこちらを見上げた。
「俺は……アレキウス王国軍、第二師団、第四中隊……隊長のガザだ。抵抗は、しない……」
彼が発した言葉に、俺は無意識に顔をしかめてしまう。そんなつもりは無かったのだが、つい文句が口をついて出てしまった。
「それは”旧”だろう。アレキウス王国は既に三百年前に滅んでいる。その証拠に、お前達魔族が敗戦を察した途端どこかに姿を眩ませたおかげで、今回の戦争の賠償を求めることも、停戦に調印させることもできん。国もなければ首魁も不在だからな。こちらとしてはいい迷惑だよ」
俺の言葉にガザは少し悔しそうな表情を浮かべたが、特に反論をしてこなかった。
魔族が当時支配していた国、アレキウス王国は、事実三百年前、英雄王ヴェインによって魔王を封印すると共に滅亡させられている。
魔族からすればそれを認められなかったからこそ、今回の戦争で亡国の名を持ち出したのだろうが。
しかし戦争が終わった今となっては、理由などどうでもいい事だった。
「スティア。こいつは確かに魔王軍なのか?」
「はい、間違いありませんわ。このガザは、王国軍では”狂爪”の二つ名で呼ばれておりました」
ガザと名乗った男を見ながら訊ねると、スティアもそれに答える。
これに関しては予めスティアに聞いていたから間違いないのだが、まあ改めて聞くのはそう、偉そうに見せるためのポーズみたいなものだ。
俺はスティアの言葉を聞きながら、目の前の魔族への眼差しを一層強めた。
しかし。ここまでの重傷を負い、俺達という敵に追い詰められながらも、ガザの眼はまだ、何かの希望があるかのように光を宿していた。
それが何なのか。そう考えるとどうしてか、燻された煙のような気持ちが胸にむくむくと膨れ上がっていくような。そんな感じがした。
「”狂爪”の名は確かに覚えがあるな。魔王軍が王都から撤退する際に、殿を務めた部隊にいたと聞いた記憶がある。それに追撃をかけた第一師団は、逆に手痛くやられて追撃を諦めざるを得なかった、とか」
俺はじろりと視線を送る。しかしガザは視線を逸らさず、真っ直ぐに俺の視線を受け止めていた。
そんな眼差しを見ていると、思い出したくも無い顔を思い出してしまう。気がつけば俺の方が視線を外してしまっていた。
どうやら俺もまだ引きずってしまっているらしい。
自分の女々しさに小さく息を吐きながら、俺は魔力を練り始めた。
「ここに潜伏していた理由は何だ? ああ、嘘は言うなよ。俺にはそれが分かるからな。《感覚共有》!」
魔族二人に《感覚共有》をかける。今回かけたのは感情の共有だ。感情の起伏や変化を読めば、それが嘘かどうかはだいたい分かる。
感情を共有することのデメリットもあるが、まあ今はおいておこう。
《感覚共有》をかけられた二人はビクリと反応するが、そんな様子には構わずアゴで質問に答えるよう促す。
するとここで、狸頭の魔族が足を引きずりながら近寄ってきて、ガザの隣に座って深々と頭を下げた。
「それについては私が! どうか私に説明させてください! お願いします!」
「黙れ。エイク様はお前に質問しているのではない」
スティアが冷たく突っぱねるが、そいつは諦めず、更に頭を下げる。
「ガザ様は重症なのです! 説明するのも難しいかと! どうか……っ!」
「くどい! いい加減に――!」
「スティア、いい。こいつに話をさせる」
俺はスティアを止める。説明なんてどっちがしても変わらんだろう。もし怪しいところがあっても、突っ込めばいいだけだ。
狸頭の魔族は顔をはっと上げた後、「ありがとうございます!」とまた頭を下げた。
この魔族、名をロナというらしい。彼は名乗った後、彼らがここに潜伏することになった理由を話し始めた。
今から遡ること三年前。王国軍が魔王軍に対し反撃を開始したことが、今彼らがここにいることの発端なのだとロナは口火を切った。
王子エーベルハルトの帰還直後、王都が受けた被害は物的および人的いずれも甚大で、すぐに打って出るなど不可能な有様だった。
そのため王国は一年の間、王都立て直しのため防衛を重視し、攻勢に出ず、魔族からの攻撃に耐え続けるという決断を下した。
魔族らはそれに気を良くし、防戦一方だと王都へ苛烈な攻撃を加え続ける。だが、その状態が一気に崩れたのが、ロナの言う三年前に起きた戦だった。
その日、魔族のどんな攻撃に対しても固く閉じられていた城門が、軋んだ音を立てながら大きく開かれた。
開いた城門から王都へ雪崩れ込もうという魔族と、それを押し返そうという王国軍。彼らはお互いの存亡をかけ、激しくぶつかり合った。
勝利を目前とした魔王軍と背水の陣を敷く王国軍。二つの大軍は絶え間なく激突し続けた。
その拮抗状態は二週間もの間続くことになり、結果、王国南に広がるラザル平原は、骸と鮮血に覆われる屍山血河の地獄と化した。
魔族打倒に向け気勢に満ち満ちていた王国軍も、終わりの無い殺し合いと万を超える膨大な犠牲に、徐々に綻びが生じ始める。
勝敗の天秤が拮抗から次の状態へ移るべく、大きく揺れ始めた。
皆がそう感じ始めた頃だった。
恐ろしいまでの強さを誇る魔族も、人族やエルフ、鳥人族、さらには龍人族までもを擁する連合軍には抗いきれず、徐々に後退し始めたのだ。
その流れを見逃すような将は王国軍にはいない。千載一遇の好機だと、第一師団を筆頭に、第二師団、第三師団全てが一丸となり魔族軍を激しく攻め立てた。
魔王軍は、怒涛のように押し寄せる王国軍に押し返されながらも、その激流に飲み込まれまいと、必死で抗いながら後退して行く事になる。
しかし当然無傷とはいかず、抗いきれずに飲み込まれ、姿を消す魔族は多かった。
そして、それらの殆どはロナのような非戦闘員であったそうだ。
ロナの話に、なぜ非戦闘員が前線まで出ていたのか疑問に思ったが、どうも魔王軍の勝利が目前となっていたことで、薬師や医師を含む支援部隊も前線まで上がって来ていたらしい。
勇み足であったのだろう。だがそれはあくまでも支援が目的の部隊であり、正規の訓練を行っていない者も多く含まれる、戦う術を持たない集団だ。
戦場の真っ只中に放り込まれれば抗うことなどできるはずもない。彼らの殆どは抵抗虚しく、ばたばたと倒れて行ったそうだ。
しかしそんな非戦闘員も全滅は辛うじて免れる。それはひとえにガザが所属する第二師団第三大隊の働きにあった。
彼らは文字通り身を挺して殿を務め、彼らを逃がしたのだ。
第二師団第三大隊は壊滅したと俺は聞いている。だがその功績によってロナもまた命を救われ、以来ガザらと共にこの森に隠れ住むことになったそうだ。
「機を見て戻るつもりでした。アレキウス軍が近くまで来ればそれに合流し、それが叶わずともその時は歩いてでも戻ろうと。しかし、ガザ様達だけであれば戻れたものを、私が足手まといのせいで、その機会を失い……っ!」
そこまで言うと、ロナは額を地面にこすりつけるほどうな垂れ、ぶるぶると震え始める。しんと静まった洞穴の中に、彼の嗚咽が微かに響いた。
確かに、ロナは先ほど足を引きずっていた。戦場で怪我でもしたのだろう。
彼をかばいながら人族の住むこの国を抜けて自国に戻ろうというのは、確かに障害が多すぎる。誰の目にも触れずに脱出するというのは不可能に近かった。
口を挟まないが、ガザも苦々しい表情をしている。彼らの感情の動き方から、これまで嘘を言っていない事は分かった。
だが、ここにいたのは三年もの長い間だ。このロナを背負ってでも帰ろうと思った事が、一度くらいはあるはずだろう。
「お前は第二師団の中隊長なんだろう? 足の悪いそいつを担いででも、帰ろうと思えば帰れたんじゃないのか」
「……そうかも、しれない。だが……人族に、見つかれば……戦わずには、済まなかった」
「そうなれば、そいつを守りきれないからか?」
「――違うっ!」
ガザは少し言葉に詰まったが、観念したように話を続ける。
「俺は……もう、無駄に、誰かを……傷つけたくは、ない。それが……人族で、あったとしても……誰かから、家族を奪うのは……もう、御免だ……っ!」
彼は軋む音を立てる程歯を食いしばりながら、俯いて口を閉ざす。
何を考えているのかは分からない。しかし彼の悲しみか、後悔か、そんな強い感情が俺に流れ込んできた。
この戦争で何かがあったんだろう。かく言う俺だって、もう戦争なんて真っ平御免だった。
戦争に勝つ。言葉で言えばたったの数文字だ。
だがそれを成すために、あまりにも沢山の犠牲を強いられた。
俺自身、昨日話をした者が明日生きていないという現実に、何度打ちのめされたか覚えてすらいない。
ガザの言葉に思うところがあり、思わず黙ってしまう。するとそれを好機と思ったのか、ガザが意を決したように顔を上げた。
「エイク殿……頼みが、ある……!」
「それができる立場だと思うか?」
「曲げて! どうか……頼む……っ!」
ガザは両拳を地面に突くと、額を地面にこすり付ける。
「俺の……首は、エイク殿に、渡す! だが! 四人の、仲間だけは! どうか……どうか助けてくれ! 頼むっ!」
「ガザ様! そんなっ!」
ロナが悲痛な声を上げるも、ガザは微動だにしない。
そんな姿に俺は苦々しいものを感じていた。
俺はこの魔法を使って多くの魔族を尋問してきた。その過程で必然的に、魔族と言うものを断片的に知ることにもなった。
憎しみを糧に人族を殺し、それを当然と思う者が多くいた。だが譲れない意思を持ち、守るべき何らかのために戦っていた者も確かにいた。
魔族という人間をまざまざと思い知らされることになり、俺は、それが例え自分の仲間達を殺してきた敵であったとしても……心を揺さぶられなかったかと言えば、答えは否だった。
「エイク様! それでは私をガザ様の変わりにどうか!」
「ロナ! 馬鹿な……ことを、言うな……!」
「いえ! ここに潜伏することになったのは、全て私の責任です! どうか私を! それでどうかお許し下さい!」
「いい加減に、しろ……! ロナッ!」
ロナもガザと同じように両拳を地面に突き、額を地面にこすり付けた。
二人はそんな状態で言い合いをし始めたが、こんなものは見るに堪えない。俺はいい加減にしろと二人を一喝した。
「お前ら……! いい加減にしろよ……! そんな、お涙頂戴……! 俺には……効かねぇんだよっ! バカタレがッ!」
「貴方様。これ以上ないってくらい効いてますわ」
感情の≪感覚共有≫の長所は相手の感情が分かる事だ。だが短所もまた、相手の感情が分かってしまうところにあった。
情に絆されやすくなってしまうのだ。決して俺が涙脆いわけではない。
ロナが泣き始めたぐらいからずっと我慢していたが、もうそれも限界だ。涙腺決壊の秒読みがすでに始まってしまっている。
頭を深々と下げていたガザとロナも、顔を上げてぽかんとこちらを見てくる。
やべえよ雰囲気ぶち壊しだよ! 恥ずかしいから見るんじゃないわよ!
「ホシぃ! ちり紙くれっ!」
「はい!」
振り返り、ホシが手渡したちり紙で思いっきり鼻をかむと、それを丸めて彼女の手にポンと返す。すこぶる嫌そうな顔をされたが、今はそれどころじゃない。
袖で涙を雑に拭うと、俺は魔族二人に対して何食わぬ顔で振り返った。
「話は分かった。だが、その頼みは聞けそうに無いな」
「そう……か」
俺の言葉を聞くと、ガザはゆっくりと頭を垂れ、搾り出すように声を出した。
先ほどガザの目に希望があるように見えたのは、このためだったのだろう。
彼の表情を見たときから薄々気がついてはいたが、自分の首をかけて仲間の助命を嘆願することを、彼は既に覚悟していたんだな。
全ての力を吐き出し尽くしてしまったようにうな垂れているガザ。だが彼の二つの拳は、未だに固く握りしめられていた。
あんな悲痛な表情をする者を、俺はこの戦火の中多く見てきた。
死ぬことを悟りながら、一握の希望くらいは掴み取ってやろうという、そんな覚悟のこもった顔を。
誰かを助けるために、自分が死ぬ運命を受け入れてしまった者の顔を。
彼らは一体どんな気持ちで敵の前に立ち、武器を抜いたのだろう。どんな気持ちで戦い死んで行ったのだろう。
きっと怖かっただろう。きっと辛かっただろう。泣き出したかっただろう。叫び出したかっただろう。
でも、それでも。彼らは自分の命を犠牲にして、仲間のために散って行ったのだ。俺達のために散って行ったのだ。
そんな顔を見る度に、もう見たくもないと幾度願ったか分からない。そして軍を抜けた身になってすら、そんな顔をこの目で見ている現実に、戦争の業の深さを思い知らされた。
だからなんだろう。今も昔も、そんな顔をする者に対して抱く俺の気持ちは全く変わることも無く。
そして答えも一つしかなかった。
俺はうな垂れる彼らのもとへ、ゆっくり歩を進めた。
希望が潰えた彼らの心情が、胸に痛い程伝わってくる。もう十分だろう。
俺は≪感覚共有≫を切り、彼らの前で片膝を突く。
そしてガザの肩に手を置くと、仲間四人を助ける条件を彼に告げた。
「お前も生きろ。まだ諦めるな。お前が望むなら、俺達が力を貸してやる」
もう戦争は終わった。
あんな顔をする人間も、させる人間も、もう見たくは無い。沢山だ。
――エイクちゃん……ありがとう……っ。
幼き日に聞いたあいつの声がなぜだか、かつて見た光景と共にふわりと蘇った。