幕間.最後の一人
シュレンツィアが誇るランクBパーティ、”雪鳴りの銀嶺”。
その名は誰もが知っている。そう言っても過言ではないほど、この町での知名度は非常に高いものがあった。
その理由は、ランクBパーティである事もさることながら、二年前、町の防衛に貢献したという事実による。
町は彼らの勇気を称え、最上位冒険者としての地位へと彼らを押し上げた。彼らもまたかくあるべしと日々己の研鑽を積み、名声、実力共にその地位を確固たるものとしていた。
さて、ではそのパーティメンバーである剣士カイゼルは今どうしているのかと言うと――
「はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」
無様にも地べたに大の字になり、ひたすら荒い息を吐いていた。
「あーあ、情けないわねアンタ」
「うる、せぇ……っ」
ケティに呆れた視線を向けられるも、今は一言返すだけで精一杯。最上位冒険者としての姿はそこには無く、ゼイゼイと息を吐き地面と一体化するのみだった。
「お前だって初めはそうだったろうが」
後ろで聞いていたヴェンデルが汗を拭いながらぼそりと呟く。下手糞な口笛を吹きケティが誤魔化せば、ヴェンデルも笑って鼻から息を漏らした。
二週間ほど前は確かにケティだけでなくヴェンデルも、地面と恋人のように仲良くくっついていたものだ。
しかしあれから定期的に魔窟前からの走り込みを行い、内勁も鍛え始めた彼らの体力は、飛躍的な向上を見せていた。
今日もまた、半ば訓練場所と化している平原まで走っていたが、二人は額に汗を滲ませる程度で、軽く息を整えた後すぐに、思い思いに体を動かし始めていた。
「お前……そんなに、体、柔らかかったか?」
自分のすぐそばで柔軟を始めたケティに、頭だけを動かしてカイゼルが問いかける。
まだ股を割れるほどの柔らかさは無いものの、前に伸ばした足を抱くように体を折り曲げているケティにカイゼルは目を疑う。
「痛い思いしながら頑張ったからねぇ」
「頑張ったで、何とかなる……レベルじゃ、なかったと、思うが……?」
ケティはそう言って苦笑いする。しかしカイゼルはまだ納得がいかない様子だった。
「アンタもやる? 股を開いたら頭の上で爪先がこんにちはするようになるかも?」
「それ人間じゃ、ねぇだろ……」
「できるかできないかじゃない! やるんだよ!」
「できねぇよ、馬鹿……!」
どこかで聞いたような台詞を吐きながらケティはニヤニヤと笑う。それを聞いていたヴェンデルも、よく言うぜと軽く笑った。
既にあの大海嘯を終えてから三日が経っていた。
五時間にも及んだ激しい戦いで持てる全てを出し尽くし、出涸らしとなった面々は、戦いの後根城にしている借家へ帰ると、それぞれの部屋で泥のように眠り込んだ。
体に付着した汚れも、汗も、何もかもをそのままに、五人は丸一日以上を寝て過ごし、翌々日の朝方にぽつぽつと起きだした。
最初に起きたのはアーレンとジエナだった。その後すぐにケティ、ヴェンデルの順で起き出し、リビングで顔を合わせると、今まで無言だった四人の口からわっと感情が噴き出した。
内心どうなることかと不安だった戦い。それを皆無事に乗り越えられたことを仲間の顔を見て実感し、高揚感が爆発したのだ。
四人はお互いを抱きしめ合い、体を叩き合い、笑い合った。
二年前の悲劇がまた繰り返されるかもしれない。そんなことがどうしても、何度も頭を過ぎった戦いだった。
四人の目の縁には光る物も滲んでいる。
それは勝ったことに対する歓喜だったのか。それとも、仲間を失わずに済んだことへの安堵からだったのか。
わいわいと互いの健闘をたたえ合う四人。だがそこに最後の一人が顔を出すと、場の空気がさっと一変した。
「カイゼル」
急に静まり返ったリビングに、ヴェンデルの声が響いた。
その声色は他の三人に対するものとは違う。どこか配慮をするような、そんな感情を含んだものだった。
「……お前らが急に強くなりやがったのは、前言ってた訓練のおかげか?」
だが、そんなヴェンデルの心配を無視して、カイゼルは彼に鋭い視線を向ける。
その視線は敵意すら滲むようで。
ヴェンデルの頬は思わず緩んだ。
「だったらどうすんだ」
「俺にも教えろ。……頼む」
こうして翌日、カイゼルも伴って訓練に向かうこととなったのだった。
この四人が急に強くなった訓練なのだから、厳しいものだろうとカイゼルは覚悟をしていた。
しかし初っ端からこうまで体力を使わされるとは思っていなかっただろう。
大地に張り付いて十分ほど。ようやっと回復してきた体を地面から引きはがし、起き上がろうとしていた、そんな時だった。
「やってますね」
背後からの声に振り向くと、そこにはアーレンとジエナが揃って立っていた。
「大丈夫?」
「ちっ……お前らもか」
一応、という風にジエナが声をかけてくるが、カイゼルはそれに舌打ちを返した。
彼ら二人の息も若干上がっていたのだ。だからこの二人も走ってきたのだろうとカイゼルには予想できたが、だからこそ、自分ほどにも疲労していない事実に、カイゼルは苛立ちを隠せずにいたのだ。
カイゼルは悔しそうに顔を歪める。しかしジエナはそれに、
「自業自得」
と冷たく切って捨てて返した。
「ああ?」
「この訓練を始める前、ヴェンデルが貴方も誘ったって聞いた。でもそれを拒んだのはカイゼル自身。だから自業自得。そうでしょ?」
ふふんと自慢をするように言い放ったジエナに、カイゼルは言い返そうと口を開く。しかし彼女の言うことは嘘偽りのない事実でしかない。
結局何も言い返す言葉を見つけられず、
「けっ」
と返して視線を反らすだけだった。
「さてさて、それでは早速準備をしましょうか」
そんな二人の様子を尻目に、アーレンは背負ってきた背嚢をいそいそと降ろすと、その中から羊皮紙や木板などの道具を取り出し、その場に座り込んだ。
「……お前は何してんだ?」
「いえ、様々な可能性を見せてもらいましたからね。僕も魔法陣を学んでみようかと思いまして。同志から屋内でするのは危ないと聞いていますから、こうして色々と持ってきたんですよ。フフフ」
「そ、そうか」
珍しくうきうきとした様子で話すアーレン。その口調もやや早口で、沸き立つ好奇心が抑えられないといった様子がありありと現れている。
引きつったような返事をするカイゼルのことも気にも留めず、さっそく木板の上に羊皮紙を置き、手本か何かを見ながら、サラサラと何やら書き始めた。
「……大丈夫なのか?」
「こんなアーレン初めてだもの。私にも分からない」
「おい、お前の弟だろうが」
「アーレンのことだから、多分大丈夫。……だと思う」
「多分かよ」
こそこそと話す二人の耳に、カリカリとペンを走らせる音のみが聞こえる。
目を爛々と輝かせるアーレンに何も言えず黙っていると、カイゼルの背中に声がかかった。
「ちょっとーカイゼルー! 動けるならこっちに来なさいよーっ!」
少し離れたところでヴェンデルと模擬戦をしていたケティが、ブンブンと頭上で大きく手を振っている。
「チッ……分かった! 今行くから待ってろ!」
「すぐ来なさいよー!」
膝に手を突いて立ち上がると、カイゼルはそちらへ向かう。彼を待つように、ヴェンデルとケティが彼を見つめていた。
二年前、カイゼルは親友を失った。それは己が認めた唯一人の男であり、彼の目標だった。
元々”雪鳴りの銀嶺”というパーティの名は、”銀雪花”のリーダーだったジェドに対抗してカイゼルがつけた名前だった。
ドゥルガ山の頂を目指すという目標も、ただただジェドへの対抗心からくる仮初の目標でしかなかった。
しかし時の移ろいと共に、ただの対抗心から生まれただけのその目標は、ジェドと友誼を結んだことでカイゼルの夢に変わった。
親友と二人、ドゥルガ山の頂からハルツハイムを見下ろした景色を見てみたい。そんな渇望へと変貌を遂げていた。
そんな思いを胸に親友と切磋琢磨した数年は、彼にとって苦しくも濃密で、最も充実した、輝きに満ちた時間だった。
自分の人生において、今ほど生を実感できる瞬間は無いと言い切ってしまえるほどに。
しかし、それは泡沫の如く消え去ってしまった。
ランクB冒険者を目指すという目標も、ただただ過去にしがみつき、親友との誓いを見失わないための方便でしかなかった。
カイゼルも分かってはいた。しかしそんな自分の弱さを、彼はどうしても認められなかった。受け止められなかった。
親友を失ったばかりか、前へ進むこともできなくなった。
そんな自分がどうしようもなく弱い人間だと突き付けられたように思えて、カイゼルの心はこれ以上なく荒んでしまっていた。
だが。
そんな中、彼は英雄の姿を見た。
大海嘯の折、彼が怯えるしかなかった相手に対し、勇猛果敢に一人で立ち向かうその男の背中に、彼は光を見た。
元々カイゼルが己の腕を頼みに生きようと決心した切っ掛けは、幼い頃に土の勇者に対して強い憧れを抱いたからであった。
ただ彼の場合はそれだけではない。
「俺だったら、無傷で魔物を全滅させてやるぜ!」
同時に、命を賭して偉業を成した勇者に対抗心をも抱いていたのだ。
年頃の生意気な子供だったならそんな対抗心も可愛いもので、年を経て大人になれば微笑ましい記憶となったことだろう。
ただ彼の場合それとは異なる。少年から青年とへなり、そして大人に成長してもなお、彼の心の奥底で熾火のように、その思いが燃え続けていたのである。
ともあれ勇者の生きざまに魅了され、カイゼルは冒険者となった。
そして他の冒険者達に慕われ、中心にいることの多いジェドと知り合ったことで、彼に対抗心と、それに相反する憧憬を抱き、結果彼と友誼を交わす事となった。
英雄に憧れながらも対抗心を抱く男、カイゼル。それは単純な英雄願望ではなく、自分は英雄にはなり得ないが、しかし実力では負けたくないという、斜めに構える彼らしい捻くれた願望だった。
だからこそ、彼は思う。
(あの時見た剣技……。確か、王国軍には”紫電剣”とか呼ばれる奴がいると聞いたことがある。一振りで相手を何度も切り裂く迅雷の剣とも聞いたが、もしあのおっさんの剣技がその紫電剣だったなら。俺がものにできれば、対等に戦えるってことだ)
エイクの放った”烈光輝剣”をその目で見た彼は、それが噂に聞く紫電剣だろうと当たりをつける。
そしてそれをものに出来れば、きっと英雄と呼ばれるような人間と渡り合えるのだろうとも。
(中級精技の”烈光輝剣”か。今の俺にゃ使えもしねぇ精技だ。……けどよ、だからって簡単に諦められるほど、俺は物分かりが良くはねぇんだよ!)
己の腕を、英雄と呼ばれる者達が辿り着く高みへと昇華させるため、彼はまた前を向く。
自分が英雄と呼ばれるような高尚な人間でないとは知っている。けれど、強くなりたいという、ただそれだけの純粋な思いを失えるほど、彼は素直な人間でもなかった。
(やってやろうじゃねぇか。見てろよジェド。お前を超えて、俺はもっと強くなってやる。あのおっさんだって超えてみせるからよ……そっちで指を咥えて見てるんだな!)
彼の顔には挑戦的な笑みが浮かんでいた。平原の草を踏みしめる足も、木剣を握り締める手も。今までのように覇気のないものではなく、活力に満ち満ちていた。
ケティとヴェンデルは、そんなカイゼルの様子に、顔を見合わせて笑う。
”雪鳴りの銀嶺”、最後の一人がやっと戻ってきた。らしくもなく後ろ向きだったカイゼルが、やっと前を向き始めた。
胸に溢れる思いをぶつけるように、今までの蟠りを吐き出すように、彼らは激しく武器をぶつけ合う。全力で戦う彼らの顔には満面の笑みが浮かんでいた。
平原に吹く風に吹かれながらジエナは思う。やっと戻ってきたのだと。バラバラだった心が、思いが、二年越しにまた”雪鳴りの銀嶺”に集ったのだと。
彼女の頭には、今までの苦労が走馬灯のように蘇っていた。
この二年間、サイラスに憎悪を向け続け、明らかに変わってしまったパーティメンバー。
そんな彼らを何とかしようと、ジエナは二年の間ずっと苦心し続けていた。
しかし、ジエナはそれをどう修復したら良いか分からなかった。こんな時頼りにすることの多い弟、アーレンも、サイラスには関わるなとしか言わず、当てにできなかった。
時間が流れるにつれ、パーティの雰囲気はどんどん悪く変わっていく。徐々に侵食していく腐臭のような空気に、ついにはジエナも諦めかけたのだが。
――笑ってりゃよ、どんなことでもきっと何とかなるっしょ!
ジエナの頭に懐かしい響きが蘇る。それは、”雪鳴りの銀嶺”のライバルであったパーティ”銀雪花”のリーダー、ジェドの口癖だった。
非常にずぼらでいい加減な男だったが、いつも笑顔を絶やすことなく、どんな苦境でもカカカと笑い飛ばす。そんな彼を憎むものはおらず、彼をライバル視するカイゼルすら、彼の前ではつられて笑顔になるほどだった。
ジエナもまたそんな彼に呆れつつ、しかし特別な感情を彼に抱くまでになっていた。だから、彼女は思った。
(私も……笑えば、皆を笑顔にできるかな?)
まるで蜘蛛の糸のように細い望みだが、自分には他に手段が分からない。ジエナはジェドの笑顔を思い浮かべながら、彼の思想に身を任せることにした。
だが、ジエナは人を笑わせようとしたことなど今までなかった。
思うように人を笑わせることができず、自分へのいら立ちは募るばかりだった。更に徐々に空気の悪くなるパーティへの焦りも手伝い、空回りばかりしていた。
二年という長い時間をかけてジエナは徐々に擦り切れていく。奔走した結果、結局何の成果も得られないままで。
ジエナの心はぽきりと折れた。
もう冒険者を辞めようか。そう膝を突こうとしていた。
そんな時だった。
「今の自分の姿を想像してみろ。そんなんでいいのか? お前は」
彼女の目の前に、おかしな男が現れたのだ。
その男はカイゼルに対し、彼女の心の内を代弁するかのように、そうはっきりと口にした。興味をそそられ隣で話を聞いていただけだったが、萎れた心がドキリと弾んだのが分かった。
何よりも、男のまとう雰囲気がどこかかつての思い人と重なり、ジエナの萎え果てた心に息吹を吹き込んだ。
運命神の采配を感じたジエナは、そうしてあの日町を走ったのだ。謝りたいなどという言いわけを引っさげ、ケティとヴェンデルを巻き込んで。
あの人ならきっと何とかしてくれるだろうと、自分の直感を信じて。
そしてそれは間違いではなかった。
(おっちゃん、本当にありがとう……。私達を救ってくれて)
二年間の苦労がやっと報われた。薄っすらと涙を浮かべながら彼女は笑う。
それはこの二年の間に彼女が見せていた珍妙な笑みではない。それとは全く異なる、本当の意味で彼女らしい、温かく穏やかな笑顔だった。
清涼な秋風が草原を吹き抜けていく。その風に乗って、武器を打ち付け合う軽快な音とアーレンの悲鳴が、秋の空に明るく溶けていった。




