154.父と娘
リリ達がシュレンツィアに逗留して五日目のこと。
夕食時に、明日の朝シュレンツィアを出立するとリリに告げられた伯爵は、それを惜しみはしたが、しかし引き止めるようなことはせず、明日の朝見送りたいと口にするだけに留めた。
とは言え伯爵家としては、このまま恩人であるリリを手ぶらで出立させるような真似はしたくない。
伯爵はフォークとナイフを静かに置き、部屋の隅に待機するベルナルドを視線で呼びつけた。
伯爵は三人が徒歩で旅をしていると聞き、彼らへ贈るものとして何が妥当なのかについて検討を付け、既に動いていた。
その件をベルナルドに聞けば、もう用意はできているとの返事があり、伯爵の顔に喜色が浮かんだ。
そうして彼の思惑通り、リリ一行に伯爵家から馬車を一両贈る運びとなった。
それを告げられたリリ達が喜ぶ様子を見ながら――リリよりも共の騎士のほうが大層喜んでいる気がしたが――夕食を終えた伯爵は、寄り道もせず再び執務室へと戻ると、山積みの書類達を相手取るため、倒れこむように椅子へドカリと腰かけた。
類を見ないほどの軽微な損傷で町を守り切ったシュレツィア。とはいえ大海嘯によって受けた被害は、無視できるような小さいものでもなかった。
大海嘯を迎え撃った者の内、重傷者は五百人を超え、死者も少なからず出た。
さらに西と南の大通り、そして南西の住宅街が被った損害も甚大であり、城内には傷ついた者や、避難先のない町民達の多くが一時的に留まっている状態となっていた。
幸い意欲的な町民達が自主的に動いているため復興のペースは早いものだったが、しかしやるべきことは山積みで、その対処に追われるようにアルベールは忙しい日々を送っていた。
今もまた疲労の取れない体を押して、睡眠時間を削りながら、こうして処理待ちの書類達と格闘していたのだった。
彼が机についてからどれだけの時間が経った頃だったか。目に疲労を感じアルベールが眉間を揉んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。
またベルナルドが気を利かせて茶でも持ってきたのか。そう思い、つい気の緩んだ声を返してしまったアルベール。
「お父様。わたくしです」
だが向こうから帰ってきた声は娘のフィリーネのものだった。彼は意外な声に、思わずドアへ顔を向けた。
「……入りなさい」
フィリーネは最近らしくもなく、どうにも消沈している様子だった。それを思い出しながら、面倒事よ増えてくれるなと願いつつ、アルベールはドアの向こうへ声を返す。
一呼吸ほど置き、ドアが静かに開く。そこにはやはり、思い悩んだような様子のフィリーネが静かに立っていた。
「どうしたフィリーネ。こんな時間に」
仕事に没頭していて時間の感覚がなくなっていた伯爵。彼は掛け時計をチラリと確認してから、目の前に立つ娘にそう告げた。
普段であれば、既に娘は就寝している時間だ。それがどうして、と。
昔からやや思い込みの激しい娘であることを知っているアルベールは、その理由に思い当たりながらも口を開かず、彼女自身が説明するのを待つことにした。
「お父様……わたくしはあれからずっと考えておりました。でも、分からないのです。一体何が正しいのか。わたくしが間違っているのか、それとも――」
しばらくの間顔を伏せていたフィリーネ。やっと上げた彼女の顔は、まるで飼い主に捨てられてしまった犬のように、しょぼくれ果てたものだった。
娘のそんな顔を見て伯爵は思い出す。フィリーネは昔から白と黒をはっきりと分けないと気が済まない性格の娘であったことを。
あまり立場を気にすることなく、良いものは良い、悪いものは悪いと断じるその気質を、竹を割ったような性格と言えば聞こえは良いのかもしれない。
しかし貴族として立つのなら、正しいばかりではなく、時には清濁飲み込む必要がある場合も当然あった。
物事の是非だけではなく、結果も重視する。それができない人間は、貴族としては落第点をつけざるを得なかった。
幸いにもフィリーネは娘であり、家を継ぐ必要もなかったため、政治的な部分に触れる機会など望まなければ少なくて済む。
そう判断した伯爵は娘に対して、あまり貴族としての後ろ暗い部分についてこれまで教育をしてはこなかった。
政治から遠ざけることのできる嫁ぎ先を見つければ良い。それが彼女のためなのだと、娘の幸せをただただ願っていた。
娘の婚約が白紙撤回となった際にも、実は婚約者が傭兵団に泥酔させられた上に媚薬を盛られた末、夜に忍んできた頭の娘”に”押し倒されてしまった結果であることを伯爵は知っていたが、しかし娘にはただ、婚約者の浮気で破談となったとだけ伝えるに留めていた。
ハルツハイム家が侯爵から伯爵に降爵された際にもその理由を明言せず、建前だけを伝えるに留めていた。
娘の心を煩わせまいと、伯爵はずっと彼女を政治には関わらせないように務めてきた。
その結果、騎士と共に訓練し始めたのは予想外過ぎて困惑したものの、それも娘にも気持ちを整理する時間が必要かと思い、彼女の好きにさせてはいた。
無論身に危険があるようなことをする前は、事前に彼女を試すような真似をして、結果を見定めることはしたが。
ただ、それがまさかこのような結果を生むとは、彼は夢にも思っていなかっただろう。
(もしフィリーネを叱責し訓練を押し留めていたら、どうなっていたのであろうな……。いや、その結果エイク殿と娘に縁が生まれ、シュレンツィア――いや、我が領が救われたのだ。この結果は天啓だったのやもしれん)
目の前で、自分の価値観と現実が抱える問題との狭間で苦しむフィリーネ。その顔を見ながらどうすべきなのかとアルベールは考える。
そしてそんな父を、フィリーネは不安そうに見ていた。
思い悩む二人の間にはしばしの間沈黙が生まれる。
最初に口を開いたのは、伯爵の方だった。
「フィリーネよ。以前お前は、なぜ我らハルツハイム家が降爵されなければならないのかと、私に問うたな。罪などないと、そう言ったことを覚えているか」
彼は不意に、フィリーネが全く思わなかったことを口にした。
突然の脈絡のない話にフィリーネはわずかに身じろぐ。しかし彼女は、父が必要の無いことを口にしない性格であることを承知していた。
「はい。覚えております」
その問いへ疑問を呈さず、彼女は小さな声と共に首肯した。
ゆっくりとした口調で、アルベールが理由を聞きたいかとまた問いかけてくる。フィリーネもまたそれに首肯し、更なる父の言葉を促した。
そうして彼女は思いがけず、ハルツハイム家降爵の裏話を聞くこととなる。
「以前話したな。我らを謀らんとする者がこの国にいるという話を――」
ぎしりと背もたれに体重を預けながら、伯爵はそう前置きをすると娘と視線を合わせた。
「我らハルツハイム家に対し仕掛けてきたのは、三大公の一つ、クンツェンドルフ家だ。以前からどうにもキナ臭い動きを見せていてな、警戒はしていたのだが、まさかこのような時期に仕掛けてくるとは思わなかった。大胆不敵と言えば良いのか、無知蒙昧と言えば良いのか――」
「なっ……! お、お待ち下さい!」
ふぅと呆れたような息を吐く伯爵の言葉を、焦ったようなフィリーネの声が遮る。
「クンツェンドルフ家? あのクンツェンドルフ家ですか? 魔術学院で歴代の学長を勤めている、あの?」
「魔術学院だけでなく、王宮魔術師団の長もクンツェンドルフ家に名を連ねる者だがな。まあそのクンツェンドルフ家だ」
まさかの真実に目を見開き絶句するフィリーネ。だがアルベールはそれに構わず話を続けた。
「少し前にも言ったが、クンツェンドルフ家が仕出かしてくれた事実は二年前に露見していた。だが魔族と戦火を交えていた当時、奴らの謀略の証拠を王家に提出した我々は、内輪揉めをしている場合ではないと言う王家からの提案を飲み、降爵に合意したのだ。此度の降爵は、我々ハルツハイム家も合意の上行ったものだったのだよ、フィリーネ」
「い、意味が分かりません! なぜお父様はそのようなことに合意されたのですか!?」
「我らが降爵されたとなれば、我々の権威の失墜を目論んでいたクンツェンドルフ家からすれば喜ばしい事。その結果が得られれば、奴らが我らに対ししばらく仕掛けては来なくなるだろうと見越してのことだ。それに王家との取り決めで、我々は戦争に参加する必要が無くなったのでな。奴らの目が向けられていなれば、戦時の混乱を隠れ蓑に自由に動くことができたのだよ」
煮え湯を飲まされたまま黙っているような物分かりの良い人間はハルツハイムにはいない。無論私もだと伯爵は厳しい表情で言った。
かつてのフィリーネならばその気迫に口を開けなかったことだろう。しかしこの二週間でエイクにいい様に――いや、厳しく指導されたフィリーネは、一瞬気圧されたものの身を乗り出す。
「し、しかしっ! 貴族にとって降爵など末代までの恥! お父様だってそれを理解しておいででしょう!?」
フィリーネの言うことは、貴族であれば至極当然の疑問だった。
降爵となれば王家に背信行為を働いたと同義である。そうなれば当然、貴族社会で生きていくことが容易でなくなるのは火を見るよりも明らかであろうと。
しかし。
「我らがそれで被る不利益など無いに等しい。我々が守るべきは権威ではない。国なのだ、フィリーネよ」
父は娘に、優しく諭すように返した。
「お前の言うことも分からんでもない。だが理由もわからないまま、あの戦乱の中クンツェンドルフ家に目の敵にされる状況を考えれば大した問題ではない。それに、この件が終わればいずれ報いると王家より確約も頂いている」
クンツェンドルフ家の画策によって甚大な被害を被ったハルツハイム。そんな伯爵に対して、さらに権威を失い貴族生命すら危うくすることになるこの判断を飲めば、復興の際に多額の補助金を出すことに加え、十年間の納税を完全に免除することを王家は提案した。
騎士団の主力が引退を余儀なくされ、力を大きく落としたハルツハイムにとって、その申し出は渡りに船だった。
お互いの利がかみ合い、そうして王家とハルツハイム家の密約が結ばれたのである。
「お前にはただ王家から降爵を申し付かったとだけ教えたが、実際はクンツェンドルフ家の陰謀を破るための密約だったのだよ」
三大公の一つが私利私欲のために王国を混乱に陥れようなど、看過出来ようはずもないからな。そう話を結んだ伯爵は、ふぅと長い息を吐く。
そしていつの間にか前傾姿勢となっていた体を、労わるようにゆっくりと背もたれに預けた。
寝耳に水の話に返す言葉も見つからず、口を半開きにしたまま立ち尽くすフィリーネ。
伯爵は乾いた眼を湿らせるように瞼を閉じていたが、その目を開いてもまだ、彼の娘はその場所で棒立ちをしていた。
かの栄えある三大公が己の家を目の敵にし、その結果多くの人間が世を去ることになった。
それどころか、下手をすれば国が滅亡したかもしれない。だというのに、公爵家が軽率にもそれを実行した。
権威ある貴族の、意味不明とも思えるあまりにも短慮な振る舞い。そしてそれを王家と共謀し取り潰さんとする父。
想像だにしなかった内容に、フィリーネの頭は処理が全く追いつかなかった。
仕方なしに、伯爵は娘の背を軽く押す。
「この世に真実は一つしかない。だが真実と言うものは往々にして、闇に隠されていることもある。だからこそ、己の知るものが必ずしも真実とは限らない。なら何が真実になりえるのか? ……分かるか? フィリーネ」
静かな問いかけにふるふると首を横に振るフィリーネ。それを見たアルベールは目を細め、優しく鼻で笑った。
「少なくとも、部屋に閉じこもって頭を捻るだけでは、真実など見えはしまいよ」
フィリーネは、戸惑うようにその美しい金色の瞳を父親へと向ける。
「お父様にはそれが見えていらっしゃるのですか……?」
「無論、お前よりは、な」
これでもハルツハイムの領主なのだぞ? と、アルベールは娘の余裕のなさに苦笑いしつつ肩をすくめた。
二年前までは、アルベールもまた間違いなく、軍に所属するエイクら盗賊一味に強い猜疑心を持っていた。
盗賊風情が師団長などとは嘆かわしいと、口には出さないものの、胸の内ではそう思っていた貴族の一人であった。
しかしシュレンツィア防衛戦を契機に、その認識は大きく変わることとなった。
二年前に受けた魔族の襲撃。そしてその後第三師団から送り付けられてきた黒幕の一味。
第三師団がシュレンツィアを守るため尽力したことを当事者であるアルベールも承知していたが、しかし師団長とはいえ相手は下劣な盗賊であることは間違いない。
その行動を素直に厚意だと思えなかったアルベールは、ベルナルドにクンツェンドルフ家の件と併せてエイクらの調査についても指示をした。
ベルナルドもまたエイクらに対して強い嫌悪感を抱いており、その調査は非常に綿密に行われることとなった。
しかし。その結果もたらされたのは、彼らが無意識に期待していたような結論では無かった。
アルベールは今でも覚えている。あの時の、自分達の常識を粉々に破壊した、頭を撃ち抜くような強い衝撃を。
アルベールはキャビネットから一通の手紙を取り出すと、フィリーネを手招きしそれを手渡した。
不思議そうな顔をしながらそれを受けとり、開き、そして目を丸くする娘。その表情を見ながら、アルベールは楽しそうに含み笑いをした。
「あの男、大海嘯だけでは飽き足らず、さらに我らを救ってくれるようだ。部屋にこもっていたお前には分からんだろうが、我が師オーギュスティーヌや騎士団はすでに、その手紙の内容について動き始めている」
さてフィリーネよ。そう言ってアルベールは娘を見据える。
「お前は問うたな。何が正しいのかと。だがそれを教える言葉を私は持たん」
娘が己と同じ轍を踏まんとしている。しかしそれを自分の口から伝えることを、アルベールは良しと思わなかった。
「真実を知りたいのなら、己自身で見定めてみよ」
突き放すように言い放つアルベール。しかしその双眸は厳しい物言いに反して、慈しむような優しい色を湛えていた。




